医学界新聞

連載

2009.07.06

連載
臨床医学航海術

第42回

  医学生へのアドバイス(26)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

 臨床医学は大きな海に例えることができる。その海を航海することは至難の業である。吹きすさぶ嵐,荒れ狂う波,轟く雷……その航路は決して穏やかではない。そしてさらに現在この大海原には大きな変革が起こっている。この連載では,現在この大海原に起こっている変革を解説し,それに対して医学生や研修医はどのような準備をすれば,より安全に臨床医学の大海を航海できるのかを示したい。


 今回「視覚認識力-みる」の最後として,育児の問題について考えてみたい。

人間としての基礎的技能
(1)読解力――読む
(2)記述力――書く
(3)視覚認識力――みる
(4)聴覚理解力――聞く
(5)言語発表力――話す,プレゼンテーション力
(6)論理的思考能力――考える
(7)英語力
(8)体力
(9)芸術的感性――感じる
(10)コンピュータ力
(11)生活力
(12)心

視覚認識力-みる(9)

育児学

 「夜泣き」に限らずに育児にはさまざまな問題がある。育児の問題はほとんどが一時的な問題である。しかし,子育てをしたことがなく育児を初めてする人間にとっては大問題なのである。なにせ経験がないから,何が正常で何が異常かもわからない,「夜泣き」などの「現象」は一時的なことだとはわかっているが,実際にそれにどう対処してよいのかわからない。

 もしも育児についての問題が系統的に解説され,そして,その対処方法が記載されている「育児学」のようなものがあれば,もっと子育ては楽になるかもしれない。ここで,育児など女性の仕事なので,そんなことを学問として研究することなど大の研究者がすることではないと思う人もいるかもしれない。しかし,現在の日本において,育児の悩みが原因で,虐待されたり捨てられたり殺害されたりする乳幼児が1年間に一体何人いるであろうか? また,逆に育児の悩みが原因で育児ノイローゼの末に自殺や他殺をしてしまう親が何人いるであろうか? このような悲しい事件は,新聞の片隅にしか記載されていないし,テレビでも一瞬しか放映されない。関係ないといえばそれまでである。

 しかし,もしも「医学」という学問がほんとうに人間の幸福を実現しようとする学問ならば,医学者は「育児学」という学問を真剣に研究すべきではないのか? なぜならば,もしも医学者が「育児学」を研究してそれを国民に普及させれば,育児がもっと楽になりその結果として虐待・遺棄・殺害される乳幼児や自殺・他殺する親がより少なくなるはずだからである。だから,「小児科学」は「育児学」を真剣に研究すべきである。そして,新しい「小児科学書」にはぜひ「育児学」という1章を設けてほしい。

 もっとも小児科医が過労死してしまうことがある「医療崩壊」の現在,「小児科学」に「育児学」の研究・普及を期待するのは無理な話かもしれない。しかし,調べてみると過去にこの「育児」にご尽力して「育児」を国民に普及した小児科医がなんと日本にいたのであった!

 それは日本小児科医会名誉会長の故内藤寿七郎先生である。戦前日本の乳児死亡率は10%以上で,当時は離乳時の誤った知識による栄養不足で下痢や腸炎などを患う乳児が多かったそうである。そんな時代に内藤先生を中心とした愛育会が母親に栄養指導を行った。内藤先生は昭和初期から木炭自動車で全国を駆け回り,母親に栄養の取り方や子育て方法を直接助言され,その結果内藤先生は「育児の神様」と呼ばれるようになった。この一連の活動が功を奏し,日本の乳児死亡率は現在約0.3%と世界最低水準となった。この活動が評価され,1992年にシュバイツアー博愛賞を受賞された。その後,内藤先生は2007年12月12日に101歳で天寿を全うされたそうである。「育児の神様」と言われた内藤先生の育児の知恵は,著書『育児の原理――あたたかい心を育てる』(アップリカ育児研究会)に記載されている。

 このようにあまり知られてはいないが,「育児」という問題に対して真剣に研究・普及された小児科医が日本にいたことを知って非常に誇りに思う。しかし,ここで注意しなければならないのは,現在日本の乳児死亡率は0.3%と世界最低水準となったからといって,「育児学」がもう必要ないということにはならないことである。確かにこの数字だけ見ると非常に低い値である。しかし,この数字の中には実は前述した虐待・遺棄・殺害された乳児も含まれているはずである。それならば,この乳児死亡率という数字はまだまだ改善の余地があるということである。戦後確かに内藤先生たちの活躍により「公衆衛生」を普及することで乳児死亡率は劇的に低下した。それならば,今度は「公衆衛生」ではなく「精神衛生」によって乳児死亡率をさらに低下させるべきである。「育児学」に関する知見が体系化され普及したら,世の中の親も子もより余裕を持って育児が可能となるはずである。そうすれば,親と子の両者にとって一生に1回しかない育児の一瞬一瞬をもっと楽しみながら生活できることになる。

 真夏の夜に窓を開けていると,どこからともなく子どもの泣き声が聞こえてくることがある。昔はそんな音はうるさいとしか思わなかった。しかし,現在ではその子どもの泣き声があまりにも止まらないと,心配になって玄関から出てその泣き声がどこからするのか探してしまうようになった……

次回につづく

参考文献
1)内藤寿七郎著 『育児の原理――あたたかい心を育てる』(アップリカ育児研究会,1993).
2)『追想録 内藤寿七郎さん 乳児死亡率低下に貢献』(日本経済新聞2008年2月15日).

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook