脳科学とスピリチュアリティ

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著者らは、スピリチュアリティの問題が神経細胞や脳の活動に「すぎない」とされるのか否かを、脳科学や進化心理学の進歩も踏まえて解明する。最先端の研究に加え、脳と心をめぐる過去の哲学や現在の神学にも言及。人間本性やスピリチュアルペインも、脳イメージング技術が示す脳の特定の部位の活動であろうか。本書は、現代医療の基礎に潜む科学的人間観への1つの挑戦である。
Malcolm Jeeves / Warren S. Brown
杉岡 良彦
発行 2011年10月判型:A5頁:172
ISBN 978-4-260-01402-1
定価 3,080円 (本体2,800円+税)
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訳者序

訳者序
 スピリチュアリティあるいはスピリチュアルペインという言葉を,医学や看護学のなかでも目にする機会が多くなってきた。おそらく,このことは,2000年以前の日本の医療現場では想像しづらかった事態のように思える。たとえば日本医師会による『2008年版がん緩和ケアガイドブック』を見れば,緩和ケアについて,「生命を脅かす疾患に伴う問題に直面する患者と家族に対し,疼痛や身体的,心理社会的,スピリチュアルな問題を早期から正確にアセスメントし解決することにより,苦悩の予防と軽減を図り,生活の質(QOL)を向上させるためのアプローチである」(8頁)と,WHOが2002年に提出した定義が取り上げられ,このスピリチュアルな問題に関して「生きている意味や価値についての疑問」(8頁)と説明されている。
 こうした臨床現場での変化の一方で,科学としての医学もまた大きく前進し,特に脳科学の進歩は,人々の関心事となっている。書店には脳に関する驚くほど多くの種類の書籍があり,いわゆる「心」の働きが「脳」からどのように生みだされるのかを,科学が明らかにしつつあるという印象を強く与える。
 ここで,少し深呼吸をして,今我々が置かれている現状を振り返ろう。医療現場ではスピリチュアリティやスピリチュアルケアの問題が注目されつつあり,一方では脳科学が我々の心の働きを脳という臓器から研究している現在,一体スピリチュアリティと脳の関係をいかに考えればよいのだろうか。あるいはスピリチュアリティと脳は全く関係をもたない,別の話題なのだろうか。本書はまさしく,このスピリチュアリティと脳科学さらに進化心理学との関係を論じている。その意味で,本書は,現在において最も挑戦的な課題の1つに取り組んでいると言ってよかろう。さらに,ともに著名な神経心理学者であると同時に熱心なキリスト教徒である著者の2人は,このテーマを論じるのに最適である。
 以下,簡単に本書の全体像を確認しておきたい。本書は全部で9章から成る。1章から3章までは,神経科学と心理学の歴史と現状が説明される。特に2章では科学と宗教の歴史,3章では魂〈ソウル〉や心〈マインド〉の観念を歴史的に振り返り,特に骨相学の興味深い歴史と現代の脳科学に与えた意味が考察される。4章では脳機能の8つの原理が説明され,脳の構造と機能についての基本的な理解を読者に提供してくれる。5章では,心と脳の関係が論じられるが,ここでいわゆる心が脳を超越した何かではなく,身体化されていることが多くの新しい研究結果とともに説明される。6章は,進化心理学の観点から,人間の行動がどの程度動物に似ているのか,特にかつて人間に独自であると考えられてきた特徴─言語,心の理論,社会的知性,利他的行動など─が,最近の研究では動物にも見出せることが明らかにされる。さらに7章では,最も人間的な領域とも言える宗教的経験や道徳的判断の際に,脳内にどのような変化が観察されるのか,脳イメージング技術を用いた興味深い最先端の研究が紹介される。8章は以上の研究成果をふまえて,特にキリスト教神学と脳科学や進化心理学の関係を考察する。ここで,いわゆる心身問題に対する著者らの基本的な立場として「創発論」が紹介される。また,神学に関しては,神の像〈イマゴ・デイ〉の実体的な解釈ではなく,関係的な解釈が説明される。最後に,9章では,これまでのまとめと,特にスピリチュアリティが「組み込まれ,身体化されている」ことが論じられる。
 このように,本書は幅広い内容を含んでいるが,いずれの章も我々の関心を引かずにはおかない歴史的話題や科学の最先端の研究結果にあふれており,本書はこの挑戦的な分野の最適な入門書となっている。もちろん,著者らが最終的に提示する「創発論」については,さらに議論が必要であろうが,たとえ我々が創発論を支持しなくとも,本書全体の魅力は決して失われることがない。
 ところで,スピリチュアリティあるいは心が身体化されているという著者らの主張は,神学的にも受け入れがたい観念ではなく,むしろ今後の多くの可能性を秘めた考えである。たとえば,現在,精力的に多くの著書を出版しているオックスフォード大学の神学者,アリスター・マクグラスのThe Open Secret (邦訳『「自然」を神学する』教文館,2011年)は,神学においても心理学や神経科学の研究結果を考慮する重要性を論じ,それをふまえた新たな自然神学の展開を試みている。
 今後,医療者が患者に,身体,心,社会そしてスピリチュアルな領域を含めた全人的な医療を正しく科学的に提供しようとするのであれば,脳科学あるいは進化心理学の最先端の研究結果を無視することはできない。その意味では,本書はスピリチュアリティと脳科学,さらには科学と宗教や神学の関係を考える上で,極めて重要な基本的文献となると思われる。
 さて,2009年に出版された『スピリチュアリティは健康をもたらすか』の翻訳に続き,今回も「スピリチュアリティ」に関する翻訳書で,医学書院の皆様にお世話になった。特に看護出版部の藤居尚子氏には,より適切な表現にむけた指摘や,文献および索引作りをはじめ,多くの点で大変御尽力いただいた。改めて御礼申し上げます。
 また,この翻訳と並行する形で,上記したA.マクグラスの自然神学に関する著書を京都大学大学院文学研究科の芦名定道教授,濱崎雅孝氏と3名で翻訳する機会に恵まれ,その研究会での学びが,本書にもおおいに役立ったことは言うまでもない。その学恩に深く感謝申し上げます。
 本書によって,スピリチュアリティと脳科学という挑戦的な話題を,多くの方々がおおいに楽しんでくださり,より良い医療への思索や実践につなげてくださることを期待しています。
〔翻訳にあたり,原文中の[ ]は( )で,訳者による説明の挿入および注は,[ ]で表記した〕

