医学界新聞

連載

2010.09.06

連載
臨床医学航海術

第56回

言語発表力
話す,プレゼンテーション力(1)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

臨床医学は疾風怒濤の海。この大海原を安全に航海するためには卓越した航海術が必要となる。
本連載では,この臨床医学航海術の土台となる「人間としての基礎的技能」を示すことにする。もっとも,これらの技能は,臨床医学に限らず人生という大海原の航海術なのかもしれないが……。


 前回まで人間としての基礎的技能の4番目である「聴覚理解力-きく」について考えた。今回からは,人間としての基礎的技能の5番目である「言語発表力――話す,プレゼンテーション力」について考える。

 われわれはいろいろな人の話を聞く。その話の中には,われわれが聞いて面白いと思う話もあるし,全く面白くないと思う話もある。また,同じ話を聞いても面白いと思うか否かは,聞く人によっても異なる。その違いは,面白いと思う話の性格は聞く人によって異なるためで,話題に対する関心の強さ,話し方の好みなど,さまざまな要素があると思われる。こうした要素の中でも重要なのが話し方である。同じ話題でも,話し方を工夫することで相手の反応が異なることを経験したことがある読者も少なくないのではないだろうか。そこで,よりよい話し方を考えるために,逆に誰もがわかりにくいと感じる話し方の例を考えてみたい。

1.表現力がない

 言葉の表現力が不十分な話は理解しにくいものである。

事例1:外傷患者についてのプレゼンテーションを行う研修医の言葉
 「ドカーンという音で車が衝突して,グシャッとなった車から血だらけで救助され搬入されました。腹部から腸がベロッと出ていて,骨はバキボキ折れていました……」

 外傷のような血だらけの患者さんを診ると興奮するのか,プレゼンテーションの言葉に擬態語が多い。その結果,マンガのような表現になってしまっているが,これだけマンガのような表現をするならば,プレゼンテーションのときに紙芝居のようなイラストも準備すべきである。この事例は明らかに言語表現能力が不十分なのである。これはちょうど子供が自分の経験したことを伝えるのに,「すごかった。おもしろかった」などとしか言わず,具体的に自分の経験を説明できないのに似ている。

 事例1のように擬態語がふんだんにちりばめられている表現を聞くと,筆者は個人的には『超人バロム1』の主題歌を思い出す。ここで,著作権の関係で歌詞をご紹介できないのが誠に残念であるが,YouTubeで視聴可能なので,時間がある方もそしてない方もぜひぜひ視聴してほしい(註1)。この『超人バロム1』の主題歌は,擬態語が多く何を言っているのかよくわからない。わかることは,「魔人ドルゲという悪役が怪しげに現れたときに皆で呼ぶと,超人バロム1が颯爽と登場する」ということだけである。歌詞中にある「ふたりがひとり」などが何を意味するのかは,これから始まるテレビを見なければ一切わからないのである。

 こう考えると,これから始まるテレビ番組に期待と興味を起こさせるという意味で,この暗示的な歌詞は主題歌のそれとしてうってつけである。しかし,残念ながら医療者のプレゼンテーションは,テレビ番組の主題歌とは違って暗示的であってはならず,適切な診断・治療のために明確性・正確性が要求されるのである。

 この事例1と同様に表現力がないのが次の指導医の言葉である。

事例2:指導医がいきなり病棟に来てこう叫んだ。
 「あの人のあれはどうなった? あれだ,あれ!」

 自分の要求を言葉で表現できないのである。いきなり病棟に来て,「あれ」と言われてもわかる人は少ないはずである。こういう指導医,別名「あれれのおじさん」を見ると,「俺はお前の女房じゃないんだ!」と言いたくなる。以心伝心(註2)と言って,親密な夫婦のような親しい間柄であれば,「あれをあれしろ」で話は通じるであろう。しかし現在では,こういう親密な関係は夫婦においてすらまれである。まして職場では,以心伝心が通じるような親しい間柄というのはほとんどないはずである。だから,指導医は自分の指示を正確に表現しなければならない。言葉で指導するのが仕事の指導医が,「あれれのおじさん」のように現場で正確に指示できないのは致命的なのだ。

