医学界新聞

寄稿

2013.05.27

【寄稿特集】

先輩から新人ナースに贈る
Sweet Memories


 日勤でのひとり立ち,初めての夜勤。新人ナースの皆さんにとっては緊張と失敗の季節かもしれません。でも大丈夫。最初は誰もが通った道。いつの日か,甘く,ほろ苦い記憶に変わります。明日も元気に病棟を駆け回ろう。倒れるときは前のめりで!

こんなことを聞いてみました
(1)新人ナース時代の「今だから笑って話せるトホホ体験・失敗談」
(2)忘れえぬ出会い
(3)あの頃にタイムスリップ! 思い出の曲とその理由
(4)新人ナースへのメッセージ
浅香 えみ子
橘 幸子
佐藤 紀子
別府 千恵
久保田 聰美
宇都宮 明美


入職式当日に迷子

浅香 えみ子(獨協医科大学越谷病院 看護副部長)


(1)20数年前,都内の学校を卒業し,自宅近くの病院に就職しました。入職式当日,入職者代表で辞令をいただく役割を指示され,早めに病院に向かいました。時間に余裕があり,近くを探検しようとブラブラとしていました。「さぁ時間だ,会場に向かおう」と思ったところ,迷子に。始まっている入職式会場の私の席は一番前……。走ったのと,恥ずかしいのと,「やばい」という思いで,背中には滝のような汗が流れていました。「ホントは,早く来ていたのよ!」と言い訳を胸に,時が過ぎるのを耐えていました。

 配属は,希望の手術部でした。夜間・休日の緊急手術に対して宅直制度がありました。緊急手術が入ったときに呼び出しを受けて病院に行く制度です。呼び出しにはポケットベルが使われていました。ある日,ちょっと苦手な先輩とペアでの宅直で,ドキドキしながら自宅で待機し,その拘束時間がほぼ終わろうとしたときに,なんとポケットベルの電源が入っていないことに気がつきました。先輩の怒っている顔,あきれている顔が目の前に次々と浮かびました。

 すぐに病院に連絡を入れればいいものを,それすらできず,次の日早く出勤。手術日報で緊急手術の有無を確認すると,一件の虫垂切除がありました。目の前が真っ暗になる思いで,先輩に状況を説明すると,「直接介助なしで行ったので,呼び出してないよ」とのこと。宅直に負担をかけないように配慮してくれた先輩に対して,責任感のない抜けた自分の行動が恥ずかしく,深く落ち込んだ記憶があります。

(2)手術部勤務のころ,子宮内容清掃術という,妊娠中絶手術の介助に就いたときのことです。お母さんのお腹から剥ぎ取られた子宮内容は,小さな赤ちゃんでした。小さいけれど,目,口,鼻,指のすべてが確認できました。「この赤ちゃんが,もし大きくなっていったらどんな人になっていくのかな。もしかしたら,自分とどこかで会って話したりしていたかも。そんな人の可能性を中断する場にも立ち会うんだ……」。この小さな赤ちゃんに出会ったとき,生命にかかわる医療者の力の強大さを感じました。たぶん,医療者としての自分を初めて意識した瞬間だと思います。「忘れえぬ出会い」という言葉が正しいかどうかわかりませんが,看護学校時代や,それまでの臨床で理解していた医療者とは明らかに違っていました。

(4)私は,冗談にも「良くできたナース」とは言えません。ただ,興味のあることは,翌日の業務に関係ないことでも調べていた気がします。毎日の業務を振り返ることで精一杯でしたが,昨日より今日,一つでもできたら“すごいね!”って自分を褒めていました(誰も褒めてくれるレベルではなかったので)。失敗はつらいですが,成功より学習成果は高いと思います。焦る必要はなく,一歩でも前進していたらすごいことです。誰かに促されて十歩進むより,自分が進みたくて進んだ一歩は,必ずその人を成長させます。それを信じて,焦らず続けていれば結果が出ることを,私の経験から保証します。


「送棺? それはあんまりです」

佐藤 紀子(東京女子医科大学教授・看護職生涯発達学)


(1)新人時代の失敗談はたくさんあるが,専門用語がわからずトンチンカンな行動をしたことを覚えている。

 その1。「シャーカステン」とは,X線写真を貼り付ける白い電灯付きの器具のことだが,ドイツ語由来ということもあり学生時代にその呼び方を聞いた記憶がなかった。医師から「シャーカステン(の電灯)つけて」と言われた私は,「ああ,カーテンですね」と言って,窓際のカーテンを思いっきり開けた。