 2011年8月
 杉岡良彦



 時に,科学は急速に発達する。神経科学と心理学は,現在こうした進歩の時期にあり,この領域に関わる研究は,息もつかせぬスピードで動いている。我々は1990年代の「脳の10年」から,20世紀初めの「心の時代」へと進歩してきた。そして現在,「心と脳の10年」を心待ちにしているように思える。こうした発展すべてが,新たな研究技術によって刺激されてきたが,有名なのは脳イメージング技術の進歩である。その結果,脳スキャナーという[脳イメージング技術の]厳密な目から逃れることのできる我々の存在領域は,もはやないように思われる。我々の宗教的な経験でさえ,「(脳)神経神学者」の精密な調査にかけられるようになった。その研究結果は,人間としての我々自身を理解するために非常に重要であるので,科学の世界の外にも広く公表されることが多い。
 我々は,一体このことをどう考えるべきなのであろうか? 我々が人間本性についてもっている多くの理解を,どのように再考することが求められているのであろうか? 我々は魂〈ソウル〉をもっているのだろうか? 我々は進化の途上にいるサルなのだろうか,あるいは天から降りてきた天使なのだろうか?人間の心,そして宗教や宗教経験も,神経細胞やその分子構造の機能を支配する法則の結果にすぎないのだろうか?
 本書は,読者が神経科学や心理学の研究で現在何が起こっているのかについて,その理解と展望を得る手助けとなることを企図している。読者は,すべての章を通じて,示唆に富んだ話題に出会うだろう。それはたとえば,心の活動の最も複雑な側面に関わる脳システムやそのプロセスについての説明であり,また人間と人間以外の霊長類の神経心理学による比較に関する話題である。また,本書のなかで,脳機能および宗教信念や宗教的経験に関わる研究にも出会うだろう。我々は,研究のこうした領域すべてにおいて,読者が人間本性についての概念を再考するための,歴史的,哲学的,そして神学的な文脈と展望を提供しようと試みた。
 神経心理学は,神経科学と心理学の接点にある1つの専門的な科学領域である。そして筆者らはともにその神経心理学者である。我々が関心をもつ研究領域は共通しており,それは2つの大脳皮質をつなぐ脳の部分,主に脳梁である。著者の一人であるウォレン・ブラウンは,(カリフォルニアにあるフラー神学校大学院心理学研究科にて)この領域での研究を積極的に続けており,カリフォルニア工科大学,カリフォルニア大学サンディエゴ校,ブリガムヤング大学の共同研究者と研究を行っている。もう一人の筆者,マルコム・ジーブスは,公には職を退いたが,(スコットランドにあるセント・アンドリュース大学において)神経科学と進化心理学の両分野で国際的に定評のある科学者や研究機関との交流を続けている。
 熱心な科学者であると当時に,筆者らはともに熱心なキリスト教徒でもあり,科学的発見がいくつかの伝統的なキリスト教信仰に挑戦を突きつけているとの理解も共有している。以下では,こうした挑戦のいくつかに対して我々がどのように答えるのか,我々の思考は終にはどのような場所に達するのかを読者に見てもらい,そしてそれを一体どのように考えるのかを読者に判断していただきたい。
 本書の最後には,多数の索引と,我々が書いた内容から生まれたいくつかの考えをより深く追究することを望む人々のために参考文献のリストを用意している。我々が本書を楽しんで書いたのと同じように,読者が本書を楽しく読んでくれることを望んでいる。

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訳者序


第1章 現代の神経科学と心理学
 神経科学
 心理学
 科学と宗教の関係

第2章 闘争と協力関係
 「闘争」から協力関係へ
 神経心理学と進化心理学
 還元主義的な見方

第3章 魂から心へ その歴史の概略
 脳理論の勝利
 骨相学─脳のマッピング
 骨相学とキリスト教信仰の出会い
 「神の場所」の発見─新しい骨相学
 歴史からの教訓

第4章 脳機能の諸原理
 1.アクション・ループ
 2.アクション・ループが入れ子になったヒエラルキー
 3.オフラインの行動模倣
 4.重要なサポートシステム
 5.脳内での機能の局在化
 6.遺伝的設計図 vs 自己組織化する脳
 7.脳と学習
 8.脳と意識

第5章 心と脳の関係
 神経心理学の誕生
 心と脳の関連の強さ

第6章 人間という動物 進化心理学
 言語
 心の理論
 社会的知性
 動物の利他的行動
 人間の特殊性─飛躍的進歩の探求

第7章 宗教性の神経科学
 宗教的経験の起源
 道徳的意思決定
 社会的神経科学

第8章 科学,宗教,人間本性
 人間本性に関する神経科学
 還元論,決定論,創発論
 人間の独自性?
 変わりゆく物語─神の像
 神の像についての新たな合意

第9章 現在の位置を確かめる 過去と未来の考察から
 スピリチュアリティ─組み込まれ,身体化されている

Notes
Further Reading
索引
人名索引

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幅広い知識に裏打ちされた原書を達意の訳文で読む
書評者: 中島 健二 (京府医大名誉教授・神経内科学)
 20世紀最後の10年は「脳の時代」と称されたが,それは今世紀に入っても続いている。そのけん引役になったのは各種の脳画像機器であり,それは単に形態だけでなく脳機能の解明に役立った。さらに神経生物学,神経解剖学の進歩と相まって,われわれの脳活動はすべて脳神経の化学変化,分子変化に依拠するとの極端な説までが登場した。

 脳科学が人の心の動きまで解明し,宗教心や信仰心は遺伝子の働きの結果であるとささやかれ始めたこのとき,『脳科学とスピリチュアリティ』(“Neuroscience, psychology, and Religion” by Malcolm Jeeves and Warren S. Brown)が出版された。訳者は旭川医科大学医学部健康科学科講師・杉岡良彦氏である。杉岡博士は学生に医学概論,医学哲学を講じる傍ら臨床の現場で実際に患者を診る臨床医でもある。日本医学哲学・倫理学会において杉岡博士は毎回欠かさずユニークな発表をされているが,何ゆえユニークかといえば,「生〈なま〉の医学・医療」を哲学・倫理学の目で分析し考察する姿勢を堅持しているからである。まさに本書の訳者として最もふさわしい人物であるといえよう。

 さて,本書は導入部から読む者を惹きつける。それは原著者の幅広い知識に裏打ちされた記述内容によるものだが,加えて杉岡博士の達意の文章によるところが大きい。

 本書を読み始めてもスピリチュアリティ(原書ではreligion)なる単語はなかなか出てこない。まずドストエフスキーの作品紹介があり,次いでギリシャから現代に至るまでの哲学者のエピソード,進化論のチャールズ・ダーウィン,さらに精神分析の泰斗カール・ユングとジグムント・フロイトといった懐かしい人物の研究紹介である。前者は有神論者,後者は無神論者の旗手として。神経心理学,認知心理学,スピリチュアリティという難解なテーマに迫る前に,上に挙げたような筋立てがなされている点が心憎い。

 さて本書の後半に,宗教あるいは信仰と神経科学に関する記述が登場する。われわれは,脳がたんぱく質,脂肪などの物質から出来上がっていながら,その臓器が記憶,言語,思考,感情の座であることも理解している。宗教を信じ,信仰を持つのも脳の働きによる。ヒトはhomo sapiens(知恵ある人)と呼ばれているが,homo religious(宗教の人)とも呼ばれるのはこのためである。

 この一方で,最近の神経生物学や遺伝学は脳の特定の部位(特に前頭葉眼窩面)が宗教や信仰に関係すると述べる。こうなると,われわれの人格や性格も生まれつきということになり索莫感を禁じえない。しかし,生まれながらに持つ「好ましい」遺伝子であっても,それは教育や社会的な訓練によって,より強化されると考えるべきなのであろう。原著者もキリスト教を例にとり,「宗教とスピリチュアリティとの関係はキリスト教共同体にわれわれが組み込まれていること,およびそれに付随するあらゆる活動によって生じるのであって,脳内の特性から生じるものではない」と述べている。

 紙面の関係上これ以上は控えるが,詳しくは本書をお読みいただきたい。久々に知的興奮を覚えながら楽しませていただいた本書を諸賢にご紹介する次第である。

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