医学界新聞

寄稿

2012.05.21

【寄稿】

「生きたい人」を支えられない,医療・福祉の運用現場
ある『ホームレス』者の物語

森川すいめい(世界の医療団TP代表医師/NPO法人TENOHASI代表理事/一陽会陽和病院精神科)


ずっとうつむいたままの男性

 冬,路上で,30代男性(A氏)と出会った。「ビッグイシュー」という企業からの紹介だった。「ビッグイシュー」とは,『ホームレス』者が雑誌を販売する仕組みでビジネス展開をしていて,住所不定のままで仕事ができる。そこへA氏が就労相談に行った。ところが,A氏があまりに元気がないとのことで,企業より相談の電話が入った。

 「A氏は,精神科医に相談してみたいということなのです」。

 その夜,カフェで会うことになった。目の前の男性がA氏であるとすぐにわかった。目に力がなく落ち着きがない。ずいぶん痩せた男性。

 「あの,すみませんでした。私なんかのために。なんだか申し訳なくて。すみません」。

 茶髪,風貌とはかけ離れた,細く弱い声。小刻みに震えながら,席に座った。

 「時間をわざわざ作ってくださったのですけど,精神科の先生にもう会わなくてもよくなったのです」。

 ずっとうつむいたまま,A氏は,淡々と言葉を紡いだ。

 「お墓,あるんですよね。祖母と,母の。自殺したんです。そのお墓,守らなきゃなって思って,お金なかったので,6000円,稼がなきゃって思って,ビッグイシューさんに行ったんです。でも,なんか,ちょっと元気が。精神科医の先生がいるって聞いたんで,自分が病気かどうか教えてほしかったんです。迷惑かけないで働けるかどうか」。

 「……」。

 「迷惑ですよね。本当にすみません。でも,もう大丈夫なんです。よく考えたら,僕が死んだら,どちらにしても,お墓,守る人がいないから,みんな無縁仏になるんだって気付いたんです。会う約束をさせていただいてしまったので,今日来ました。なんかいつも,突発的に決めて,いつも,他人に迷惑ばかり掛けてしまうんです。本当にすみませんでした」。

生き残るための「断れない」日々

 しばらく沈黙が続いた後で,A氏は,下を向いたまま,無表情に,淡々と話を続けた。A氏の両親はA氏が幼いころに離婚した。父親に預けられたA氏は,毎日殴られていた。

 「今思えば,何で,父親のほうに行ったのかなって。怖かったからですかね」。

 暴力を受けて育った人は,暴力を受けない生活の想像がしにくい。やったことのある生活のほうが,まったく知らない幸せよりも選びやすいことがある。無意識に。A氏がそうだったのかはわからないが。

 数年間の虐待が発覚し,母親のもとに戻った。その母は,自殺した。

 「なんで,あのとき,自分は,助けられなかったのかなって」。

 A氏は,それでも,懸命に働いた。夜の仕事で,こころが寂しいと思う人たちが,酒を飲んで癒やされに来る空間で,責任者になっていた。

 「でも,いつも,だんだん,生きられなくなるんです。なんというか,僕は,断れないんです。黙っているから,どんどん責任者とかになって,仕事もどんどん増えて,疲れ果ててしまうんです。そして,死にたいなと思って,自殺未遂をしました」。

 断れないのは,父親からの暴力を耐えた幼少期からの,生き残るための唯一の生き方だったのかもしれない。救急車で運ばれた三次救急の病院では,一命を取りとめ,その後,精神科受診を勧められ,何も考えられないまま診察を受けた。

 「病気じゃないって言われたんですよね。それっきりです」。

 以後,A氏は,引きこもる生活をした。このままではダメだと思っていたある日,家を売ってお金を作り,仕事をしないかという誘いがあった。A氏は誘いに乗った。財産はすべて詐欺にあった。

 A氏は,残り少ないお金で,マンガ喫茶やファーストフード店に泊まり,金のない寒い夜は,夜通し歩き過ごした。もう生きていても仕方がないと思ったときに,ふと,お墓を守らなければならないと思ったのである。お墓を守るために働く,しかし,働いて大丈夫な状態かどうか自信がない,それを教えてくれる専門家に会う,そういう動機でカフェに来た。

「こんなに,頑張って,生きてきたのですね」

 ところが,ここにたどり着くまでに,無縁仏にどうせなるのだと気付いた。

 「だからもう,生きなくていいのですよね」。

 ずっと下にあった目線が,一瞬上を向いた。死の選択時。選択をするまでの過程は苦しさの闇の中にあるが,死んでいいのだと思えた瞬間に,気持ちがすっと楽になることがあると言った人がいた。

 「Aさん。こころは,病気になりません。こんなに頑張って生きてこられたのですね。よく,頑張って,生きてこられました」。

 A氏との会話中は,A氏が語ることを,紙に,言葉をまとめ,図にしながら話を聴いた。その紙面を,A氏と一緒に眺めた。

 「こんなに,頑張って,生きてきたのですね」。

 誰が,どう見ても,その紙面に,A氏を責め立てる理由はなかった。A氏は,それを,自分が生きていることを,人様に迷惑を掛ける申し訳ない存在だと言っていたのである。A氏は,涙した。表情が生まれた。

 「Aさん。こころは,病気になりません。でもね,脳というのは,臓器でね,ずっとストレスを受け続けると,脳という臓器は,ちょっと病気になることがある。ちゃんと考えられなくなったり,集中力がなくなったりすることがある。病気は治しましょう」。

 A氏は,何も考えられないと言った。PTSD,うつ病。

 「あなたは,今晩,何も考えてはいけない。明日,私たちの仲間(NPO法人TENOHASI/世界の医療団)が,あなたと一緒に区役所に行って,生活保護申請を手伝います。そして,そのまま,うちの病院に来られるようにします。何も考えない日を作ります」。

生活保護の申請に,行かない,行けない人たちがいること

 生活保護申請の現場を知っている人ならば,彼のような人が,自らの力では申請に来ないことや,来たとしても,うまくいかないだろうことは想像がつくかもしれない。申請をするために家族の話をしなければならない,自分の存在が迷惑を掛けるのだと思っているところへ「税金だからね」と念を押される,行政専門用語が頭に入ってこない。前向きに助けてくれる相談員に出会わない限りは,「やっぱりいいです」と言って,二度と自ら相談に行くことはなくなる。

 彼は,入院し,1か月が過ぎるころに,人と話すようになった。今までと同じ生き方で,入院患者さんの,同じく弱く生きている人の悩みを聞く日々を過ごしていた。回復しつつある彼には,休養ができる場所が必要になった。

 ところが,現在の精神科病院は,急性期の精神症状のある人や,地域で問題行動を起こす人が,短期で入院するという部分に大きな加算がついているため,ゆっくり休むというニーズを満たすことが難しい。常に大声を上げる人の傍らで,A氏は親の声を思い出してPTSD症状の発症を繰り返した。

 「これ以上ここにいたら,気が狂いそうです。独りで休みたい」。

 A氏は,死なないと約束していた。自分のことを,自分をどうやって助けていったらいいかをよく知り,過去のつらい記憶は持ちながらも,「何とか生きられるかもしれないと思うようになった」と言った。家がある人ならば,退院するのがよい状態だった。

 ところが,生活保護担当者からは,更生施設以外の退院は認められないと言われた。

 「基本原則を曲げることはできないんですよ。生活保護の規則というものがあります。その規則に則ることができないならば,指示命令違反ということになってしまいます。生活保護受給継続は認められないのです……」。

A氏は,再び『ホームレス』になった

 A氏は,結局「独りで休みたい」と言って,再び『ホームレス』になった。

 「更生施設に入れば,自分の苛立ちが収まらなくなって,人に迷惑をかけます。だったら,路上に戻るのがいいです」。

 彼は自分のことをよく知っていた。

 この話には,まだ続きがある。A氏との出会いはインフォーマルな支援から始まり,退院後も,それに支えられた。医療や福祉の現場は,人が生きることについて,仕事の枠組みを超えなければならない時代なのだと思う。生活保護担当者は,その後真摯に悩み,1か月後,アパート入居が認められた。

※上記の事例は,本人に掲載許可をもらっています。「自分のような境遇の人が,苦しい思いをするのを少しでも減らせるならば,役に立ちたいです」と,A氏は言いました。
 また,本人から聴いた話を,精神科医個人の視点で書いています。実際の本人の視点からは,違う世界が見えているかもしれません。


森川すいめい氏
鍼灸師資格取得後,日大医学部を卒業。2003年,ホームレス支援のNGO団体「TENOHASI(てのはし)」を立ち上げ,08年にはNPO法人化。代表として東京・池袋で炊き出しや医療相談などを実施する。09年世界の医療団TP代表就任。国立病院機構久里浜アルコール症センターを経て,一陽会陽和病院。東日本大震災「こころのケア」支援活動継続中。

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