医学界新聞

連載

2007.09.24

 

研究以前モンダイ

〔その(6)〕
科学以前のモンダイ

西條剛央(日本学術振興会研究員)

本連載をまとめ,大幅に追加編集を加えた書籍『研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座』が,2009年10月,弊社より刊行されています。ぜひご覧ください。


前回よりつづく

科学をめぐるモンダイを考える

 「看護学は科学的であるべき」ということがいわれるようになってから久しいと思います。しかし,「科学(的)とは何か」を根本から問い直したことのある人はほとんどいないのではないでしょうか。

 科学的であることにはどんなよいことがあるのか? 科学的であることはいかなるときも求められるべきなのか? 求められる科学性とはひとつしかないのか? もし複数の科学性があるならば,どのような状況でどのような科学性が求められるのか?

 こうしたモンダイを考えることは,「病気は治ったが患者は死んだ」といった揶揄に代表されるような悲劇や,科学性を求めるあまりに看護学の本来のあり方を見失ってしまわないためにも,重要なことと考えられます。今回から数回にわたり,こうした「科学」をめぐるモンダイについて考えていきましょう。

「科学性」をめぐる信念対立

 看護研究において,科学的であるかどうかは重要な要素とされています。「あなたの研究は科学的ではない」という批判は,「まともな研究ではない」といわれているようなものでしょう。こうした批判に対して「いや,あなたのやっている研究のほうが科学的ではない」といった形でお互いの主張がぶつかり,信念対立に陥ることも珍しくありません。

 なぜこのようなことになってしまうのでしょうか? そしてどうすればこのような事態に陥らずにすむのでしょうか? その手がかりを得るために,まず一般的に「科学」というコトバがどのように了解されていくのか,その学習プロセスをみてみましょう。

「科学」というコトバの学習プロセス

ハンショウ教授とその教え子の場合
 「その研究は仮説を実験によって検証しているから,科学的な研究である」「では先生,この研究は科学的でしょうか?」「それもちゃんと数量化して推測統計学を使っているから科学的といえるだろう」「では,これはどうでしょう?」「それはただ観察して記述を積み重ねているだけで,実験もしてなければ,条件統制も検証もしておらず,統計も使っていないからとても科学的とはいえないな」「なるほど,実験的手法や統計的処理を行っているものが科学的研究で,そうじゃないものは非科学的なんですね」

キノウ教授とその教え子の場合
 「この研究は実際の看護現場で観察事例を積み重ねて,共通点を取り出しているから十分に科学的研究といえる」「じゃあこの研究はどうでしょうか?」「これも現場で虚心に観察し,しっかりとインタビューして患者さんの本心に迫っているから科学的だね」「ではこちらの研究はいかがでしょうか?」「この実験は一見科学的で客観的にみえるが,実際の看護場面とかけ離れていて生態学的妥当性がないため科学的とはいえないね。むしろ,安易に数量化して現実から離れているから,不自然で歪んだ客観性に基づいた研究といえる」「なるほど,現場で丁寧に観察やインタビューを積み重ねてそこから知見を取り出してくるものこそが,科学的研究なんですね」

 これは僕がいろいろな経験をもとに創作した事例であり,いささか劇画化されていますが,これと似たような場面が思い当たる方は少なくないのではないでしょうか。「科学的」の「コンテンツ」(内実)は,他にもいろいろあると思いますが,ここでいいたいことは,このようなプロセスを経て,同じ「カガク(科学)」という「音声や表記(シニフィアン)」に,異なる「内容(シニフィエ)」を獲得することになるということです。

 それもこれも,「科学」とは「コトバ」にほかならないからです。コトバ遊びをしているわけではありません。これは「言葉とは何か」という難問に挑んだソシュール言語学のエッセンスに基づいた,重要な「科学以前のモンダイ」なのです。

ソシュール言語学のエッセンス

 突然ですが,犬の定義は何でしょう?

