ヘルス・エスノグラフィ
医療人類学の質的研究アプローチ

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医療人類学を基盤にする著者が提唱する「ヘルス・エスノグラフィ」のガイドブック。保健・医療・福祉領域で教育や研究活動に寄与する質的研究の方法論の入門書であり、人類学の領域で確立しているエスノグラフィをヘルスケアの領域に位置づけて展開し、その研究の実例を掲げて解説している。研究者が、新時代のグローバル・ヘルスの諸問題に対応できるツールとしておさえておきたい一冊。
道信 良子
発行 2020年09月判型:A5頁:320
ISBN 978-4-260-04255-0
定価 3,520円 (本体3,200円+税)

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推薦のことば(波平恵美子)/はじめに


推薦のことば

 「ヘルス・エスノグラフィ」という実に魅力的なタイトルの本書が、長年、人間の生命・いのちについて考えを巡らせてきた著者から生まれた。その思いを背景に新たな分野の必要性を説き、丁寧に具体的な方法論を実例とともに示している。保健・医療・福祉に関わる研究者、学生、実践の場にいる人、そしてこの領域に関心を持つ人に、新たな気づきを与えるに違いない。

 本書は、序章を含め全10章からなる大著であるが、それぞれの章の完結性が高く、例えば、フィールドワーク(第2章)について、インタビュー(第3章)について、参与観察(第5章)についてそれぞれ学びたい読者は、その章だけでも多くのまとまりある知識を得ることができる。また、サブタイトルが示すように、それぞれの調査方法によるデータを質的研究法として分析する手順が示されていて、若手の研究者や大学院生がこの分野の研究方法を本書から直接学び、会得できるよう、周到な記述が展開されている。さらに、それらの背景に、幅広い領域にまたがる人びとの英知を精選し、また統合することで更なる高みをめざす著者の思いがあるように感じられる。

 著者は、米国と日本の大学で医療人類学を学び、博士の学位取得と前後して、札幌に着任した。それ以降、本職の大学はもちろん、日本各地の医療・福祉系の教育機関で、将来その専門職に就くであろう多くの学生の指導にあたってきた。その教育者としての経験が、本書のすべての章で、学ぶ側の目線に立った丁寧で個々の学習段階を十分に考慮した組み立てと記述として示されている。2012年に『作業科学研究』の寄稿論文として本書のアイデアをいち早く記している著者は、その後の年月をかけ、十分な準備と検討の成果として、刊行に至った。
 推薦者の波平は、1998年に博士課程に進学したばかりの著者と出会い、3年間は教員と学生、その後は共同執筆者、共同研究組織のメンバーとしての交流を続けてきた。かつての教員のほうが学び手として、著者から多くのことを学ばせてもらった。

 お茶の水女子大学に赴任し、大学院生それぞれのポートフォリオを手渡された際、前任者は著者について「このうえなく努力の人」という言葉を添えた。
 推薦者はこの言葉に、「このうえなく真摯な人」と付け加えたい。

 多くの人が本書を手にし、ページをめくり、そのつど「ヘルス・エスノグラフィ」の興味深さを味わい、自分と自分にとって大切な人の「ヘルス」のありように目を凝らしてくださることを願う。

 2020年7月
 お茶の水女子大学名誉教授
 波平恵美子


はじめに

 この本は、「ヘルス・エスノグラフィ」という新しい名称のもとに、医療人類学における質的研究の方法を論じたもので、保健・医療・福祉の領域において研究や教育や臨床に携わっている多くの人びとに読んでもらう目的で書きました。
 この本は、新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行によって、地球上の生命がこれまでに経験したことのない危機に瀕している最中に出版されることになりました。そのため、多くの不完全な部分を残しながらも、そのような時期に出版されることの意味と使命を感じながら、執筆に取り組んできました。
 世界全体が直面しているような新型コロナ禍、そして環境変動から生じている他のさまざまな健康課題に向き合うために、医療人類学の研究者が第一にすべきことは、これまでの人類学の伝統を引き継いで、世界の人びとの生きている場に赴き、実際の姿を自分の目で見て、耳で聞いて、書き留めることだと考えます。2020年7月現在には移動の制限がありますが、ここではヘルス・エスノグラフィの本質のあり方について述べています。
 そして、そこで集めた資料をもとに、鋭い洞察力と、深い共感力をもって人びとの生命の営みから表現されてきたものを読み解いていきます。さらには、研究者は医療人類学をだれにでもわかる学問に発展させ、多分野の人たちと生命について広く、真剣に議論していくことも必要になるでしょう。
 このような多くの思いをふまえながら、この本では、人間の生命についての筆者の考えを基調とし、そのために必要な医療人類学の立場からの質的研究の手順を示しています。さまざまな領域の方々がヘルス・エスノグラフィの本質を身につけて研究することで、医療人類学もまた豊かに発展するだろうと確信しています。
 ヘルス・エスノグラフィがあらゆる分野の人びとに共有され、人間、そして地球上のすべての生命を新しい視点で考えるきっかけになることを、筆者は願っています。

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推薦のことば
はじめに

序章 ヘルス・エスノグラフィへの招待
 ヘルス・エスノグラフィ─その意義と理由
 研究の過程や成果としてのメタモルフォーゼ
 小さきもの、小さな日常にこころをよせる視点
 本書の構成

第1章 ヘルス・エスノグラフィの視点
 生命を支え、守り、育む
 人びとの日常へ
 生命との深いかかわり
 人びとと共に
 生命の景観
 健康の普遍的価値

第2章 フィールドワーク
 研究デザイン
  理論と方法論の関係
  研究デザインの構成
  現場の課題を研究の問いに変換する
  研究の仮説を立てる
  研究の結果をイメージする
 フィールドに入るための準備と対策
  人間関係を築く
  アウトリーチの研究
  海外調査における現地機関の協力
  ゲートキーパー
  ナラティブ研究のネットワークづくり
  フィールドの倫理
 ヘルス・エスノグラフィを行うにあたっての研究倫理
  倫理的配慮
  インフォームド・コンセント
  プライバシーと機密性
  説明文書に必要な事項
 フィールドワークにおける倫理的課題と対応
  信頼関係
  研究する人と参加する人との間にある力関係
  危険性の予測
  グローバルな規制に対応することの困難さ
 研究成果の還元

第3章 インタビュー
 発話の事象
 質問の意図の正確な伝達
  明確なテーマにそった質問
  包括的な視点と個別の視点
 必要性の吟味
 応答者の要件
 質問の様式
  全体を概観する質問
  具体的な質問
 インタビューの関係性と全体の状況
  インタビューの関係性
  インタビューの全体の状況
 インタビューの形式
  非構造化インタビュー
  半構造化インタビュー
  半構造化インタビューのためのインタビュー・ガイド
 古典的なエスノグラフィック・インタビューの様式

第4章 ナラティブ・インタビュー
 ナラティブ・インタビューの基本概念
  語りの体系
  語りの思考
 ナラティブ・インタビューの構成とルール
  研究の準備──場に親しむ
  インフォーマントの選別
  ナラティブ・インタビューのルール
 自然な語りを集め、活かす
  自然な状況下で語られる語り
  グループ・セッションの手順
  自然な語りの研究資料としての特徴
  自然な語りの強みと弱み
 グループ・ナラティブ
  グループ・ナラティブの手順
  グループ・ナラティブの意義と有用性
  グループの力学
  観察資料としての意義
  集団の語りの社会的文脈と真実性
  グループの単位とグループ形成
 ナラティブの応用・限界・課題

第5章 参与観察
 フィールドワークの観察
  観察の基準
  観察の目的
  観察の種類と研究者の役割
 参与観察の妥当性
  人間の行動と環境
  参与観察独自の資料
  他領域の研究を補完する資料
 観察の記録
  正式なフィールドノーツ
 観察研究における記憶の問題

第6章 質的分析
 分析の目的
 分析の始まり
  データを準備する
  ノートの清書
  データになじむ
 メイン・テーマ
  事例1 演繹的/帰納的にテーマを導く
  事例2 島の子どもの健康と医療の調査から
 サブ・テーマ
 コーディング
  コーディングの実際
 分析の質の確保
  推論の確からしさ
  推論を行うときに必要な誠実さ
 分析の質の保証
  分析の包括性
  分析の完全性
  分析の透明性
 分析の模索

第7章 システム
 現実の探究
 現実主義とヘルス・エスノグラフィ
  機能主義
  パーソンズ社会学とその医学研究への応用
 エコロジカル・システム
  エコシステムと人間の健康
  エコシステムの構成要素と機能
  環境保健人類学の事例
 エコシステムと慢性疾患
 エコシステムの応用

