医学界新聞

連載

2008.03.10



生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第12回(最終回) 「医療」というジレンマ ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

死の「情けなさ」にまつわる個人的な思い

 僕はこの連載を,自分の死について語ることから始めました。連載を終えるにあたってもう一度,同じテーマに戻って考えてみたいと思います。

 死はなぜ恐ろしいのか。最近思うのは「人は死に瀕したとき,自分の命を自分で始末をつけられない」ということに対する根源的な情けなさのようなものを感じるんじゃないかということです。

 医者であろうとなかろうと,目の前のひとりの人間が命にかかわるような病を抱えているときには,相手の感情の動きが直接的に伝わってきて,どうにもいたたまれなくなるということが起きます。その気持ちを腑分け,分析していくと必ず,自分の命の始末をつけられないことについてその人自身が感じている情けなさを,共感的に感じている,ということに突き当たるんです。

 この感覚は必ずしも「すぐに死んでしまう」状態にだけ訪れるわけではありません。典型的な例は要介護状態ですね。たとえば,自分でお尻が拭けないとか,おしめをしなければならないということがもつ「情けなさ」というのは,これと同質だと思う。医療や介護分野で最近「尊厳」っていうことがいわれるようになりましたが,すごくストレートに申し上げると,たとえば「どうやったら人間としての尊厳を保ったまま,おしめをつけられるのか?」という疑問をどうしても取り払うことができない。それに対するすっきりとした答えを聞いたことがない。僕にとって死というのは,そういう介護にまつわる「情けなさ」とも直結する問題なんです。つまり,死そのものというよりは,自分自身が人間としての尊厳を維持できるのかどうかにかかわる恐怖といってもいいかもしれません。

 仮にがんになったとしても,そこで問題になるのは「がんで死ぬ」ということだけじゃないんですよね。むしろ,何らかの施術によってがんサバイバーとなった自分が,たとえば人工肛門をつけなきゃいけないとか,余命が限られると告知されるといった状況に置かれたときに感じる,ある種の情けなさ。僕が死を問題として取り上げるとき,そこにはそういう根源的な「情けなさ」が,大きな存在としてある。

 ただ,この問題は,一般化して議論するのがすごく難しい。というのは,ALSや小児麻痺といった,生まれながらにして介護を受ける人がいらっしゃるわけですから。もちろん,そうしたさまざまな存在の仕方を包括的に捉えたアプローチも必要だと思いますが,この連載では僕は,あえて非常に個人的なレベルで「一人の人間として,自分のこの身体を自分が処することができなくなる」ということの辛さを語ってきました。

 なぜか。このテーマについては,1人ひとりがまったく違う経験をしていると同時に,普遍的に,まったく同じような経験をしているともいえると思ったからです。それぞれの身体の中で傷んでくる場所,動かなくなる場所,痛みが走る場所,吐き気がする時期,どういう種類の嘔気であるかは,1人ひとり,全部違う。でも,自分の体が朽ちていく,自分自身を処することができないということがはらむ挫折感というのは,ある程度,人間にとって普遍的な苦悩といえるのではないかと思うのです。

医療者は普遍的に「患者から遠い」存在である

 そうした人間に普遍的な苦悩に対して医療者はどのように対応するのか。現在の医療が至ったのは,一言でいえば「患者さんから遠くなる」という道でした。これはある種の限界だと僕は思います。

 「いや,私は患者さんの親身になっている」という先生もいらっしゃるでしょう。しかしたとえば100人の患者さんを診て,それぞれの入退院の世話をするとなれば,絶対にどこかが自動操縦になっているはずなんです。そうじゃないと,今のシステムのもとで医者として普通はやっていけない。

 このことが医者という存在が持つ究極のジレンマです。極端にいえば医者が医者として機能していくためには,人間的であることはできないし,そうあってはいけないんです。その人が自分の身体を失っていくことを感じているのと同じように感じてしまっては,患者をマスの単位で扱う医療は立ち行かない。そういうある種の諦観からしか,医療は出発できないわけです。医者は,医療という枠組みの中で,たんたんと医療を提供していく。少なくとも今日の医療システムでは,それこそが医者の仕事です。ただ,そこには患者はいないんです。

