医学界新聞

連載

2014.09.15



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第15回】
ジェネシャリストの三角形

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 第13回(第3086号)で,ジェネシャリストの基本形は上を向いた「三角形」のようなものだ,と述べた。これについて,もう少し説明したい。

 ジェネラリストは「広く,浅く」の横に平たい四角形のイメージである。スペシャリストは「狭く,深く」の縦に長い四角形のイメージである。

 ジェネラリストは,ある領域に突き抜けたような専門的な技術や知識を有しない。それを持っていれば,すでに彼(彼女)はその領域のスペシャリストであるはずだ。肩書きや,専門医資格とは無関係に。

 スペシャリストは,自分の専門領域においては他を圧する技術や知識を有している。しかし,その他の領域については全く知識がないか,聞きかじり程度の知識しかない。他の領域においても広く知識や技術を有しており,これを駆使していれば,彼(彼女)はジェネラリストとして機能するであろう。

 ……というのが,古典的なジェネラリスト・スペシャリスト二元論である。拙稿ではこの二元論の不毛さを長く説いてきた。そして,新しいモデルである「ジェネシャリスト」という在り方を提唱したい。それは,横に長く,縦にも(一部には)長い,三角形のイメージである()。

 ジェネシャリストのイメージ(三角形)

 もちろん,人間が身につけられる知識の総量には限界がある。総量の大きさは各人のキャパシティーや努力にもよるが,「限界がある」という一点においては変わりない。なので,かつてファウスト博士が望んだように世の中の全てについて知ることなど,到底かなわないことだ。医学の世界に限定しても,やはり無理。

 しかも前回述べたように,医学知識のエクスパンションはどんどん加速化していくので,この無理加減はどんどん増していく。もちろん,インターネットとデータベースの発達により,知識の獲得そのものはかつてないほど容易になっている。今後はもっともっと容易になっていくだろう。一部の出版社が行っているような過度の金もうけ主義,情報の有料化がはびこらなければ,だけど。

 しかし,自分が知らないという自覚がなければ,そもそも「調べてみよう」というインセンティブすら発動されない。かくして調べないまま,の状態がほったらかしになるのである。これが知らないことを知らない,「無知」の状態である。

 スペシャリストは,自分の専門領域以外の項目について無関心だから,それについては一切勉強しない。しかし,患者がそのスペシャリストの問題「だけ」を抱えていることは,むしろまれなことだ。かくして,専門領域外の「やっつけ仕事」が始まる。栄養,点滴,抗菌薬,疼痛管理,血圧管理,血糖管理,ぜーんぶやっつけ仕事になる。薬の相互作用などの薬理学的な事象,患者のメンタルヘルス,リハビリ,家族との人間関係や金銭的な問題,全てほったらかしだ。

 ジェネラリストは,広くて包括的なケアを得意とするが,各領域がどれだけ深くて遠い世界を持っているかについては知らないことが多く,また無関心だ。「自分は,ランダム化比較試験の臨床アウトカムを示した研究以外は一切読まない」と豪語するファンダメンタルなジェネラリストもいるが,その臨床試験のデザインに乗っかれない患者さんも世の中にはたくさんいる。

 そうすると,基礎実験,動物実験の知見,エキスパートの経験,さじ加減などが「best available evidence」ということになる。しかし,しばしばそのような知見はファンダメンタルなジェネラリストの冷笑の対象となる。「あの専門家は最新のRCTすら読んでいないよな,へへ」みたいな冷笑をぼくは一度ならず聞いたことがある。

 しかし,ジェネシャリストはいずれの態度も取らない。

 ジェネシャリストはジェネラリスト的な広い領域の勉強をしっかりしている。やっつけ仕事ではない勉強だ。その重要性も十分に理解しているし,配慮もする。一方で,ジェネシャリストは,ある領域に対する特化した専門性も持っている。スペシャリストとしても振る舞うことが可能なわけだ。

 ただ,大事なのは,その領域のスペシャリティを持っているという「そのこと」ではない。

 図のように,スペシャリスト的な高みを持ったジェネシャリストは,ふと横を見ると同じような高みがどの専門領域にも存在していると理解することができる。その高みは,見ることはできない。でも,あることは感得できる。なぜなら,自分もその高みを,その水平線の遠さを見たことがあるからだ。感染症のプロは,感染症領域の世界の広さを知っている。彼(彼女)は循環器領域や集中治療領域や,消化器領域の水平線のかなたを見たことがない。でも,「それがある」というのはわかる。「自分の知らない世界がある,ということを知っている」とはそういうことである。

 ジェネシャリストの三角形においてもっとも大事なことは,その三角形の内部(知識の総量)ではない。その外側にある「知らない領域」である。ジェネシャリストの頭の中にはジェネラリストの広い知識と,スペシャリストのとんがった知識の両方がある。でも,両者を合わせた知識の総量は,しょせんは人ひとりが獲得できる知識の総量にすぎない。しかし,三角形というそのフィギュアが,その外にある広大な知識(それは,自分が持っている知識の総量よりも圧倒的に広く大きい!)がある,というイメージを作ることができる。自分の知らない領域がいかに大きく,いかに広く,いかに深いかをイメージすることができる。そのイメージが大事なのである。

 そのイメージがもたらす理解は「オレはこんなに知っている」ではない。逆である。「オレはこんなに知らないんだ」である。その知らない理解が,人を謙虚にさせ,他者に対する敬意を生む。もはや二元論の世界で垣間見られた冷笑はそこには見られない。

 そこに,コミュニケーションの萌芽が見られ,チーム医療の原則が生まれる。このジェネシャリストの持つ他者への敬意は,ナースや薬剤師,検査技師などのコメディカルにも,そして患者にも向けられる。患者がぼくらの知らないことをどんなにたくさん知っていることか,ちょっと水を向けてみればわかるが,ぼくらは本当に患者の知っていることを知らないのである。無知の自覚は人を謙虚にし,また好奇心の塊にする。好奇心はさらなる勉強をドライブする。こうして知の体系の好循環が生まれてくる。ジェネシャリストは,その定義からしてとても謙虚で,とても勉強熱心なのである。

つづく

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