第8章 ナラティブ
 経験の探究
 ナラティブの理論とその源流
  ナラティブの問い
  ナラティブの推論様式
  ナラティブ研究の類型
 臨床のナラティブ
 現象学
  個別領域への応用
 解釈学
 ナラティブの今後

第9章 事例でみるヘルス・エスノグラフィ
 事例I 企業におけるHIV/AIDS対策の推進
 研究の目的
 研究の方法
 HIV/AIDS対策の初期介入
  HIV/AIDS対策を企業の安全衛生管理に組み込む
  HIV/AIDS予防のための行動変容コミュニケーション活動を行う
  HIV/AIDSに対する企業の社会的責任(CSR)を促進する
 事例II 小学生の食と健康に関するフォトボイス
 研究の目的
 研究の方法
 活動の結果
  子どもたちの考える健康
  子どもの見ている世界
 保健医療への示唆

おわりに
索引
著者紹介

column
 生命を軸に、保健・医療・福祉の現場に立脚する
 交流
 イギリスの患者専門家プログラム(EPP)
 エスノグラフィ研究に用いるサンプリング
 インタビュー調査における象徴的相互作用論
 セルフヘルプ・グループ
 手書きの記録
 ベルタランフィの思想
 行為の意図せざる結果
 文化生態学
 ナラトロジー(narratology)

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丁寧な記述でヘルス・エスノグラフィの理解が深まる
書評者: 菊地 真実 (帝京平成大教授・薬学)

 40歳をすぎて再度大学で勉強を始めた頃,私は医療人類学という学問に出合った。それまでの自分自身が悩み多き現場の薬剤師であるからこそ魅力を感じた学問であったが,それと同時に,だからこその難しさを強く感じた。医療の世界に身を置くからこその相対化の難しさであった。「エスノグラフィ」という言葉自体を知ったのも,この学問に出合ってからである。それから10年以上の歳月がすぎてなお私の中にあるのは,医療者としても研究者としても曖昧な自らの立ち位置の劣等感,そしてエスノグラフィへの憧れである。

 本書のタイトルにもなっているヘルス・エスノグラフィとは,「保健・医療・福祉系の教育や研究活動に携わる日々の中で生まれた知見を体系化した医療人類学の方法論」(p.2)である。本書はその定義と手法について,丁寧な記述で進んでいく。まずその視点の説明にはじまり,研究デザイン,フィールドワーク,インタビュー,参与観察の方法,分析法について,著者が行った研究を具体例として提示しながら丁寧に論述している。そして研究手法としての方法論にとどまらず,「ヘルス・エスノグラフィ」の理論的背景として,システム論,およびナラティブ論という2つの章立てがなされ,その平易な解説のために紙数が割かれていることが,読者にとって「ヘルス・エスノグラフィ」への深い理解につながることは間違いない。人間の健康と医療に関心を持ち,目の前の課題に対してどのようにアプローチしたらよいのか,と考えている研究者や大学院生に最適な本であろう。

 医療人類学が対象とするのは人間の健康と医療であるが,私は「医療」が関与するフィールドにおける「患者」や「医療者」に注目しがちであった。しかし「健康」という概念に着目したとき,そのフィールドは,「人々が日常を生きる場」と捉えられる。著者は,この領域の軸は「医療」でなく,「生命」であると述べ,さらに,「生命は『生命』として1つの現象であるという立場から,生命,生,いのちの区別をつけてはいません」と述べる(p.15)。これは,人間の生命を学術的に定義することから解放し,学際的に発展するために既存の枠組みにとらわれない自由な発想が必要と考えたからだという。人と人の相互作用の中に,「生命」の表現を捉える。それは,人々の生活の場に身を置き,共にいることから見えてくることを研究者として受け止めるということなのであろう。さらに重要なことは,その視点の先にあるのが人々の幸せだということである。研究者としての学問的関心にとどまらず,得られた知見が社会の中で活用され,人々の幸せにつながっていく。その道筋が「ヘルス・エスノグラフィ」なのである。

 本書を読み終えた今,あらためて表紙の写真を見ると,その景色は変わらずにやはり美しい。これは著者がフィールドワークをした利尻島の夜明け前の景色だという。この景色を見て暮らす人々を想像し,医療人類学,そしてエスノグラフィへの憧れが一層強くなった。

フィールドで考え,人びとの理解と自己変成を生み出す研究(雑誌『看護研究』より)
評者:西村 ユミ(東京都立大学大学院人間健康科学研究科看護科学域教授)

 本書の書名でもある『ヘルス・エスノグラフィ』は,医療人類学を専門とする著者,道信氏が,保健・医療・福祉系の教育や研究活動に携わる中で生まれた知見を体系化した,新しい質的研究の方法論である。それゆえ,著者が行なった調査,例えば「離島の子どもの身体観・健康観・医療観と医療環境とのかかわりに関する人類学的研究」などの実例が多く挟まれ,方法のレッスンを受けているような感覚で読み進めることができる。最終章では,著者による16余年のタイでの調査であり,本方法を生み出すきっかけにもなった「企業におけるHIV/AIDS対策の推進」が紹介される。著者は,この研究と重なる時期から,自らの研究の軸を医療や生命にかかわる内容へと転換させた。その中で,古典的な人類学とは違った,フィールドの課題の特徴や研究成果の還元までのスピードを体感し,人間の生命を尊び,健康と幸せを希求するもう一歩踏み込んだ行為や活動が研究に含まれること,そして,現場の人びととの間で課題と目標を共有することの必要性を考えさせられ,本方法の提唱に至る。

 何よりも著者がこだわるのは,人類学の伝統でもある「世界の人びとが生きている場」「生命と周りの地(環境)」である「フィールド」に入り込み,そこで共に暮らしつつ考え,「生」を統合的に記述することである。フィールドワーカーは,「世界の健康問題の全体を見る視点」と「(小さな)日常の出来事に関心をよせる視点」の両方をもち,専門領特有の解釈枠組みを自由な発想で外し,調査の「過程」で「メタモルフォーゼ(自己変成)」の経験をする。「研究者の態度や信念を内側から壊されるような感覚を伴う試練の場」としてのフィールドで考え,新たなものの見方を養われて初めて可能になるのが,ヘルス・エスノグラフィなのである。そのため,本方法は,過程であり成果でもあるのだ。

 本書はとても丁寧に編まれ,また贅沢な構成となっている。ヘルス・エスノグラフィの視点の紹介に続く,第2章「フィールドワーク」では,フィールドへの入り方から倫理的配慮までもが視野に入れられる。その後に配置される「インタビュー」「ナラティブインタビュー」では,各方法が哲学的前提の違いとともに紹介される。「参与観察」では,観察がいかなる営みであるのかが議論され,「質的分析」では,著者の具体例が詳述される。後半には,ヘルス・エスノグラフィによる探究を支える2つの理論「システム」と「ナラティブ」が,歴史的展開とともに両者の関係も含めて論じられる。評者は,医療現場で調査を行なってきたが,本書を辿ると,これまでいかに1つの視点に縛られていたのかを痛感させられる。

 各章には,葛藤や課題も数多く盛り込まれている。そもそもフィードワーカーは,現地の人びとにとって「外部の人間」であるにもかかわらず,「内部の人間」としても認められる不安定な立ち位置にある。この矛盾を引き受けつつ,立ち位置を吟味することには終わりがない。倫理的配慮では,医学や看護学の依って立つグローバルな倫理原則と,発展途上国などに入りこむ人類学の人権擁護の方法や考え方の不一致が取り上げられる。例えば,途上国では規制を敷くための研究環境や人材育成は不十分であり,医療者と患者,研究者と参加者との関係も,個人の自律性を前提としているわけではない,という。この不一致のもとで,著者自身も大きな葛藤を経験したことであろう。が,これこそが,フィールドで考えるフィールドの倫理である。ナラティブインタビューの真実性,インタビューや観察における記憶と記録の課題も浮き彫りにされる。質的分析では,著者自身の分析を捉え直す必要性が論じられる。こうした課題を浮かび上がらせて自己吟味し,方法を練り直すこと自体が,ヘルス・エスノグラフィであるのかもしれない。

 本書を読んでいたら,フィールドに行きたくなってきた。いや,フィールドに身を置き,もっと考え,気づかずにいた葛藤に自身を曝したくなった。驚いたことに,著者の試行錯誤が読み手のそれを触発してくるのだ。本書の一言一句に,著者の膨大なフィールドワーカーとしての経験と,そこで考えてきたことが詰まっているためであろう。ヘルス・エスノグラフィは,新しい方法であり,かつ私たちを生命のフィールドへ誘うフィールドのリアリティである。

(『看護研究』2021年2月号掲載)

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