医学界新聞

連載

2014.08.11



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第14回】
知の総量と,無知の知

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 われわれはたくさん知識があることを知性と考えがちである。しかし,それは「昭和の考え方」だ。21世紀の今日,たくさんものを知っていることは,一つの価値ではあるが,それほど大きな価値ではない。

 1950年時点で,医学知識が倍になるには,50年かかっていたそうだ(doubling time)。1980年にはこれが7年になり,2010年には3.5年になっている。東京オリンピックが開催される予定の2020年には,なんとたったの73日で医学知識は倍になると見積もられている1)。2か月ちょっとで倍になってしまうのだ。

 もはや,どんなに博覧強記の知識量があっても,メフィストフェレスに魂を売り渡しても,全ての領域における医学知識を最新の状態にキープしておくことは原理的に不可能なのである。勉強しても勉強しても,自分の知らない知識量のほうが自分の知っている知識量よりも圧倒的に大きく,その差は開くばかりである。

 「前の」東京オリンピックのときは,医学知識の増大のスピードはとても緩やかであった。そのころは,医者の要件は「たくさんの知識がある」であった。

 医学部は覚える知識量が多いため,他の学部で4年間のところ,6年制をとっている。その間,解剖学,生理学,生化学,病理学,微生物学,内科,外科,メジャー,マイナーとたくさん知識を詰め込んで頭をパンパンにすると医者のできあがり,というわけだ。

 それは「受験戦争」と呼ばれた時代においては,とても親和性の高い勉強の仕方であった。受験に強い学生は,大量に,迅速に,正確に知識を詰め込むのがとても得意な学生のことだからだ。受験でよい点数を稼げる学生が医学部に来るのは,いわば必然だったのである(それを狙っていたわけではないと思うけれど)。

 しかし,現在ではそのような「昭和の」方法論は全く通用しない。「知識の総量」で勝負する時代は終わったのである。「自分がどのくらい物知りか」を誇るよりも,むしろ「自分がどのくらい知らないか」にどれだけ自覚的であるか,のほうがずっと知性をはかるにはふさわしい。ソクラテスの「無知の知」である。

 仮にAという人物の知識の総量が,Bという人物の3倍あったとしよう。昭和の時代ならば,AはBよりも「頭が良い」ということになる。

 しかし,もしAが「自分の知らないこと」に全く無頓着である場合,そしてBが自分の知識の及ばないところにとても自覚的である場合,AよりもBのほうがより高い知性を持っている。

 Aのほうは単に知識の総量が多いだけの「物知り」である。しかし,自分の知識の体系の外にある世界について全く無頓着である。彼/彼女は自分の知っている世界でしか勝負しないから,それ以外の問題についてはやっつけ仕事で適当に片付けようとする。痛みに対して痛み止め,不眠に対して睡眠薬,熱に対して抗菌薬を処方し,「なぜそうなのか」については頓着しない。さらに教科書や文献を調べようとか,知っている人に教えてもらおうというインセンティブも持たない。よって,自分の知識の体系の外の知識に目を向けることがない。

 こういうのを「井の中の蛙」という。もっと直截に言うならば,現代においてこういう人物は「バカ」である。自分の知識の及ばない領域に全く無知,無関心なのだから。たとえ知識の総量が多くても,それは単なる「物知り」に過ぎない。

 「知らないという自覚」は調べようというインセンティブを生む。幸い,知識量の増加が著しい現代において,その知識の検索能力も昭和の時代と比べものにならないくらい増大した。英語力とちょっとしたITリテラシーがあれば,われわれは短時間で必要な情報をかなりの確率で手に入れることができる。「知らないという自覚」がある人物は,知識の取り入れに懸命になる。なにしろ,知らないのだから。他者とのコミュニケーションも積極的に行う。なにしろ,知らないのだから。

 さて,医学情報の収集には英語力が必須である。現在手に入る医学情報の大多数は英語でできているからだ。日本語の二次情報も存在するが,その量は限定的で,かつ古いことが多い。やはり直接Pubmed, Google Scholarなどを駆使して文献に当たったほうが手っ取り早い。

 長らく学生や研修医を教育しているが,「自分は読むことはできるが話せない」とか「書けるんだけどヒアリング(リスニング)が」という言葉を耳にする。それは間違いだ。「読むことはできるが」と言う人物は本当の意味では読めていない。「書けるんだけど」という人物は書けていない。単に,「できる」という言葉の意味するハードルがとても低い位置にあるだけだ。

 「日常生活ならば不自由しない」言語力なんていうのも実にアテにならない言説だ。買い物をしたり,トイレに行ったりするくらいならほとんど語学力は必要ない。不自由しないレベルは主観的に規定される。満足感は,諦めてしまえば得ることができる。

 ぼくの英語力は極めて低い。そのぼくよりも英語力の高い日本の医学生や医者は極めて希有だ。それは,読み書き,聞き,しゃべる,全てのレベルにおいてそうである。

 だから,一部の天才的な語学力の持ち主を除けば,英語は必死に勉強しなくてはならない。英語力がなければ医学情報の収集がおっくうになる。そうすると収集しなくなる。自分の知識の体系から外に出なくなる。はい,「井の中の蛙」のできあがり,である。

 多くの医者は製薬メーカーのMRさんから“だけ”医学情報を収集する。原著論文を読めばそれが“誇大”広告なことはすぐ看破できるが,論文を読む力がないためにすぐにだまされる。

 「英米の文化に染まりたくない」なんてセリフも聞いたことがある。結構,ならばスワヒリ語でもチェコ語でも,ペルシャ語でもマスターするがよい。もちろん,英語をマスターした後で。そうすれば,「英米文化に染まる」ことはなかろうし,英語ができない言い訳も消える。

つづく

◆参考文献
1)Densen P.Challenges and opportunities facing medical education. Trans Am Clin Climatol Assoc.2011;122:48-58.

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