 その2。なぜか新人のころ「挿管」という言葉がわからず(「気管内挿管」と覚えていた),危篤状態にある子どもを診察した医師が「挿管だ」と言ったとき,「送棺」だと思い(もう亡くなるので棺桶に送るのかと考えた),「先生,それはあんまりです」と返した。

 いずれの場合も,聞いた医師がびっくりして笑ってくれたので救われた思い出である。

 また,手際が悪く簡単なこともうまくできず,悲しくなったこともあった。当時は日勤帯で使った機械や器具を夜勤者が洗浄して乾かし,その後四角布で包み,翌朝中央材料室に運搬するという業務があった。機械や器具はさまざまな形状なので,うまく包むことができず,2時間くらい格闘してしまった。その間,先輩看護師は見て見ぬふりをしているのか,女性雑誌を読んでいて手伝ってくれない。「こんな夜中に私は何をしているんだ。こんなこともできない私は看護師失格だ」と思い悩み本当に悲しかった。

 今から考えると些細なことだけど,当時は自分のことがとても恥ずかしかったし,切なかったことを覚えている。それでも,だんだんいろいろなことに対処できる自分に成長していった。

(2)新卒の時代から40年も経った最近,何もできなかった自分を思い出すことがある。よく思い出すのは小児科に勤務していたころに出会った,私と同じ名前のNちゃんという6歳の女の子のこと。Nちゃんは自宅が火災になりやけどを負って入院してきた。下半身はひどくただれ,皮膚科外来に毎日治療に通っていた。その治療の過程もNちゃんにとってはつらいものだったと思うが,その後劇症肝炎になり,個室隔離が必要になった。思い出すのは,「治療を受けたくない」と泣き,母親がいないため個室に一人で過ごす姿。そしてそんなNちゃんに積極的にかかわることができなかった自分。きっとNちゃんには,心の通じない,冷たい大人に映ったんだろうと思う。

 今の私があのときのNちゃんに出会うことができるならば,痛みを伴う治療を受けるNちゃんにどんな看護ができるだろうか。今でも難しい課題ではあるけれど,あのときよりは看護師として積極的にかかわり,痛みを軽くするよう,できる限りの工夫をし,共に時間を過ごす看護師としてNちゃんの看護をしたいと思う。

(3)看護学校時代,そして新人時代に歌ったのは,「神田川」(かぐや姫)や「赤い風船」(浅田美代子)。フォークソング全盛のころで,ギターが上手だったクラスメートと歌ったのが懐かしい。

(4)できないことを悲しんだり,できない自分を情けないと思ったりするかもしれません。でもすべてが自分にとって必要なことだと思って,月並みな言葉だけどがんばってほしいです。自分の力で生きていく,自分の力で生活していく。人としての自立は生涯かけて挑戦する価値のある課題です。時々,意識して立ち止まり,過去を見つめ未来をめざし,今を生きてほしいです。


ニックネームは“新人ナースの師長”

久保田 聰美(近森病院看護部長)


(1)私の新人時代は,大卒ばかり集めた新しい病棟を作る準備からスタートしました。当時は,全国に看護系の4年制大学がまだ11校しかない時代です。全国から集められた新卒ナースは背景もさまざまですが,臨床現場からの共通した評価は「大卒は使えない」でした。ほとんどの大学が,専門学校と比較すると実習時間が少なく,技術面で不安を抱えるナースが多かったことは今でも鮮明に覚えています。ヒビテン液につけた攝子を持つ角度を間違えて手をたたかれ,「清潔と不潔の区別もできないの!」と怒鳴られたこと。看護記録に「コアグラ」と書こうと思って「フォアグラ」と書き,「あなた,いいもの食べているのね」と笑われたこと。心電図だけ見て「ジギいって!」と指示を出す後期研修医に「先生がベッドサイドに行けば,不整脈も治まると思いますけど」と思わず言い返してしまい,“新人ナースの師長”というニックネームをいただいてしまったことなど,今となってはすべてが懐かしい思い出です。

(2)当時は,大卒を集めたとはいえ,病棟スタッフは8割が新卒のナースばかり。そのため,看護教育部や管理当直の師長さんたちは,いざという時のために,私のいる病棟に常駐していました。そんな大変ななかでもなんとか続けられたのは,常に患者さんのことを皆が真剣に考え,医師は必ず(新人が書いたものでも分け隔てなく)看護記録を読んでからベッドサイドに足を運ぶ,そんな職場風土のある病院だったからかもしれません。前述の後期研修医に生意気なことを言った私に対しても,上級医は患者さんの立場に立った発言として「よく言った」と見守ってくれました。