 このような「あれれ症状」が出現した場合には,長谷川式簡易知能評価スケールの測定や,脳血管の粥状硬化を評価するために頭部MRIの撮影が適応となるかもしれない。

 指示語が多い指導医と擬態語が多い研修医。親も親なら子も子だ……。

 次は,外来での場面を例に「構成」について考えたい。

2.構成力がない

事例3:外来に訪れたおばあちゃんとの会話
 「今日はどうしましたか?」「うちの嫁は何もしない,料理も下手だし,家事洗濯もなってない・・・・・・」

 病状の説明ではなく,世間話が始まるのである。それでも,相手の話をまずは聞くことが大切だと思って聞いていると,一向に話が終わらない。一体何をしに来たんだと思う。ここで相手の話を遮らないと,この世間話は延々と続くのである。つまり,前置きが長いのである。

 この事例で指摘したいのは,話の構成である。一つの話は話である以上,聞き手がわかりやすい構成が必要である。まず,話の冒頭では伝えたい話への導入を行い,唐突にならないようにしたい。しかし,事例3のように導入が長すぎると,本題への興味が激減する。

 また,本題を聞いてみても,「序論・本論・結論」あるいは「起承転結」といった構成がとれていない話も理解しづらい。非常に多くのことを喋りまくるが,後から考えてみると何を言いたいのかわからない支離滅裂な話,意味のまとまりがない話,ポイントがはっきりしていない話などは避けねばならない。

3.味気ない

事例4:学会発表における原稿の棒読み

 発表準備をしないでダラダラと話す人の話も聞きにくいが,発表準備を完璧にしているにもかかわらず,その原稿を単に棒読みするだけの人の話も聞きにくい。テレビのニュース番組でなぜニュースをわざわざアナウンサーが話して,機械による人工音声を流さないのかと考えたことがあるだろうか? これはおそらく,人間には機械が読む音声よりも人が話した言葉のほうがよく理解できる習性があるからに違いないと筆者は推定する。そうでなければテレビ局はわざわざ高い人件費をかけてまでアナウンサーを雇わないであろう。

 そして,この理解しやすさの違いにも,話し方が大きくかかわっている。機械の話し方は,アナウンサーに比べて味気ないのである。それは味付けのまずい料理を人が食べないのとちょうど同じ感覚かもしれない。また,同様のことを音楽で言うと,楽譜通りの演奏は人の心に響きにくいが,楽譜に正確でなくでも感情がこもった演奏は人の心に響くことに似ている。

 棒読みの学会発表は,機械の言葉と大差ない。同じ原稿を読んでいるだけかもしれないが,テレビのアナウンサーは原稿を暗記し,カメラの向こうにいる視聴者に目線を向けて,視聴者に読み聞かせるように話している。これに対して,学会発表の棒読みでは目線は聴衆になく手元の原稿に向けられてばかりいる。話し口調も単調で,発表は「ワレワレハキチョウナショウレイヲケイケンシタノデココニホウコクスル……」というお決まりの文句で始まる。この単調な冒頭を聞いただけでそれからの発表を聞く気が失せる。途中何を言っているか全くわからずに,最後もまたお決まりの言葉で発表は終了する。「コンゴサラナルケンキュウガノゾマレル…」と。この言葉を聞くと,「『今後更なる研究が望まれる』というのが最終結論ならば,今の発表は一体何のための研究発表だったんだ?」と訊きたくなる。

次回につづく

註1:インターネット検索で「バロムワン 主題歌」で検索するとヒットするはず。
註2以心伝心(イシンデンシン) もともと仏教の言葉で,仏法の奥義を言葉や文字を使わずに師から弟子に伝えることを言った。転じて,無言でも心が通じ合うという意味となった。「意心伝心」と書くのは誤りである。

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