医学界新聞

連載

2011.03.07

連載
臨床医学航海術

第62回

英語力-外国語力(2)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

臨床医学は疾風怒濤の海。この大海原を安全に航海するためには卓越した航海術が必要となる。本連載では,この臨床医学航海術の土台となる「人間としての基礎的技能」を示すことにする。もっとも,これらの技能は,臨床医学に限らず人生という大海原の航海術なのかもしれないが……。


 前回,人間としての基礎的技能の「英語力-外国語力」として,外国語習得の要否と英語習得のデメリットについて考えた。今回は英語を学ぶ際,どのようにすれば効果的に身に付けられるかを考える。以下に筆者の個人的経験から英語学習の秘訣を述べる。

1.成長とともに英語を学習する

 英語を学習するということは,同時に英語圏の文化を学習するということである。例えば,アメリカ留学中に筆者が苦労したのが,カフェテリアでの注文だ。料理の名前がわからないのである。白身魚のソテーみたいなものがあっても,それを英語で何と言うのかわからない。仕方ないから"Fish, please"などと言う。料理が魚とわかればよいが,何の料理かわからないけれど,その料理を食べたいときは,それを指さして単に"This one, please"と言うしか術がないのである。そうやって大の大人がまるで言葉がわからない子どものように料理を注文すると,料理を配る黒人女性から「何だ,こいつは?」というような目で見られた。

 特に苦労したのがサンドイッチやハンバーガーの注文である。アメリカでは,日本の「ツナ・サンドイッチ」とか「チーズ・バーガー」のように具材とパンがセットで売っていることは少ない。自分の好みの組み合わせを注文するのである。例えば,サンドイッチでは,パンの種類,挟む具材,ケチャップなどの調味料を細かく指示するのである。腹減ってるのにそんなこといちいち注文できるかよ~。そもそもサンドイッチをつくったことがなく,日本語ですらパンや具材の指定などできないのだから,ましてや英語でなど注文できるはずがない! ある日本人に教えてもらったのだが,何でもいいからサンドイッチを注文したいときは,「とにかくBLT(Bacon-Lettuce-Tomato)と言え」とのことであった。それ以来,筆者の注文はいつもBLTである。

 このような例は,単に言葉だけの問題ではなく生活・習慣の問題である。したがって,一般的に外国語を習得するためには,生活・習慣が身に付く20歳以前に外国で生活することが望ましいと言われている。

2.英語を使う

 次に学習方法であるが,英語の学習で最も大切なのは「英語を使う」ことである。使わないと使い分けがわからない意味の言葉があるからである。

 筆者がアメリカで内科レジデントとして神経内科をローテートしていたとき,患者が突然意識障害になって反応を示さなくなったことがあった。緊急事態なので,筆者はすぐに神経内科の指導医に報告した。そのとき,指導医は朝の回診のためレジデントと共にカンファレンス・ルームに集まっていた。一同が集まっているところに筆者はドアを開けて指導医に真剣な顔で,"My patient became unresponsible!"と大声で言った。「私の患者が無反応になりました」と言ったつもりだったのだが,それを聞いた同僚のKathyは飲んでいたコーヒーを突然噴き出した。神経内科の指導医は自分の胸に手を当てて,"I am unresponsible!"と言い,それを聞いた一同はゲラゲラと笑い出した。

 何を言われているのか全くわからなかった筆者は,その夜,自宅で英和辞典を引いた。すると,「無反応である」という英語は何と"unresponsive"であった! よくよく調べてみると"responsible"とは「責任がある」という意味で,"unresponsible"とは「無責任である」という意味になることがわかったのだった(正確には「無責任である」は"irresponsible"だが,"unresponsible"でも通じるようである)。筆者は大勢の人の前で「私の患者は無反応になりました!」と言ったつもりが,「私の患者は無責任になりました!」と言ってしまったことになるのである。そして,それを聞いた指導医は,自分を指して「私こそが無責任だよ!」とジョークを言ったのであった……。

 また,血液内科の回診で,ホジキン病と非ホジキン病の生物学的転移の相違点を聞かれて,筆者はこう答えた。"Hodgkin disease spreads continuously, while non-Hodgkin disease spreads uncontinuously."これも血液内科の指導医に次のように直された。"Hodgkin disease spreads contiguously, while non-Hodgkin disease spreads uncontiguously.""continuous"も"contiguous"もアルファベットが一字違うだけで同じだろうと思ったが,確認のためにその夜また英和辞典を引いた。すると,そこには"continuous(時間的に連続した)","contiguous(地理的に連続した)"とあった! 日本語では両方とも単に「連続的」と記憶していたが,時間的と地理的で使い分けがあったのである!

 このような使い分けは,その言葉を使わなければ身に付かない。われわれは,日本語を習得するときに言葉の使い分けをその都度親などから習ってきたはずである。しかし,外国語は机上の勉強でしか習っていないので,成人になってもまるで子どものように,言葉の使い分けについて注意されてしまうのである。また,英語圏で生活すればわかるとおり,日常語には辞書に載っていない言葉がたくさんある。このような言葉は現場で覚えるしかないのである。

 評論家で医師の加藤周一氏が,第2次大戦終戦直後のパリに留学したときのことを彼の著書でこうつづっている。

 結果として私は一晩中,フランス語を喋り,相手の巧妙な言廻しを換骨奪胎して,自分の議論に応用しながら,不自由な言葉を何とか操ろうと努力せざるをえないことになった。それははじめのうち,ひどく骨の折れる仕事であった。しかし慣れるに従ってそれほど面倒でもなくなったのである。私はフランス語で話をすることができたから,論争をしたのではなく,論争をしたから,フランス語で――甚だ不器用にではあるけれども,とにかく意を通じることができるようになったのであろう。私はみずからそのことを感じていたし,そのことが何を意味するかも知っていた。周囲の世界と私との間の距離は,俄かにせばまった。

 しかし,ブルターニュの青年とのつき合いから私が得たのは,議論をする習慣だけではなかった。私はフランス語を話しはじめると同時に,フランス語の文章を私がそれまで読めていなかったということも発見した。彼はヴァレリーが対話文で書いた「エウパリノス」を,私のために注意深く読んでくれた。何故著者がその場所にその語を用いて他の語を用いなかったか,何故その言廻しを採って他の言廻しを採らなかったか。そういう議論に,仏和辞典はほとんど全く役に立たない。嘗て私は東京で,仏和辞典を用い,英訳を参照し,その本をかなり丁寧に読んで,理解したつもりでいたが,私が理解していたのは,すじ書きにすぎなかった。私は東京で,ヴァレリーを読んで理解することはできるが,フランス語で話をすることはむずかしい,と思っていた。パリの大学町では,フランス語で話をすることは大してむずかしくないだろうが,ヴァレリーを読むのは容易でない,と考えるようになったのである。参考文献より引用)

 外国語学習が机上の勉強だけでは不可能なことがよくわかる。日本人がいくら勉強しても一向に英語が上達しない理由の一つに,英語を講義,教科書,DVD などだけで勉強して,生活の中で実際に英語を使わないことが挙げられる。英語を本当にモノにしたかったら,英語を使わなければ食事もできないし,給料ももらえないという厳しい環境に自分を放り込むことが必要である。

 臨床能力も全く同様である。患者を診療しない限り臨床能力は絶対に身に付かない。いくら講義・カンファレンス・教科書・DVDなどで勉強しようがたかが知れているのである。Sir William Oslerは「臨床医学は患者から始まり,患者と共にあって,患者と共に終わる」と言っている。「臨床医学は患者から始まる」であって,決して「臨床医学は講義・カンファレンス・教科書から始まる」ではないことに注意してほしい。このような理由から,「見学」だけの初期臨床研修プログラムでは,臨床能力の習得は絶対に不可能だと筆者は考えている。

つづく

参考文献
加藤周一.続・羊の歌――わが回想.岩波新書;1968.

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