 そんな恵まれた環境の下で,たくさんの忘れえぬ出会いがありました。やはり大変な状況下で苦楽を共にした同僚,その中でも当該病棟の「ダンボトリオ」とお互いに呼び合った仲間がいました(それだけうわさ好きな3人だったのですね)。一人は,昼間大学に通う夜勤専門のOさん。いつも私たちのお姉さん役として愚痴を聞いて適切な助言をしてくれました。病院退職後はJICAの仕事に携り,昨年は医療功労賞の表彰も受けています。もう一人はムードメーカーのHさん。3人の中で一番若いのですが,物事の本質を見抜き,見通しを立てる視点はピカイチで,いつも刺激的な発言に驚かされていました(今でも年に一度集まる当該病棟の同窓会では,機転の利く発言で場を盛り上げてくれています)。彼女は,病院の看護教育部に長年在籍し,看護教員を経て,現在は産業保健師として活躍しています。勤務表とにらめっこして3人で都合をつけ,Oさんの部屋で朝まで語り合う時間は,つらい新人時代の中でも楽しい思い出です。

(3)少年隊の「仮面舞踏会」。某病棟(私たちの病棟ではなく)の主任さんがジャニーズ大好きで新人や研修医の出し物に強要するため,その病棟では皆が練習したそうです。今となってはそのうわさの真意を確かめる術もありませんが,新人ナース時代を振り返るとなぜかこの曲が思い出されます(笑)。

(4)卒業して最初に働く場は,あなたの看護観の土台を形成する大切なところです。そして,同じ環境で働いても,あなた自身の意味付け一つで,成長の度合いは大きく変わっていきます。

 志を忘れないでWhere there's a will, there's a way!


初夜勤,仮眠のつもりが朝6時

橘 幸子(福井大学病院副院長/看護部長)


(1)私の新人時代と言えば,かれこれ38年前にさかのぼります。4月になれば北陸地方も雪が消え,桜の便りが聞こえるころ。念願の外科病棟に配属が決まり,うれしくてウキウキして出勤。今のようにオリエンテーションや技術演習もない時代です。新人看護師はそれぞれ先輩看護師について,仕事を開始しました。

 1か月が経ち,新人看護師の夜勤が始まりました。初めての夜勤は,手術日の日勤・深夜でした。大忙しの日勤で帰りは遅く,くたくたに疲れて帰宅しました。寝過ごして遅刻したら大変だと思い,仮眠もできぬままの緊張の夜勤入りとなりました。2人夜勤の相棒は,憧れの大先輩でした。先輩が患者さんを看て看護記録を記載する「主」で,私は洗面介助や処置,配膳などを行う「フリー」でした。先輩は忙しく手術患者や重症患者を看て,その合間に,夜勤の仕事を丁寧に教えてくれました。患者さんが使う朝の洗面タオルの準備を終えたのは,午前2時ごろ。先輩は「初めてで疲れたでしょう。少し横になったら? 起こしてあげるから」といたわってくれました。私はその優しい気遣いがうれしくて,少し休ませてもらうことにしました。

 確か,病棟の端っこの細長い物置のような部屋,そこで少しのつもりで横になり,あっという間に眠りに落ちました。そして,カシャカシャ,ガラガラというワゴン車の音が遠くに聞こえてきて目が覚めました。「うーん,ここはどこや」と寝ぼけマナコで上半身を起こしたとたん「わーっ」と現実に戻り,慌てて時計を見たら,なんと朝の6時。4時間近く寝てしまったのです。飛び起きてこわごわ廊下に出てみると,そこには先輩がいました。ものすごく怒られるだろうとの思いと,私のぶんまで仕事をしてもらった申し訳なさで「すみません」としか言葉が出ませんでした。先輩は,「初めてだから仕方ないけど,次はダメよ」の一言のみでした。私は涙目で「はい」としか言えず,それから2時間余りは涙を拭きつつ,洗面介助,ガーゼ交換,朝食の盛り付け,配膳,下膳と“超”がつく忙しさのなかで働きました。やがて,日勤の看護婦長やほかのスタッフが出勤してきて,「初めてで大変だったね」と言葉をかけてくれましたが,「大変だったのは先輩だったのに」と,恥ずかしさと申し訳なさで言葉もなかった出来事でした。

(2)終末期患者のKさん。ナースコールは決まって「痛いから痛み止めを打って」という訴えです。現在のように疼痛コントロールのための薬剤が豊富にあるわけではなく,特定の鎮痛薬を筋肉注射するだけの除痛です。注射を打つ時間間隔も決められていました(今考えれば,痛みを取り除くためには量的には不足していたのだろうと思います)。

