医学界新聞

連載

2010.10.25

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第185回

アウトブレイク(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2899号よりつづく

 2010年8月23日,サンフランシスコ・ジャイアンツのホーム球場AT&Tパークで,試合前,あるイベントが催された。その際,グラウンド内に招かれたのは,看護師マライア・ビアンキの一家だったが,フィールドに立ったビアンキは,満員の観客とともに,アナウンサーが語る「物語」に聞き入った。5年前,生後17日で亡くなった,次男ディランの「物語」を。

健康な新生児の急変

 咳が始まったのはディランが生まれる数週前のことだった。熱は微熱程度だったので「風邪」として様子を見るだけにしていたのだが,咳はしつこく続いた。

 予定日より2週早く生まれたディランは,健康そのものだった。しかし,自分の咳が新生児に悪影響を与えることを心配したビアンキは,退院前に主治医の診察を仰いだ。その際,ディランの新生児検診をした小児科医が言及していたことを思い出し,自分が百日咳である可能性を尋ねたが,主治医は「もう過去の病気」と取り合わなかった。

 「いま,風邪が流行っていますし,恐らくウイルス性のものでしょう」という主治医の言葉を信じて,帰宅後,ビアンキは手洗いを励行するともに,母乳が息子の抵抗力を高めることを願いながら,授乳を続けた。

 息子を病院に連れて行ったのは「授乳の際に乳を吸い続けなくなった」ことに気がついたからだった。咳や高い熱があればもっと早くに受診させていたのだろうが,「乳を吸い続けない」という現象が起こるようになるまで,症状らしい症状は一切なかったのだった。

 「肺炎の可能性を除外するために」と胸部写真が撮られた後すぐ入院となったが,入院後,ディランの状態は急速に悪化した。人工呼吸器につながれた後,腎不全・心不全も併発。45分に及ぶCPRが中止された後,死亡が宣告されたのは入院翌日のことだった。

悲劇はなぜ起きたか

 2010年,カリフォルニア州では百日咳の「アウトブレイク」が大問題となっている。同州公衆衛生局によると,9月21日時点で疑い例も含めて4223例が報告され,1955年に4949例が報告されて以来の大流行となっている(以下,数字は9月21日現在)。

 上に記したビアンキの「物語」は,2005年に同州で百日咳が流行した際のものであるが,新生児感染の「典型例」といってよい症例なので,以下,ポイントを押さえよう。

 まず,何よりも強調されなければならないのは,ビアンキの次男が不幸な転帰をたどったことでもわかるように,「新生児では百日咳が重症化しやすい」という事実である。

 実際,2010年の流行でも,死亡例9例はいずれも新生児である。また,入院したかどうかの情報が明らかな約2000例に限った場合,入院は202例(11%)であったが,うち151例(75%)が6か月未満の新生児であった。

 では,なぜ新生児に重症例が多いかだが,まず第一の理由は,百日咳に対し,まったく「無防備な」状態で感染する事例がほとんどを占めることにある。死亡例9例のうち,発症前にDTaP初回接種(生後2か月)を受けていたのはわずかに1例。いわば「丸腰」の状態で百日咳菌の銃火を浴びせられたのである。しかも,ビアンキの事例でも明らかなように,新生児の場合,症状が著しく乏しい。診断された時点ではすでに「手遅れ」となるケースが跡を絶たないのである。

 次に押さえなければならないポイントは,新生児例のほとんどは,家族,それも大人から感染する事実である。ビアンキの場合,「百日咳」の可能性を主治医に尋ねたにもかかわらず,「過去の病気」と取り合ってもらえなかったが,「大人から感染する」「重症化しやすい」という新生児感染の二大ポイントが医療関係者にさえも知られていないために,悲劇を招く結果となったのである。さらに百日咳の場合,終生免疫を獲得することは困難であるのだが,「子どものときに予防接種を済ませているから大丈夫」と安心しきっている大人がほとんどであるために,新生児に感染させて重症化させる事例が増えているのである。

 上述したように,ビアンキは看護師である。母親として子供を失った悲しみに耐えなければならなかっただけでなく,「自分が百日咳についての『常識』を知っていたら,息子を死なせずに済んだのに……」と,「プロ」として,自らを責め苛まなければならなかったのである。

見過ごされる「大人への予防接種の必要性」

 ビアンキはいま,カリフォルニア大学サンフランシスコ校で医療政策を学んでいる。研究テーマは「予防接種を受けることを妨げる要因」であるという。さらに,百日咳,特に大人への予防接種の必要性についての啓蒙活動にも取り組むようになったが,「自分と同じ悲しみ・苦しみを他の母親には味わわせたくないから」にほかならない。このビアンキの活動をサンフランシスコ・ジャイアンツが支援,8月23日のイベントが催されたのだった。

 同日のイベントに,カリフォルニア州公衆衛生局も協力した。「大人も百日咳のブースター接種が必要です。子ども,特に,新生児と接触する大人は必ず予防接種を受けてください」と呼びかけただけでなく,AT&Tパークを訪れた観客に対し,無料の予防接種をオファーしたのである。

 ところで,日本でも最近,百日咳の流行が問題になっているようだが,大人への予防接種を呼びかけるまでには至っていないと聞いている。そもそも,思春期・成人用のワクチン(Tdap)が認可されていないそうだが,国家的「手遅れ」とならないことを祈ってやまない。

この項つづく

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