医学界新聞

連載

2009.03.16

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第147回

有保険患者を待つ落とし穴「差額請求」(3)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2820号よりつづく

前回のあらすじ:差額請求とは,サービス供給側の請求額と保険会社の支払い額の差を,供給側が患者に請求する行為である。2008年,カリフォルニア州が救急医療における差額請求禁止を決めたことに州医師会・病院協会などが反発,「禁止は違法」と州政府を訴えた。


 前回,差額請求をめぐる問題が,カリフォルニアで州医師会などの医療団体と州政府との間の訴訟騒ぎに発展した事情を説明した。医療団体が,「差額請求禁止は違法」と州を訴えたのは2008年9月末だったが,わずか3か月後の2009年1月8日,州最高裁が「救急医療での差額請求は違法」とする裁定を下し,医療団体と州政府との間の係争に終止符を打った。とはいっても,提訴からわずか3か月の間に医療団体が起こした訴訟が最高裁まで持ち込まれてその判断が仰がれたというわけではなく,ある保険団体と救急医グループとの間で争われた,別の裁判での判決が,「自動的に」医療団体と州政府との争いを終わらせたのだった。

 同州最高裁は「診療報酬に関する係争は保険会社と医療者の間で解決されるべきであって,患者を巻き込んではならない」と判決理由を説明したが,前段の控訴審では「適法」とする判断が下されていただけに,医療団体の落胆は大きかった。「保険会社の支払い額が不当に低いことが根本の原因なのに,判決のせいで医師が救急患者を診ることを嫌がるようになれば,州の救急医療は崩壊してしまう」と嘆いたのだった。

 カリフォルニア州最高裁の判決によって,差額請求をめぐる争いは,保険会社側の圧勝で終わるかに見えたが,想定外の「どんでん返し」が起こったのは,判決からわずか5日後の1月13日のことだった。しかも,どんでん返しが起こるきっかけを作ったのは,前々回,差額請求の実例として紹介した卵巣癌患者,メアリー・ジェロームだったので説明しよう。

投書から始まった「どんでん返し」

 差額請求のせいで莫大な医療費負債を抱える羽目に陥ったジェロームが,ニューヨーク州総検事局に苦境を訴える手紙を書き送ったのは,弁護士をしている娘エバの勧めに従ったからだった。癌と闘うだけで肉体的にも精神的にも消耗させられるというのに,保険会社が医師・病院に対する支払いを一方的に値切るせいで患者が医療費の工面に四苦八苦しなければならないという仕組みは,どうしても納得がいかなかったのである。しかし,自分の投書がきっかけとなって州総検事局が大がかりな捜査を始めることになるとは,夢にも思っていなかったのだった。

 ここで少し解説を加えるが,米国では,各州の総検事局に,犯罪捜査・訴追だけでなく,消費者保護についても大きな役割が担わされている。さらに,総検事は,知事や議員と同じく有権者の投票によって選出される役職であるために,言葉は悪いが「有権者の人気取り」用の捜査が実行されることも多い。ニューヨーク州総検事アンドルー・クォモの場合,2006年に就任した後,すでにカレッジ・ローンをめぐる不正を摘発して名を上げていたが,有権者受けするターゲットとして次に狙いを絞ったのが「医療産業」だったのである。特に,差額請求をめぐる問題については,ジェロームからの投書以外にも苦情は多く,クォモは2008年2月の時点で,捜査チームを立ち上げていたのだった。

 クォモのチームは,保険会社がネットワーク外のサービス提供者に対する支払い額をどう決めているのか,その仕組みを解明することに捜査の焦点を絞った。その結果,ほとんどの保険会社が,診療報酬額調査を専門とする企業「インジェニクス社」が定める料金表に従って,ネットワーク外の医師・施設に対する支払い額を決めていることが判明した。一見すると,「保険会社とは独立の第三者機関が適正料金を定める」形式となっていたのだが,問題は,インジェニクス社は,米保険企業最大手の一つ,ユナイテッド・ヘルス社の完全子会社であり,お世辞にも「独立」とは言い難いことだった。さらに,クォモのチームは,インジェニクス社が定める料金が実勢価格より2-3割安いことも明らかにし,「差額請求問題の根本原因は,保険会社が診療報酬を不当に低く抑えていることにある」とする,医師・病院団体の主張を裏付けたのだった(註1)。

「診療報酬適正化」と「患者保護」の二原則を重視

 1月13日,クォモはマンハッタンの病院にメディアを招き,差額請求をめぐる捜査結果を公表するとともに,ユナイテッド・ヘルス社が「本当に独立」の診療報酬調査機関を設立するために5000万ドルを拠出することに合意したと発表した(註2)が,記者会見の場に,捜査のきっかけを作ったジェロームが招待されたのは言うまでもない。さらに,2日後の1月15日には,米国医師会などが差額請求をめぐって起こしていた集団訴訟で,ユナイテッド・ヘルス社が賠償金3億5000万ドルを支払うことで示談が成立するなど,差額請求問題解決については,「診療報酬適正化」と「患者保護」の二原則を重視する動きが加速された。ジェロームの投書がきっかけとなって始まった「どんでん返し」が,いま,米国医療界に大波となって広がりつつあるのである。

 日本で,「保険者機能の強化」と称して,「個々の保険者が医療機関を選別して割引契約することを認めよ」と主張する向きがあるようだが,保険者が医療機関をネットワーク化する(=「フリーアクセス」を崩す)ことの危うさが,少しはおわかりいただけたのではないだろうか?

この項おわり

註1:診療報酬額を不当に低く抑える行為は,患者への保険給付額をも不当に低く抑える行為であることに注意されたい。
註2:その語,独立調査機関の設立については,エトナ社(2000万ドル),シグナ社(1000万ドル),ウェルポイント社(1000万ドル)と,他の保険会社も拠出金を差し出すことに合意した。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook