医学界新聞

連載

2012.06.04

高齢者を包括的に診る
老年医学のエッセンス

【その18(最終回)】
New or Re-Emerging Paradigm in Medicine?――思想としての老年医学

大蔵暢(医療法人社団愛和会 馬事公苑クリニック)


前回よりつづく

 高齢化が急速に進む日本社会。慢性疾患や老年症候群が複雑に絡み合って虚弱化した高齢者の診療には,幅広い知識と臨床推論能力,患者や家族とのコミュニケーション能力,さらにはチーム医療におけるリーダーシップなど,医師としての総合力が求められます。不可逆的な「老衰」プロセスをたどる高齢者の身体を継続的・包括的に評価し,より楽しく充実した毎日を過ごせるようマネジメントする――そんな老年医学の魅力を,本連載でお伝えしていきます。


 老年医学の視点や,虚弱高齢者の診かたを紹介してきた本連載もいよいよ最終回となった。今回は未曾有の超高齢化の真っただ中にある日本社会と,それに伴う医療の変化や老年医学の役割を筆者の独断的視点から議論してみたい。

エピソード】 筆者「米国で老年医学を勉強してたんですが,貴院でその需要ってありますか?」

A病院内科部長「うちも高齢の患者は多いけど内科でちゃんと診てるよ。それぞれの専門科のレベルは高いからね」

筆者「そうですか……」

「医学モデル」と「生活モデル」

 上述のエピソードは,筆者が帰国前に日本での職場を探している際,某有名教育病院の内科部長と交わした会話である。

 人間は臓器の集まりでできており,どれかが不具合を起こせばその臓器の専門医が診て治せばよい。20世紀の医療はこの考えをもとに診療科が分化し,診断・治療の技術が向上,「病気を病院で治療する」病院医療が発展した。この医療は,当時人口の大多数を占めていた,健康と病気の二元状態のみからなる若年者によくフィットしたモデルであり,実際日本人は平均寿命の延長など大きな恩恵を受けた。

 さて 21世紀はどうだろうか? 日本には,治らない加齢性変化や慢性疾患,老年症候群を抱え,健康でも病気でもない虚弱状態にある高齢者の大集団が形成された。医療には,それまでの病気を治す役目に加えて,高齢者が虚弱状態にありながらも,より長くよりよく生きるようにサポートする新たな役割が加わった。猪飼周平は著書『病院の世紀の理論』のなかで,これを「医学モデル」から「生活モデル」への転換と提唱しており,まさにそのとおりだと思う。

 次に,虚弱高齢者を自動車と比較しながらその身体的特徴や包括的アプローチの必要性について述べる。

自動車と虚弱高齢者

 自動車は10万キロも走ると,当然のことながらさまざまな部品が劣化・故障し,それが原因でシステムに不具合が生じる。劣化したり故障した部品は,新品と取り替えられることでシステムを復旧できる。部品交換は繰り返され,経済的に割が合わなくなるまで続けられる。

 人間も,20-30歳代をピークとして各臓器の機能低下(劣化)が始まる。自動車と異なるのは,加齢性変化や病気などにより臓器やシステムが機能不全になっても,部品交換が原則できない点である。例外的に,心臓弁置換や臓器移植などは人間でもできる部品交換であるが,その手段となる手術という医療介入は,かなり侵襲的である。

 周術期の血栓症,NSAIDsによる胃腸障害や腎障害,抗ヒスタミン薬による眠気やふらつきなど,ほとんどの医療介入には目標臓器・システム以外の部分に働く副作用・悪影響がある。不具合のある臓器やシステム以外が健常か,予備能力が豊富な若年者の場合はこれらの悪影響が表出することはないが,虚弱高齢者は通常,各臓器の残存予備能力が著しく低下していることに加え,多くの医療介入が複雑になされているため,相互作用や副作用が非常に出現しやすい状態にある。

医療コーディネーション

 多くの高齢患者は,加齢によりすべての臓器機能が低下しているという自己認識に乏しく,一つひとつの不具合や故障をそれぞれに修理しようと複数の臓器専門医を受診し,他臓器にも影響を与え得る多くの医療介入を受ける。

 一方,受診された医療者側には,その高齢患者にとっての問題の優先度・重要度がわかりにくい。それぞれの担当領域の問題解決こそが第一義的目標であり,受診されたからには他臓器への影響を気にしつつも,検査や医療介入を行わざるを得ない。残念ながら,そのような受診行動や診療行動からは包括的アプローチや問題の優先度評価,医療コーディネーションという概念は生まれにくく,多くの医療を受けているにもかかわらず,誰もその患者“全体”を把握していない,という別の意味での医療難民化が見られる。

 よく臓器ごとに高名な臓器専門医にかかっている虚弱高齢患者がいるが,おそらく彼らの疾患特異的アウトカムは良好でも,余命や QOLなどの全体的な健康アウトカムはそれほどよくないだろうと推測される。

Academism vs. Humanism

 日本の人口構成上,少なくとも今後数十年は多くの疾患を抱える高齢患者が増えると見込まれ,前述のような受診行動が変容しなければ,日本全体の医療需要は増加の一途をたどる。

 入院医療に限って言えば,病院が受け入れることのできる患者数は限られており,今後社会が望むと望まざるにかかわらず,高齢者は施設や在宅での医療を受ける機会が増える。20世紀の「医学モデル」の中で高度な検査をふんだんに行い診断をつけて,常に第一選択の治療を行ってきた医師や患者は,十分な検査もできず治療法も限られている病院外医療に我慢できるのだろうか? 多死時代に入り病院以外での死が増えることが予想されるが,死亡診断書の死因欄に何と書けばよいのだろうか?

 「老衰」と記入することに違和感を感じている医療者も少なくないと聞いている。病棟に溢れている超高齢患者に確定診断をつけるための侵襲的な検査をためらう場面も多いだろう。これまでのような「珍しい病気探し」や「診断当て」で医学を楽しむことはできなくなるかもしれない。現に『The New England Journal of Medicine』誌の“MGH Case Records”のような確定診断が必要な症例カンファレンスで,高齢患者の出現機会は少ない。

 今後さらに入院関連機能障害が叫ばれ,高齢者の入院加療が避けられるようになると,現在の病院中心の医学教育の在り方はどうなるのだろうか。あるカンファレンスで,発熱した 90歳男性が洗練かつ重厚な不明熱検査のセットを受け,最終的な悪性リンパ腫の診断時には衰弱しきっていてそのまま看取りとなったケースが議論された。困難な診断過程から確定診断をつけたことで会場は満足感に溢れていた。確定診断をつけることができた医学の勝利なのだろうか? 診断できなくても癒やすことはできなかったのだろうか? 若年者と超高齢者の不明熱検索のプロトコルは同じでいいのだろうか。

 20世紀の「医学モデル」においてアカデミズム側にやや振れすぎた振り子が,21世紀にはもう少しヒューマニズム側に戻ってくるよう切望しているし,それが超高齢社会における正しい医療の在り方だと思う。

思想としての老年医学

 老年医学は,高齢者の加齢性変化や慢性疾患,老年症候群,心理社会的ストレスなどから「虚弱度」を把握し,通常多くの原因が複雑に絡みついている健康問題を優先度や高齢者の多様な価値観を勘案した上で,ベネフィットを最大にしリスクやコストを最小にする医学的,非医学的介入を試みる非常に高度な総合診療である。しかし責任臓器や疾患を持たない老年医学は,臓器・疾患医療から発展した「医学モデル」では理解しにくく大病院の診療科となりにくいので,医療界や一般社会の認知度は低い。

 よって本連載開始前の編集部との打ち合わせでは,特に地域医療を担う開業医の先生方に老年医学の概念を知っていただきたいという目標を掲げた。そして,疾患や病態の表面的な知識の羅列やマネジメントマニュアルの類いではなく,「どのように虚弱高齢者を診るか」「どのように知識を活用するか」「どのように思考するか」をできるだけ科学的にまた思想的に議論し,それらを老年医学のエッセンスとして紹介してきた。

 マイケル・サンデル教授は自身の講義「Justice」の目的を“Restlessness of Reason”(理性の落ち着きのなさ,今まで当たり前だと思っていたことがそうではないかもと不安になること)の覚醒であると述べた。本連載も読者に現在の医療に対する“Restlessness of Reason”の覚醒を促し,内的パラダイム変化とともに日常診療におけるモヤモヤ感の緩和を少しでももたらすことができたなら,筆者としてこれほど嬉しいことはない。

 日本の医療界において思想としての老年医学の普及を心から願い,いったんペンをおくこととする。愛読ありがとうございました。

(了)

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