医学界新聞

連載

2010.07.12

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第178回

米医療保険制度改革(6)
絶体絶命の窮地

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2885号よりつづく

前回までのあらすじ:皆保険制実現はオバマ政権の最優先課題であったが,2009年末,上院と下院で大きく内容が異なる,二つの法案が可決された。


 2009年末の時点で,オバマ政権・民主党執行部にとっての最大の課題は,異なる内容の上・下院二法案を,どのように調整して一本化するかにあった。

 二法案の最大の相違点は,前回も述べたように,新たな公的保険を創出するか否か(public optionを含めるか否か)にあったが,それ以外にも,例えば無保険者救済のための財源をどこに求めるかについてもその内容は大きく異なった。高額所得者への増税で財源をまかなう原則は共通であったものの,下院案が連邦所得税の増税を求めたのに対し,上院案はメディケア税(註1)の増税に財源を頼った。

米国で「党議拘束」の強制力が弱い理由

 上下両院で共通の法案を再可決しない限り,大統領が署名して法律として成立させることができないとあって,オバマと党首脳の手腕・指導力が注目されたのだが,両院の妥協を成立させることは実質的には民主党党内の妥協を成立させることを意味した。

 「党議拘束」が大きな強制力を持つ日本と違って,米国では,個々の議員が「党議」に反する投票をすることが珍しくない。選挙の際に,議会での投票実績が,いわば任期中の「成績表」として選挙民から評価されるからである。例えば,保守的な選挙区から選出された議員にとって「public option」のようなプログレッシブ(先進的)な法案に賛成票を投じた途端に選挙に負ける可能性が高くなるため,おいそれとは賛成できないのである。

 さらに,中絶反対派が多数を占める選挙区から選出されている議員にとっては,中絶への公費支出を容認するような法案に賛成票を投じた場合,これも落選への早道となってしまう。党内反中絶派(プロライフ派)が「中絶への公費支出を厳禁する内容の条文」を医療制度改革案に加えることを求めて運動を展開する一方で,中絶容認派(プロチョイス派)は,中絶の実施を現状以上に難しくする改正案に猛反対した。

 Public option にしても中絶にしても,対立する二派のどちらか一方の機嫌を損ねてその票を大きく失った途端に,可決に必要な賛成票(下院では単純過半数,上院では6割の60票)が確保できなくなるとあって,ホワイトハウスも党執行部も,選挙区の事情等で利害を異にする議員たちを相手に,「綱渡り」の折衝を続けなければならなかったのである。

ゆかりの地でまさかの敗北

 年が変わった2010年1月,上下両院の妥協を成立させることに全力を挙げていたオバマと民主党首脳とを絶体絶命の窮地に陥れる政治的激震が走った。激震が走ったのは,民主党の牙城とされてきたマサチューセッツ州。故エドワード・ケネディ上院議員の後任を選ぶ特別選挙で,本命視されていた民主党候補が惨敗。生涯を皆保険制実現に捧げたケネディが1962年以来保持してきた議席を,こともあろうに,医療制度改革反対を公約に掲げた共和党新人に奪われたため,民主党は改正法案成立に必要な上院の「安定多数」(60議席)を失ってしまったのである。

 民主党がまさかの敗北を喫した最大の原因は,不況の長期化と一向に減らない失業率に対する,国民の不満にあった。さらに,2008年の金融不安発生時に,巨額の税を投入して巨大金融資本を救済したことに対し,「一般国民は長引く不況で苦しんでいるというのに,自分たちの納めた税金が大金持ちの救済に使われた」とする政府への怒りが一向に治まっていなかったことも民主党の敗北に大きく貢献した。不況が始まったのも,金融資本に対する救済処置が講じられたのもブッシュ前政権の下でのことであったのに,その怒りがすべて現政権に向けられたのである。

 前々回,米国で皆保険制が実現してこなかった最大の原因は,マイノリティである無保険者を救済するために(増税などの)新たな負担を求められることを,保険を有するマジョリティの国民が嫌悪してきたからだと書いたが,金融資本を救済するために税金が「不当に」使われた直後とあって,皆保険制実現のために増税するというオバマ・民主党の改革案は,米国民の間に根強い「大きな政府」嫌いをことさら増強させたのである(註2)。

 果たして,「医療制度改革に賛成すると選挙に落ちる」実例を,民主党の牙城のマサチューセッツで,それも,よりによって「皆保険制実現」を生涯叫び続けたケネディの後任を選ぶ選挙で見せつけられたとあって,民主党議員が怖じ気づいたのも無理はなかった。上下院の妥協をめざす動きは一挙にしぼみ,「医療制度改革法案は死んだ」と誰もが思ったのだった。

この項つづく

註1:米国は高齢者用の公的保険「メディケア」を連邦政府が運用しているが,その財源は公的医療保険に使途を限定した目的税FICA Tax(federal insurance contribution act tax)に拠っている。
註2:マサチューセッツ州上院議員補選における民主党の敗因については,拙稿「オバマを窮地に追い込んだ,レッドソックス・ファンの『怒り』」も参照されたい。

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