 Kさんは,痛みが少ないときは,冗談を言って看護師を笑わせるような朗らかな人柄で,同性の私たちから見てもすてきな方でした。ご主人は病室から会社へ出勤し,休日や夜間も余命少ないKさんのそばにいつも寄り添っていました。ご主人は痩せ細った妻を愛しそうにそっと抱きかかえながら,ナースコールで訪室した看護師に,「もう一度注射をしてもらえませんか」と代弁し,痛みのため時々声を発する妻の背中をさすりながら夜が明けることもありました。こんな状態が数か月続きました。

 ついに,Kさんに最期の時が訪れました。ご主人に看取られてKさんは逝きました。ご主人に,「しばらくお別れをなさってください。その後で体をきれいにしますから」と告げ,退室しました。それから30分ぐらい経ったでしょうか。「そろそろ処置を」と,病室の様子を見に行きました。「失礼します」と病室のドアをそっと開けると,ご主人がKさんの顔をのぞき込むようにしていました。そして次の瞬間,Kさんの唇にゆっくりキスをしたのです。初めて目にする光景でした。開けたドアを「ごめんなさい」と慌てて閉めると同時に,急に目頭が熱くなり,涙があふれてきました。「なんてすてきな光景だろう,夫婦とはかくあるべき」と感動しました。今でも,忘れられない場面です。

 人が死に逝くという悲しいときにも,看護は感動と勇気を与えられるすばらしい職業だと思いました。

(4)これから日々起こるどんな場面でも,一つひとつ真剣に真摯に人の気持ちを考えて行動できる人になってほしいと思います。自分が嫌なことは他人も嫌。思いやる気持ちがあるから,患者さんに注射をするとき「ちょっと痛いですよ」と言葉が出る。相手を尊重し,信頼し,思いやり,そして「今できないことが次できるようになる」ための努力を惜しまない人になってください。「できない」ではなく,「できる」ためにどうするのかを考え,言葉で伝え行動できる人に成長していってください。


懐中電灯の明かりで早朝採血⇒30人分すべてやり直し

別府 千恵(北里大学病院副院長/看護部長)


(1)新人看護師の時期は失敗が多く,当時は黒く塗りつぶしたくなるほど,恥に塗られた時間だった。しかし後から考えてみると,悲しくもおかしいもので,そのときの自分の頭を撫ででやりたい気分になる。

 私の新人時代は,外科病棟で始まった。そのころの私はすべてが混乱した状況だった。注射の準備をしていて,アンプルを力いっぱいカットして,指をざっくり切ったこともあった。すぐそばにいた外科の医師に5針ほど縫ってもらった傷は,今も私の指にうっすらと跡を残している。あるときはAラインに点滴をつなぎ,逆流した血液でボトルが真っ赤になったのを見て私の顔は真っ青になった。

 転機になったと感じたのは,ある夜勤での出来事だった。約50床ほどの病棟は,夜勤を2人で務めており,新人看護師の私は,先輩にかなりの負担をかけていたと思う。その日は特に怖い先輩が一緒で,私は「叱られないようにがんばろう」と,悲壮な決意で臨んだ。しかし,仕事をうまく回せるはずもなく,先輩の機嫌がだんだん悪くなるのを感じていた。

 失敗しないように努めてはいたが,30人ほど採血するという早朝の役割は,非常にハードルの高いものだった。採血が終わりそうにないと思った私は,寝ている患者さんたちを5時前から起こして,懐中電灯の明かりで採血をして回った。ようやく朝の仕事や申し送りが終わり腰をおろしたときに,検査部から電話がかかってきた。なんと,今朝の採血の検体がすべてダメになっていたのだ。私は採血を急ぐあまり,陰圧の採血スピッツに思いっきり圧をかけて血液を注入し,加えて,採血管の中にある抗凝固薬の適量より多い血液を注入していたらしい。私は,先輩のところに恐る恐る行って報告すると,彼女は「は~!」と大きなため息をつき,地を這うような声で「あなた,自分で責任を取りなさいよね」と突き放された。彼女にとっては一晩中私をお守りしてクタクタだった上に,最後にこんなことになり,堪忍袋の緒が切れたのだろう。

 私は,仕方なく患者さんのところへ一人で行って,頭を下げつつ採血をさせてもらった。嫌な顔をされた方もいたが,多くの方は苦笑しながら採血をさせてくれた。中には,「これを機会に練習するかい?」と言って,難しい血管にトライさせてくれる患者さんもいた。怖い先輩も,怒りが落ち着いてきたら採血のサポートをしてくれた。

