医学界新聞

 

対談

不平等社会日本と健康の格差

近藤克則氏
日本福祉大学社会福祉学部/教授
佐藤俊樹氏
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部/助教授


 豊かになったはずの日本で,高所得層に比べ低所得層でおよそ5倍もうつ状態や要介護状態が多い――。近藤克則氏は著書『健康格差社会――何が心と健康を蝕むのか』(医学書院)の中でこうした健康格差の実態を明らかにする一方,なぜ社会経済的な因子が健康に影響を及ぼすのか,そのプロセスについての理論仮説を提示している。

 社会経済格差の拡大は何をもたらすのか,健康によい社会とは? 本紙では,『不平等社会日本――さよなら総中流』(中公新書)で階級社会の実態を明らかにした佐藤俊樹氏との対談を企画した。


近藤 私が『健康格差社会』を着想したのは,2000年から1年間,イギリスに滞在していた時です。イギリスでは格差が見えやすいためか人々の関心が高く,政府が健康格差の存在を認め,格差を減らすためのアクションプランをつくるほどでした。しかし日本では,なぜかこの問題が無視されている。「このテーマを掘り下げよう」と思いながら帰国すると,社会の不平等拡大を巡って日本でも論争が起きていました。

 論争を巻き起こしたおひとりが,佐藤先生でした。先生が書かれた『不平等社会日本』では,社会調査の解析から,専門職や企業の管理職につくエリートたちの出身階層の固定化が戦前以上に進んでいることを論証され,「階級社会」化への危惧を示されていた。私は,読んで面白かった本にはつい感想を書き込んでしまうのですが,この本には「いつかこんな本を書いてみたい。健康の不平等で」と書き込みが残っています(笑)。そこで,本書執筆の契機を与えてくださった佐藤先生と,日本社会における不平等や,それと関連する「健康格差」の問題について,お話ししたいと思ったわけです。

「結果の平等」と「機会の平等」

佐藤 いま,さまざまな分野で格差が話題になっていますが,2つのこと「結果の平等/不平等」と「機会の平等/不平等」をはっきり分けて議論する必要があると思います。

 前者の,「結果の平等/不平等」とは,努力や能力の結果もたらされるもので,所得格差がその典型です。「結果の不平等」それ自体は,いいとも悪いとも言えないものなんです。「努力した人は報われるべき」だとすれば,努力してお金を儲けるのは当然で,「『所得格差』の何が悪いのか」となる。もちろん,どの程度までの格差が妥当かとなると難しいですが。

 一方,後者の「機会の不平等」は,例えば私が『不平等社会日本』の中で書いた,「親の職業が子どもの進路に影響する」みたいな格差です。これはいわばスタートの時からつけられている差です。「結果の不平等」と異なり,「機会の不平等」は本人の力ではどうにもできないもので,「フェア(公正)でない」という社会的コンセンサスがあります。つまり,存在すること自体が不正義になります。

 だから,平等にも「結果の平等」と「機会の平等」の2つがあって,「機会の平等」は,私たちにとって,最大限尊重すべき大原則にあたるものです。

 そして,それを実現するには,いくつかの基本ルールが守られていなければならない。その1つが「再挑戦可能性の確保」なんです。これはずばり,「心身の健康」と言ってもいい。再挑戦できるためには,その前提として“明日も挑戦できる心と体”でなければなりませんから。そういう意味で,近藤先生が示された「健康格差」の問題は私たちの社会の根幹に関わるもので,その存在自体があってはならない,不正義にあたる「機会の不平等」の1つだと言えます。

社会全体の“首尾一貫感覚”を保つ

佐藤 アメリカは,人種や出生地などで日本以上に大きな機会の不平等をかかえていますが,同時に,それを真剣に直そうとする社会でもある。現実に不平等はいろいろあるけど,将来に向かっては希望を持てるように,たえず努力しています。ところが,現在の日本は機会の平等が保証されないまま,どんどん競争社会になっていて,にもかかわらず,競争による「結果の不平等」は当然だとされている。そんな感じですね。いちばん大事なところがうやむやになっています。

近藤 幻想としての“平等社会ニッポン”を,まだ引きずっているからでしょうか?