 そういう意味では人の死に際して,医療者がどうにかできることは,本質的には何もないんですよね。そもそも,医療というのは人間存在を包括的に見よう,という視点をあえてなくすことによって,「科学的」になったということがあるわけです。だから,全人的医療,というのは,医療の科学性という観点からいえば語義矛盾を起こしている。あなたの肺は汚れています,とか,腎臓の片方が弱っているといわれた瞬間,それらの臓器は自分にとって他者,違和感のある存在になるわけですが,そういう見方と,人間存在を全体的にみる見方というのは,両立しないんです。

 部分の集積が全体であり,全体は部分に解体できる。この考え方っていうのは科学主義の根本にある,ものすごく力強い考え方です。すごく一面的な見方ではあったけれど,世界のいろんな謎は,こうした部分にフォーカスする視線によって解き明かされてきた。現代医療というのはそのひとつの達成ですよね。だからこそ,医者は基本的に部分の集合,組織としての身体を診ていますし,包括的な人間存在なんてものは本当はずいぶん昔から診なくなっています。

 そして,これは忘れてはならないことですが,こうした見方は間違っているわけじゃなくて,むしろ,ひとつの真実だということです。しかし同時にそれはあくまでひとつの見方に過ぎない。そういうふうに人を見るというのは,臓器の集合体を診るということであって,「人間を見る」ということとは違ってくるということです。

なぜ,医者が看取るのか

 そのように考えれば,医療というのはある意味,僕がいうところの「死」を扱うには,もっとも適さない枠組みだということがわかる。「部分の集合としての死」なんてものはないし,「死亡者数」とか「5年生存率」といった言葉で語られる医療システムにおける「死」というのは,個人の死,もっといえば「私の死」とはまったく関係のない話です。しかし,医療者は必然的に,そういうふうに死を扱わざるをえない。

 医療にとっての死がそのようなものであるにもかかわらず,今やほとんどの人が病院で死を迎えるようになっている。これは冷静になって考えてみると恐ろしい状況です。在宅死とか尊厳死の議論を見ても,前提にあるのは「医師の監督下にある死」ということなんですよね。これは,たとえばフーコーが指摘した「医療という権力」の問題として考えることができる,大きな問題です。

 人の死を判定したり,他人を看取ったりする権限を与えているのは,まさに医療という枠組みそのものであって,その枠組みが維持されている限り,いかに充実した医療と緩和ケアが提供されたところで,本質的なところで齟齬があると僕は感じる。なぜなら,医療という枠組みは根本的に「人間」を対象としたものではないから。

 いつから医者は,人の死を看取るようになったのか。今の議論は,どれを見てもこの問いを避けていますよね。それはおそらく,医者に与えられている看取りの権力というのは,国家権力のひとつだからでしょう。たとえば,浄土真宗のお坊さんに看取りの国家資格を与えたら,けっこう多くの人がお坊さんに看取られることを望むんじゃないでしょうか。でも,お坊さんには国家資格がない。国家資格を与えられていて死の近くにいるのは医者しかいない。だから,「いかにして医者の看取りをレベルアップするか」という問題から始まってしまう。ここですでにねじれているんです。

 こういうねじれから目を背けて緩和医療,尊厳死といったテーマが議論されていることが,僕にはどうしても気持ち悪い。いろいろ各論はあるだろうけれど,まず問うべきは「医者が死を看取っていいのか」という問いじゃないかと思ってしまうのです。国家によって保証されているということ以外に,医者が人の死を看取るのに適した存在だという理由はどこにあるのか。

 人間として死ぬ,看取るということを本気で考えるなら,医療という大きな枠組み,物語から離れたところでそれを構築していかなければ可能性はないんじゃないか。僕はそう思うのです。

死を畏れる医者として

 うまく伝わったか,はなはだ心もとないのですが,この連載はここで終わります。もし,僕がこれから医者になろうとする人にかける言葉があるとすれば,「人の死というものを畏れる医者であってほしい」ということです。医者は死と闘うということと,死を看取るということに,常に分裂した存在です。

 しかし,それは同時に,可能性と運命,生と死,偶然と必然,というような,人生の根本的な問題を絶えず問い続けなければすまない位置に居させられているともいえると思います。

 願わくば,この小連載が読者の医師としての生き方に思いを巡らす触媒になればと思います。

(了)

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