医学界新聞

連載

2009.01.26

腫瘍外科医・あしの院長の
地域とともに歩む医療

〔 第4回 〕
看取り(1)-看取りの大切さ-

蘆野吉和(十和田市立中央病院長)

腫瘍外科医として看護・介護と連携しながら20年にわたり在宅ホスピスを手がけてきた異色の病院長が綴る,
「がん医療」「緩和ケア」「医療を軸に地域をつくる試み」


前回よりつづく

 私が20年以上かかわってきた在宅ホスピスケアから学び,ライフワークにしている課題のひとつが誰にでも訪れる死/看取りを地域社会に戻すことです。

看取り-看取られる関係性を再考する

 ここで,今もっともありふれた病院での死,そして看取りの状況を振り返ってみます。がん終末期の方が入院したとき,多くの場合,看護だけでなく介護や日常的なお世話がすべて医療従事者に委ねられます。家族と親族は病状が悪化し死ぬ間際に駆けつけ,心臓と呼吸が止まった時点(時に心電図の波形が平坦となった時点)で臨席する医師から死が宣告され,それを受け入れる余裕なく自宅へ帰る支度を始めなければなりません。このように,病院においては治せなかった病を持った“患者”の死を医学的に確認する儀式があるだけで,看取り-看取られる関係性は存在しません。

 一方,40年以上前は自宅がもっともありふれた死を迎える場所であり,看取りの場所でした。その情景を少し呼び起こしてみます。自宅では本人が動けるうちは自分の居心地のよい場所を探し,自由に移動します。病状が悪化し動けなくなると家族,親族,ご近所の誰かが常にそばにいることになります。医療従事者は病状に応じて訪問しますが,そばにいる時間は短く,臨終には同席しません。死亡確認のため連絡を受けた医師が緊急訪問しますが,医師が到着するまで,家族にとって死んでいるかどうかあいまいな時間が経過します。しかし,この時間は家族が死を受け入れるためにむしろ必要な時間であると思います。そして医師が死亡確認し,帰った後もゆっくりお別れの時間を過ごすことができます。

 この一連の経過の中で注目したいことは,日常の生活の場で,日常性の中で,大切な人が死に逝く過程をつぶさに見る機会が提供されていることです。またこの機会に同席している人々は,これまで一緒に生きてきた軌跡を振り返ることになります。

 子どもを含めた家族,そして地域の人々は,この看取りを通して自分たちの生の実感といのちの大切さ,そして,家族や地域の絆を再確認することになります。このように“看取り”は地域社会にとって非常に大切な儀式なのです。

当初は想定していなかった自宅での看取り

 1987年に在宅ホスピスケアを始めたときには,自宅で看取ることは全く考えていませんでした。臨終期は入院させ,病院で死亡を確認するつもりでいました。しかし,思ったようにうまく事は運びません。88年11月に病院で亡くなった直腸がん肝転移の60歳の女性は再入院を拒みましたが,肝不全で意識がなくなった時点で病院に連れてきました。その後,病院に再入院させるタイミングを逸したまま自宅で亡くなる方が次第に増えてきました。

 そしてある日,衝撃的な経験をしました。大腸がん肝転移で69歳の男性が自宅で亡くなったのですが,看取りに参加した大勢の家族が皆,涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも満足そうな笑顔をみせていたのです。家族が看取ることの大切さを理解した瞬間でした。91年3月のことです。

 これを機会に私は自宅での看取りを推進する方針に大転換し,地域で看取るためのシステムづくりを始めました。前病院における在宅死315名,人それぞれの看取り-看取られ方があり,多くの学びをいただきました。

 わが国では今,約8割の人が,がんでは約9割の人が病院で亡くなっています。死は日常から切り離され,家族を中心とする看取りが忘れ去られてしまいました。そしてこのことが“いのち”の希薄化,そして家庭や地域の絆の弱体化につながっていると強く感じています。死と看取りを地域に戻すことの意義がこの点にあります。

 

 

この項つづく

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