佐藤 はい。ですから,不平等の議論を単なる流行で終わらせるのではなく,「健康格差」の実態をデータで示して,それをもとにみんなで考えていくことが必要だと思います。

近藤 もっと勝ち組/負け組の格差を広げてもいいという論調には,「日本は結果の平等にこだわりすぎて悪平等となり,活力を落としている」という前提があります。その前提となる「機会の平等」が保障されていないということを,まず確認すべきですよね。

佐藤 ええ,その点で『健康格差社会』は議論とデータの示し方が明確で,私も面白く読ませていただきました。特に示唆的だったのは,「個人にとって悪いことは,社会にもあてはまる」ということです。例えば,個人の健康を守るものとして,ストレス対処能力SOC(Sense of Coherence:首尾一貫感覚)が紹介されていますね。

近藤 自己や生活の中の出来事について,それは有意味で,把握可能で,処理可能であり,首尾一貫としたものであるという感覚が強い人がいる。一方で,それが弱くて「自分ではどうしようもない」と感じやすい,いわば運命論に立つ人がいる。SOCが弱い人ほど,ストレス対処能力が低く,出来事に翻弄されて健康も損ないやすいというところですね。

佐藤 今の日本には強い不平等感がありますが,これはまさに社会レベルでの,「首尾一貫していない」という感覚と結びついています。公平な競争の結果として差がつくことには,多くの人が合意している。ならば競争の公平さを保つために,スタートラインをできるだけ同じにする,つまり機会の不平等はできるだけつくらないようにしないといけない。そこが首尾一貫していないから,不平等感や不信感が格差の実態以上につのっていく。

近藤 「引きこもり」など,自分の努力ではどうしようもないとあきらめてしまった人が増え,閉塞感が強くなっているように感じます。

佐藤 自由競争が活力を生むのは事実です。でも,その前提は「機会の平等」が確保されていると感じられること,つまり“社会としての首尾一貫感覚”です。それが失われると,個人が健康を損ねやすいように,社会の健康も損ねやすい。活力を失ったり,不信感や妙な閉塞感にとらわれたりするのではないでしょうか。

勝ち組も不幸にする格差社会

近藤 「安心して生活ができる」「見通しが立つ」ということは,とても大事なことです。競争社会,それによる格差が大きくなりすぎると,勝ち組ですら,今日は勝ったけれども,次のゲームには負けるかもしれない。将来はどうなるかわからないと不安になる。だから少しでも可能性を広げようとして仕事は断れない。こういうストレスに満ちた状態は健康によくないだろうと,自分の生活を振り返っても思います。「締め切りをすぎた書類や原稿書きがまだ2つ残っているのに,断れない仕事(例えば救急車)が入ってきた。明日の学会発表はどうなるのだろう?」みたいな感じです(笑)。

佐藤 この『健康格差社会』の帯の言葉(格差社会は「負け組」だけでなく「勝ち組」をも不健康にする)のように,勝ち組,正確にいうと「現在の勝ち組」にとっても,格差の大きい社会は必ずしもいい社会ではないんですね。勝ち組といえども,明日は負ける可能性がある。その時,再挑戦できないと困る。現状がよい人もあまりよくない人も,みんなにとって再挑戦できる社会にするのは大切なことです。

近藤 卑近な例ですが,私が学生の頃は成績不良でも追試が認められ,それで救われました(笑)。でも,いまは,成績不良というだけでは追試を受けさせてくれない。忌引きとか特別な理由がなければ追試すら認めない大学もあります。学生の精神衛生上は,あまりよくないと思います。もう一回挑戦できるという安心感,それがあるだけでもストレス度はまったく違うはずです。そのぶん,勉強しなくなるかもしれませんが(笑)。

佐藤 再挑戦できない競争社会では一度負ければおしまい。だから,現在の勝ち組も勝っている状態にしがみつかなければいけない。めちゃくちゃストレスフルです(笑)。

近藤 知人に聞いた話ですが,市中病院で研修した時は先輩医師が何でも教えてくれた。ところが,大学病院に移ったら,指導医が教えてくれなかった。なぜかというと,大学は「この技術を持っているのは自分だけ」というのがないと通用しない競争社会なんです。それに対して第一線の市中病院では,自分しか技術を持っていないと夜中に呼び出されます。それはしんどいので,若い医師に惜しみなく教える(笑)。

佐藤 それはふつうの民間企業でも切実な問題ですね。成果主義が大々的に導入される前は,若い人に知識や技能が伝達できていた。ところが安易な成果主義は,短い時間幅で「何をやったか」が評価されるので,教える余裕がなくなる。その結果,産業の基礎体力がずるずる低下している感じです。

 効率にも短期的なものと長期的なものとがある。短期的には正しいようでも,長期的には間違っていたことはよくあります。想像力を持って「長い目で効率を考える」ことも大切です。

