医学界新聞

連載

2009.11.16

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第163回

米国肝移植ルールの公正さをめぐって(3)
ミッキー・マントルの後悔

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2853号よりつづく

前回のあらすじ:ヤンキース往年の名打者ミッキー・マントルは,ホジキン病の家族歴が濃厚であったため,「自分も40までに死ぬ」と信じ込んだ。


 前回,ヤンキースは,弱冠19歳のマントルに,大選手となることを期待して背番号「6」を与えたと書いたが,マントルの素質はそれほど並外れたものだった。

マントルの驚異的なパワーとスピード

 1951年にデビュー,68年のシーズンを最後に引退するまで18年間プレーしたマントルは,通算536本塁打(歴代16位)の記録を残した。「16位」と聞いて「大したことはない」と思う読者も多いだろうが,近年の通算本塁打記録はステロイドで「かさ上げ」されたものが多いので単純な比較ができないことに注意しなければならない。実際,引退した68年時点でのマントルの順位は,ベーブ・ルース,ウィリー・メイズに次ぐ歴代3位だったのである。

 しかも,マントルは,ステロイドが使われなかった時代に,「ステロイド時代」の今でもファンの間の語り草となるような「伝説的」特大本塁打を多数放ち,そのパワーは歴代名選手の中でも群を抜いていた(通算本塁打歴代2位のハンク・アーロンが「私の本塁打はかろうじてフェンスを越えるものがほとんどだった」と認めているように,通算本塁打数は「パワー」の指標とはなりえない)。

 またマントルは,パワーに加えてスピードも驚異的であった。時代は異なり単純な比較は難しいのだが,本塁から一塁までわずか3.1秒で走ったと言われ,イチローより早かったとされている。その並外れた俊足ぶりは,58年6月にランニング本塁打月間3本という「偉業」を達成したことでもわかるだろう。

 さらにマントルは大舞台に強いことで知られ,チームリーダーとしてヤンキースを7回のワールドシリーズ優勝に導いた。通算18本塁打・40打点・42得点のワールドシリーズ記録は,未来永劫破られることはないだろうと言われている。

 以上,マントルがどれだけ偉大な選手であったかということを見てきたが,私がとりわけ感嘆するのは,彼の場合,大きな「ハンディキャップ」を二つも背負いながら,こうした記録を残してきた事実である。

二つのハンディキャップ

 第一のハンディキャップは,「けがに見舞われ続けた」選手生活を送ったことにあった。始まりは高校時代,外傷性骨髄炎に罹患,医師が下腿切断を勧めるほど重篤化したのである。幸い,当時普及し始めたばかりのペニシリンが奏効,かろうじて切断を免れた。また,前回,「デビューした51年,ワールドシリーズで膝を負傷,入院した」と書いたが,その後も体の各所に大けがを繰り返した。特に,膝の痛みには慢性的に苦しめられ,子供たちの間に,打撃フォームだけでなく,マントルが足を引きずって歩く姿をまねることがはやったほどだった。

 第二のハンディキャップは「不摂生」だった。「40までに死ぬ」と信じ込んでいたマントルは,「どうせ早死にするのだから生きている間に楽しまなければ損」とばかりに,放蕩にふけったのである。

 ホワイティ・フォード(通算236勝106敗・防御率2.75,74年殿堂入り),ビリー・マーティン(引退後ヤンキースの監督に5回就任して5回解雇されたことで知られる。89年死亡)と,飲み仲間に恵まれたこともあり,マントルは,ダラスの自宅に妻子を残したまま,ニューヨークでも遠征先でも,「酒とバラの日々」を送ったのだった。

 というわけで,マントルは,けがに見舞われ続けただけでなく,グラウンドの外で放蕩の限りを尽くす不健康な生活を送ったにもかかわらず,数々の大記録を残した。「五体満足の状態でプレーし,節制にも努めていたら,どんなとてつもない記録を残していたのだろう」と,残念に思うファンがいまだに多いゆえんである。

 「40までに死ぬ」と信じ込んだが故に,放蕩の限りを尽くしたマントルだったが,皮肉なことに,彼は63歳まで生きた。予想を23年も超えて「長生き」したのはよかったのだが,若いときからの不摂生がたたり,その時点で,肝臓は,移植が必要になるほど痛めつけられていた。

 普通,重病になった人は,「健康に気をつけていればもっと長生きできたかもしれない」と後悔するものだが,マントルの場合は,肝移植が必要と言われて,「こんなに長生きすると知っていたら,もっと健康に気をつけていたのに……」と悔やんだのだった。

この項つづく

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