 こう聞かれてすんなり答えられる人はまずいないでしょう。調べてみると,次のようにあります。

 「いぬ【犬】大昔から人間に飼育されてきた家畜。従順なので家・羊などの番をしたり……」(新明解国語辞典,三省堂より)

 私たちはこのような定義をまったく知らなくても,「犬」というコトバを使うことができます。

 なぜかといえば,「犬」というコトバを定義として実定的に習うのではなく,「あれは猫じゃなくて犬」といった対比(差異)の中で,「犬」という名(同一性)を自分の中に構築していくからなのです(これを「言葉の差異性」といいます)。

 人がそれを「犬」と呼ぶ理由は,教えてくれた人や周囲の人が「犬」と呼んでいたということ以外にありません。つまり,コトバとは原理的に恣意的(社会的)なコトなのです。しかし,先人にならい覚えたコトバによって世界を認識しているわれわれには,その恣意性はみえなくなってしまい,絶対的なモノだと思いこんでしまうのです(丸山圭三郎はこれを「言葉の物神化」といいました)。

 以上がソシュールが指摘した「言語の恣意性」の概要ですが,実は「科学」も言葉である以上,これとまったく同じ構造を持っています。われわれは,科学の定義を知らずとも「科学(的)」という言葉を使うことができますし,自分のならい覚えた「科学」を絶対的なモノとして了解してしまう,ということが起きるのです。

 このような議論は,抽象的で,非科学的なものと感じられる方もおられるでしょう。しかし,このように「科学」というコトバを相対化しておくことは,自分がならい覚えた科学性を絶対視せず,無用な信念対立に陥らないためにも極めて重要なこととなります。

 このように,ソシュールの一般言語学といった看護実践とは遠くかけ離れたようにみえることも,そのエッセンスを上手に取り出せば,役立つものになりえるのです。これはとりもなおさず科学的でないものも,看護学において有効性を発揮することを意味しています。

帰納主義と反証主義

 さて,2つの事例を出しましたが,前者のハンショウ教授は科学論でいうところの「反証主義」という考えに基づいています。「反証主義」とは「科学的であるためには,反証可能でなければならない」という考えです。反証主義は,実験的手法による「検証」や,推測統計学の「帰無仮説の棄却」という考え方と親和性が高いため,いわゆる数量的アプローチを採用する研究者に好まれます。この意味でいえば,ハンショウ教授は典型的な,反証主義的―数量的研究者ということができます。

 一方後者のキノウ教授は,「帰納主義」という考えに基づいているということができます。「帰納主義」とは,「一回起性の出来事をたくさん観察して,そこから共通する構造を抽出していくことが科学である」と考える立場です。帰納主義は,現場で事例的な研究を積み重ねていく質的研究と親和性が高いため,質的研究者に好まれる傾向があります。キノウ教授は,典型的な,帰納主義的―質的研究者といえます。

 ハンショウ教授,キノウ教授に共通していえることは,その教え子である学生が,同じタイプの研究者になる可能性が高いということです。それは,先に述べたように「科学」というコトバは,科学的/非科学的という差異を軸にならい覚えていくためなのです。

 ここでは,特定の研究法や理論的立場のバックグラウンドになっている科学論自体にいろいろな考えがあるということを知っておいていただければと思います。異なる科学論に依拠していれば,異なる科学観に至るのは自然なことです。当人がどれだけ自覚しているかは別として,少なくともならい覚えた人が「なるほどたしかにそれは科学的だな」と思えるほどに説得力がある科学論は複数あるということなのです。

 今回は,「科学」をめぐる信念対立を低減させる端緒を開くため,「科学」というコトバをならい覚える過程を記述し,また科学観を支える科学論にもいくつかあることを示すことで,各人が獲得している「科学」という概念を一旦相対化してみました。ここで取り上げたのは反証主義,帰納主義ですが,こうした分類は大まかなものですし,科学観はそれこそ人の数だけあるといえます。

 では,どのような科学も等しく正しいものと考えていいのでしょうか? いえ,そんなことはありません。小説のように好き勝手に妄想を交えて書いた記録まで科学的としてしまっては,現場は大混乱に陥るに違いありません。次回は,論理的に考える限り誰もが了解できるような,科学性の条件とは何かについて考えていきたいと思います。

この項つづく

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