近藤 想像力の問題と言えば,ロールズ(John Rawls:『正義論』で知られる哲学者,故人)の言う「無知のヴェール」で,自分がどの社会階層に生まれるかわからないとしたら,どう思うだろうと考えられるのも,想像力ですよね。

佐藤 想像力を働かせて,効率を長い目で見るとか,ずっと後ろの方からスタートせざるを得なかった人々に思いを巡らせる。格差拡大や公正さについて考えるうえでは,それが大事です。

デコボコ前提の,ソーシャル・キャピタル豊かな社会を

近藤 『健康格差社会』の中で「ソーシャル・キャピタル」(信頼,互酬性の規範,そして社会的なサポート・ネットワークなどの社会・集団の持つ特徴で,人々の協調行動を促すことにより社会の効率を高めるもの)という概念を紹介しました。個人としての利害と集団としての利害が対立する局面があり得ます。その時に「自分さえよければいい」というのは短期的に見れば合理的です。けれども,そういう個人が増えてしまうと緊張やストレスが高まり,集団や社会としてのパフォーマンスが落ちるし,そこに属する個人の健康が失われてしまうという理論仮説です。

 いろいろな病院を見学してみると,ある病院は患者が多くて忙しいのに,あまり文句を言わず,いや文句を言いながらも(笑),明るく働いている。片や,客観的に見ればさほどハードに見えない病院なのに,疲労感が漂い,つらそうに見えるところがある。何が違うのかをみると,前者ではソーシャル・キャピタルが豊かなのです。例えば,誰かが体調を崩して困っている時には「俺が診ておくよ」というサポートがあって,逆の立場になった時にはその借りを返すというふうに,お互いにカバーする。そんな経験に基づく信頼感があるのとないのとでは,集団のパフォーマンスがまったく違うんですね。

佐藤 私も20代に体調を崩していた時期があって,何が困るというと,数か月先の約束ができないんです。数か月後の自分の体調が予測できない,だから約束を守れないかもしれない,だから何も先の約束はできない。どんどん世間が狭くなっていきました(笑)。

 その時つくづく,「普通の人は明日も明後日も健康であることを当たり前の前提で生きているんだなあ」と思い知らされました。現実には,身体の状態もぴたっと一定なわけではなく,むしろ波があるほうが当たり前だと思うんです。だから,各人が常に完全な健康体であることを前提にして社会を動かしていくと,あちこち無理が出てきます。身体の状態にはデコボコがある。それを前提に少しゆとりを持って組織などを運営できれば,長い目でみれば,もっと多くの人が十分に力を発揮できるし,組織のパフォーマンスも上がると思うんですよ。

近藤 病院職員でも,長時間労働のためにゆとりを失い,うつも増えています。「自分はもう限界だから,夜勤は勘弁してほしい」と言った時に,残りの者が「しわ寄せを喰った」と不満を持つ,するとますます余裕を失う,下手をすると共倒れという悪循環になります。逆に「しばらく休めよ。今回は俺ががんばるから」と支え,「回復したから,今度はこの前のお返しをするよ」と言えるような互酬性と信頼感に満ちたソーシャル・キャピタル豊かな社会・集団をつくれるかどうかで,大違いだと思います。

佐藤 競争や多忙さでギスギスしないためにも,ソーシャル・キャピタルはすごく重要ですよね。人間にデコボコがあるのは当たり前で,ボコ(凹)になった時に,次にデコ(凸)になる可能性を持ち続けられる。そんな信頼社会,安心社会なら,そこで暮らす人々のストレス・レベルも低くて,健康に恵まれているのもうなずけます。

実証される「病は気から」
心理・社会的側面の重要性

佐藤 現在,不平等研究で焦点になっているのは意識とハード指標のずれの問題です。意識の上ではすごい格差感があるが,客観的なデータ上ではまだそれほど強烈ではない。健康面でも同じようなことがあるのでしょうか?

