医学界新聞

連載

2007.03.12

 

名郷直樹の研修センター長日記

38R

コトバは時間を生み出す形式である

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院
市立伊東市民病院
横須賀市立うわまち病院
市立奈良病院臨床研修センター長


前回2719号

■月▲▽日

 もうずいぶん長い時間が経った気がする。しかし,1年前にはまだへき地の診療所にいたのだ。確かに,ついこの前までは,へき地診療所にいたんだ。そう考えると,なんだかあっという間の出来事のようにも思える。何も変わっていないような自分と,ずいぶん変わったような自分。どちらが本当なのか。
 多分時間を止めれば,そのときそのときの変わらない自分がいる。時間を止めなければ,時間とともに変わり続ける自分がいる。ただ自分について語ろうとすれば,それはいつもどこかの時点の自分になる。名づけるというのは,時間を止めるということでもある。だから,「私」というひとつの同じ言葉で考える以上,私は変わっている感じがしない。時間というのは不思議なものだ。時間は経つ。しかし病院では時間が止まる。すべてを医学の言葉で表現するからだ。病院になくて,へき地にあったもの,それは「時間」ということではないか。

 科学は時間を抜いたコトバで記述する。

 ある生物学者が言っていたのを思い出す。言葉と時間,そんなことを考える。科学の言葉には時間がない。時間によって言葉の表わす意味が変わったりしたら,科学が成り立たない。だから言葉から時間を抜く。時間を含まない記号や数字で記述できれば,より客観的な記述ができる。科学としての医学を学んできた自分は,そういう時間を抜いた言葉を使うことには慣れている。だから,自分自身のことを考えるときもついついそうなる。時間を抜いた自分。常に私のことを,時間を抜いた同じ「私」という同じ言葉で考える。当然,患者さんのことを考えるときも同じになる。時間を抜いた「患者さん」を,患者さんとして認識する。

 1年前の日記を引っ張り出して,ちょっと読んでみる。信じられないことだが,1年前の日記には,こんなことが書いてある。同じ自分が書いているのに。

 「やりたいことは1つ。私自身医師として,必要なほとんどすべてをへき地医療で学んだ。もっと正確に言えば,へき地医療の中で出会った多くの患者さんから学んだ。にもかかわらず医師過剰といわれる中でもまだまだへき地での医師不足は深刻だ。都市部の過剰に反比例して,へき地ではますます不足している感じもある。そうしたへき地の医師不足に対し,自分ががんばるというだけでなく,単に医師を送り込むというだけでなく,最高のへき地医療を提供するために,最高のトレーニングを積んだ,最高のへき地専門の医師を,日本全国のへき地に派遣したい。そしてそのような教育システムが定常的に動き出したら,自分自身ももう一度へき地医療の現場で働きたい」

 なんだか恥ずかしいような気分になる。恥ずかしいのは1年前の自分なのか。今の自分なのか。それとも両方なのか。多分両方だ。それにしてもこんなことを書いていたんだと,自分で自分にびっくりする。そうだ,私はへき地医療のためにここへ来たのだ。そして,その後1年という時間が経ったのだ。
 あらためて思う。自分はへき地で何を学んだのか。「時間」ということにつながって,はたと思う。それは多分,時間,つまり,生まれて,死ぬということ。時間が経つということ。もっと簡単に言えば,「人は死ぬ」ということだったのではないか。それに対して,へき地以外で何を学んだのか。それは,「人を死なせないためにはどうするか」ということだったと思う。なぜそんなふうに考えるのか。自分でもよくわからないのだが,とにかくそういうことだ。そう思える。そう整理すると,いろんなことが見えてくる。
 人は生まれ,死ぬ。時間が経つ。医学の言葉は時間を止める。流れを止める。流れに求める。ばらばらに,遠くはなれてあったもの同士が,実はつながっている。私は,何かあいまいなことを言っているのだろうか。あいまいだけれど,このあいまいさが重要だということは,はっきりわかっているつもりだが,実際はどうだか,というあいまいさ。

 たとえば,死に瀕した患者を記述する。医学の言葉で記述する。心臓へ行く血管が閉塞し,心筋梗塞から心不全となる。あいまいさはないが,時間が抜ける。しかしそのおかげでわかりやすく記述できる。逆に,死に瀕した患者を医学の言葉では記述しない。そこには時間がある。しかし記述しないから,何がどうなっているのかさっぱりわからない。時間を含む医学以外の言葉で記述できればいいのだが,そんな言葉はよくわからない。時間を抜いた医学の言葉なんて,実は思いつかない。「もの」としての医療の記述と「こと」としての医療の記述。

 科学は,時間を抜いたコトバで世の中を記述する。医学も多分そうだ。しかし,逆だってあるかもしれない。記述することで時間が現れる。コトバは時間を生み出す形式である。先の生物学者はそうも言っている。確かに。本当にそうであれば,すばらしいことだ。言葉が時間を生み出すならば,言葉は患者の姿を見事にあぶりだすだろう。でも自分が使う言葉はどうか。自分の言葉は,おそらく患者から時間を抜いた記述になる。どうしても。死ぬということが,時間を含んだ言葉で,どう記述できるのか。あるいは,死を言葉で記述することにより,時間が生み出されるであろうか。

 コトバは時間を生み出す形式である。

このフレーズが頭にこびりついて離れない。まだはっきりとはつかめていないけど,これこそ自分がめざすもののような気がする。

次回につづく

(参考図書)
池田清彦:構造主義科学論の冒険(講談社学術文庫)


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。

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