(2)新人時代は,自分のことだけに注意がいき,周りのひとのサポートが目に入らない時期だったと思う。早朝に起こされた上にさらに再度採血するなど,仕事の段取りの悪さや技術のなさで迷惑をかけた。先輩や患者さんに,もっと怒られても不思議ではなかった。しかし当時の私は,自分のことにしか考えが及ばず,「どうすれば叱られずに済むだろう」としか考えていなかったし,先輩に一緒に謝ってほしいとさえ思っていた。

 先輩はもちろん,病人である患者は皆大人であり,一人の未熟な若者を,寛容にも看護師として育てようとしてくれていたのだと思う。今思うと,周囲の温かい愛情によって支えられていた自分がいた。

 失敗は,この時期は仕方ない。失敗の尻拭いを自分でしたことと,それにより周りに許されたことは,私にとって看護専門職を続けていく上で今も支えになっている。この後劇的に成長するわけでもなかったが,このときから学生ではなく,ナースに少しずつ変わっていったのだと思う。

(3)ボヘミアン・ラプソディ。あのころは友人の影響でQueenをよく聴いていた。今もこの曲を聞くと新人ナースのころを思い出す。

(4)新人のときには自分を卑下したり,周りの人の目が厳しいと感じたりするが,視点を変えて周囲を見渡すと,信頼し感謝することができ,全く違った見え方をしてくる。新人ナースの皆さん,立ち止まって視点を上にして周りを見回してご覧なさい。


先輩の質問攻めから学んだ「看る」ことの原点

宇都宮 明美(聖路加看護大学准教授・成人看護学)


(1)(2)数十年前新人として配置された病棟は,脳血管外科集中治療室でした。くも膜下出血や脳内出血など,毎日のように救急搬送される患者さんの救命処置,脳血管造影,緊急手術,術後患者管理。目まぐるしく変化する状況とその看護についていくことができない毎日でした。集中治療室という環境も脳血管疾患も十分理解できないままに,言われたことを行うだけしかできない新人でした。

 当時,プリセプター制度などの取り組みが実施され始め,厳しくも優秀な先輩方に,申し送りやベッドサイドケア中に質問攻めにあうことが度々ありました。入職して1か月が経過したころ,くも膜下出血,脳動脈瘤クリッピング術後2日目の患者さんの全身清拭を先輩と一緒に行ったときのことです。突然前触れもなく先輩から「項部硬直ってなに?」といつもの質問攻めが始まりました。私は学習した本の内容を思い浮かべながら「くも膜下出血のように,出血で髄膜が刺激を受けたときに来す症状で,髄膜刺激症状の一つです」と答えました。先輩は容赦なく畳み掛けます。「ほかにはどんな症状があるの」。私は清拭の手を止めて,「頭痛,嘔気,嘔吐……」と答えました。「うん。そう」と返事をした先輩を見て,ほっとしながら清拭に専念しようとしたそのとき,「項部硬直ってどんな症状? 看て」と質問がきました。「こっ,項部硬直の観察?」(そのときの私の顔はきっと目も鼻も口も最大限に開いていたに違いありません)。項部硬直は文献で読んではいましたが,どのような症状か,実際に見たことも確認したこともありませんでした。

 先輩は私の顔をじっと見つめています。私は意を決して,恐る恐る患者さんの首を指で押し,「硬い!」と指を引っ込めながら驚きの声を発してしまいました。それまでの真面目な顔の先輩が急に表情を崩して吹き出しました。項部硬直は頸部の下に手を挿入し,首を持ち上げるときの抵抗が非常に強いことを示す症状なのです。その後先輩は,丁寧に患者さんの首を持ち上げ,頸部が屈曲しない様子を示しながら,「こういうこと。私たち脳外科の看護師は言葉を発せられない患者さんの訴えに気づかないとあかんのよ」と教えられました。

(3)My Revolution(渡辺美里)。歌詞の「夢を追いかけるなら,たやすく泣いちゃだめさ」と「自分だけの生き方,誰にも決められない」のフレーズが大好きで,自分のモットーである「SSP(super strong positive)」の原点になっています。

(4)看護の「看」は看るということです。私の専門領域であるクリティカルな状況にある患者さんのケアにおいては,患者さんが発する言葉だけではなく,身体所見,モニタリング,検査データからさまざまな病態を看なければならないことが多くあります。少しの変化に気付く力,その変化に立ち止まって考える力が「看る」ことの原点だと考えます。

 私は未熟だった自分のこのエピソードを思い出すたびに,「看る」ことの大切さを教えてくれた先輩への感謝と,患者さんに向き合い続けるこの職業の素晴らしさを感じ,今日もがんばろうと思います。

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