近藤 「客観的な健康」だけでなく「主観的健康感」も重視すべきことを示すエビデンスがあります。私も最初は信じられなかったのですが,主観的健康感に死亡の予測力があること――昔から言われてきた「病は気から」――が,多数のコホート研究で実証されているのです(『健康格差社会』P93-103参照)。

 血圧や心電図所見といった客観的データを考慮したうえでも,本人が「血圧は高いけれど私は健康だ」と答えた人は生き残り,「全部正常なんだけど,なんとなく健康に自信がない」と答える人ほど死亡しやすいのです。「生物医学モデルじゃいけない,もっと人間の心理・社会的な面にも目を向けないといけない」と改めて思いました。人の心は移ろいやすい。だから心理的な面は軽視してよいのかというとそうではない。いままで捉える術が乏しかっただけで,実は主観・認知は客観的な結果に影響を与えています。これは,先ほどの主観的な「つらさ」に支配された病院では客観的なパフォーマンスが落ちる話にも通じます。

 社会的側面で言えば,人間関係が豊かな人ほど健康度が高く,社会的に孤立すると不健康になってしまうこともわかっています。人間は,間違いなく社会的動物でもあるのです。

佐藤 なるほど。1980年代の終わり頃まで,日本では格差が目立たず,誰もが総中流だと思えていました。その後,主観的な不平等感や閉塞感が拡大し,引きこもりなど社会的に孤立する人が目立つようになった。そういう意識の変化が,これから死亡率のようなハードな指標にも影響してくる可能性はかなりありそうですね。

近藤 客観的な事実をどう認知・解釈するかということ。さらにそれに基づいてどういう行動を選択するのかによって客観的な状況も変わる。この関係は,個人レベルにも社会レベルにもあると思っています。

 軽症から中等症のうつ病に対する認知・行動療法は,抗うつ剤と同じくらい効くというエビデンスは確立しています。同じように,健康格差が広がりつつあるいまの状況を社会としてどう認知して行動や政策を変えるのか。それによって,20年後の日本は,ずいぶん違うものになるでしょう。

佐藤 再挑戦できる社会にするうえで,いちばんまずいのは死亡率に関しての不平等です。死なれてしまえば,いかなる意味でも“回復不能”ですから。しかも不平等は後からしかわからない。統計的に確認できた時点で,どうしようもなく手遅れなんです。

 だから,健康面での不平等はできるだけセンシティブに扱わなければいけない。それだけなく,社会としてそれにセンシティブであること自体が,重要なメッセージになると思うんです。「健康格差には気をつけて,いろんな観点でチェックして手を打っている」と示すことが,社会に対する信頼感を増し,ソーシャル・キャピタルを豊かにすることにつながってくる。いろいろ教えられることの多い本でした。

医療界から,健康格差社会への警鐘

佐藤 先ほど,首尾一貫感覚の話で,「個人にあてはまることは社会にもあてはまる」と話しました。医療では患者さんとのコミュニケーションが治療効果に大きく影響するそうですが,同じように,医療界がそれ以外の社会とコミュニケーションをとることで関係がよくなることもあると思うんです。

 「競争社会をやっていこうとみんなで考えている。だったら,機会の平等である健康の平等は守るべきだ」と医療界がはっきりと言い続ける。それが社会の医療界に対する信頼を回復することにつながるのではないか。今日の話をお聞きしながら,その点を改めて強く感じました。

近藤 医師法の第1条に,国民の公衆衛生の向上に寄与することも医師の使命であると謳われています。専門家とは,見えにくい背景や要因を見抜ける人だと思います。医療者には,患者さんや国民の健康に関連している心理社会的要因を見抜くことが求められています。最近の診療報酬を巡る論議などで,「お医者さんたちは,自分たちの既得権益ばかりを守ろうとしている」など医療界への不信感があると感じます。健康格差の問題をセンシティブに受け止め,社会格差拡大に対する警告を医療界が発することは,国民の医療界への信頼を取り戻すことに,つながるかもしれませんね。

佐藤 時間がかかる大変な仕事でしょうが,こういう形でメッセージを出していくことが,みんなが健康に生きられる,公平な社会づくりにつながると思います。

(了)


近藤克則氏
1983年千葉大医学部卒。同学部公衆衛生学教室研究生,船橋二和病院リハビリテーション科長などを経て97年より日本福祉大助教授。1年間のUniversity of Kent at Canterbury客員研究員を経て,2003年日本福祉大教授に就任。現在に至る。『「医療費抑制の時代」を超えて』(医学書院),『脳卒中リハビリテーション』(共編著,医歯薬出版)など著書多数。

佐藤俊樹氏
1985年東大文学部卒。同大学院社会学研究科博士課程中退,博士(社会学)。東京工業大工学部社会工学科助教授を経て,現職。専攻は比較社会学,日本社会論。2000年出版の『不平等社会日本』が大きな話題となった。その他,著書に『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ起源への旅』(岩波新書),『00年時代の格差ゲーム』(中央公論新社)など。