ベナー ナースを育てる

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看護という職業は重大な局面を迎えている。科学やテクノロジーの発達による医療現場と看護実践の性質の変化、深刻化する看護師不足と教員不足。わが国の現状とも重なるこのような状況の中で、どのようにナースを育てていけばよいのだろうか? カーネギー財団による大型研究を通して、いま必要な変革についてベナー博士が提言。
パトリシア ベナー / モリー サットフェン / ヴィクトリア レオナード / リサ デイ
早野 ZITO 真佐子
発行 2011年11月判型:A5頁:388
ISBN 978-4-260-01429-8
定価 4,400円 (本体4,000円+税)

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まえがき

 スペルがよく間違えられる言葉がある。そのような言葉の1つがforeword(まえがき)である。しばしばforward(先に)と綴り間違いされる。看護師の養成に関する本書のまえがきのページは,ナラティブ,主張,研究結果,推奨事項の先を楽しみに待つ(look forward)ことを意図してはいない。意図するのは,「言葉(word,つまり本文)の前(fore)」の一連の振り返り(リフレクション),本書の主体である本文の前触れとしての役割である。まえがきは,メインコースではなく前菜である。実際,まえがきは,前菜ほどの内容もない。おそらく,キッチンには本格的な料理人がいますよということをお客に思い起こさせるための小さな自負心を示すものとして,シェフが食事の前に運ぶ一口サイズの突き出しである“アミューズブーシュ(amuse-bouche)* ”に似ているといえるかもしれない。その目的は,舌を喜ばせること,あるいはくすぐることであるが,キッチンからの繊細なコミュニケーション,ウィンクの意味も込められている。ここでは,このまえがきをアミューズパンセ(amuse-pensee,思考することを楽しませる)と考えましょうか,それともアミューズエスプリ(amuse-esprit,知性を楽しませる)とでも考えることにしましょうか。
 皮肉なことに,まえがきは,本文の各章を書き終えた後に書くのが通常で,しかもその執筆者は著者ではない場合が多い。いちばん最初に読まれる部分ではあるが,最後に書かれる部分なのである。それが“今”というわけである。事実,私は,このまえがきを,カーネギーの看護教育研究だけを振り返って書いているのではない。10年以上の歳月をかけて行われた専門職を教育するためのカーネギー財団プログラムのシリーズ全体を顧みている。法学,工学,神学,医学,看護学,学校教育,大学での教授法などすべてが,丘の上に立つカーネギー財団の内外で行われた研究,調査,データ収集と分析,調査とまとめの対象であった。
 私はこの好機をとらえて,見通しのよいキッチンから,私たちが過去10年ほどにわたって行ってきた他の研究のレンズを通して,この看護教育研究を振り返ってみようと思う。特に印象的なのは,看護の幅の広さである。看護は,それ自体独自のアイデンティティをもつ職業でありながらも,その特徴は,他の専門職の主要な特徴を反映するハイブリッドな専門職だ。事実,それぞれの看護師の仕事をみていくと,私たちが研究してきた他のそれぞれの研究が映し出されるのである。
 私たちは,ノースカロライナ州のある看護学生のグループに「看護師とは何か」という問いを投げかけたことがある。私はその答えをけっして忘れることはないだろう。それは「看護師として,私は,患者の最後の砦なのです」という答えだった。私たちのインタビューと観察で,看護師の役割の概念として,非人間的な部分をもつ医療システムのなかで患者の最後の砦となって守る,患者の擁護者としての役割ほど顕著なものはなかった。私たちは,看護師,看護学生,看護教員たちが,看護師の中心的な役割であり看護のアイデンティティの核となるものは「患者の擁護者」だと繰り返し述べるのを聞いた。法学教育の研究で私たちは気づいたのだが,擁護とは単純な概念ではない。それは,ただ単に依頼人の権利を弁護する以上のものだ。依頼人がその権利を弁護するだけでなく,その責任と義務に直面しなければならないときもある。熱意ある擁護の限界はどこにあるのか? 看護師は,医療チームのメンバーでもあり,より大きなコミュニティのために医療の質を維持する責任も共有している。
 教育者として,特に教師を育てる者として,私は,教師としての看護師の役割に対する注目に強い印象を受けた。私たちは,看護師の仕事は患者の病気が癒えたときに終わるのではない,と言われた。病気は治っても,患者には自己管理しながらの自立生活に戻る準備が必要なのだ。この点において,看護師には教師であることがつねに期待されている。自分の世話をどのようにしなければならないのか,健康で生産的な生活を行うために,どんな新しい食習慣,運動の習慣,自己検査,自己規制を行わなければならないのか,またそれぞれにどんな理由があるのか,などについて患者は説明を受けなければならない。誰が教えるのか? それは看護師である。
 病棟でも,癌の処置室でも,診察室でも,あるいは往診においてでさえも,わずか2~3時間でも看護師の仕事ぶりを観察すれば,看護師がさまざまなテクノロジーに精通していなければならないということをはっきりと認識するだろう。そうしたテクノロジーのなかには,現在ではICUに一般的に備えられている検出装置や透析のために必要な扱いが非常に困難な機器など特殊なものもある。皮下注射器や血圧を測定するのに使用するカフなどは日常的に使うテクノロジーだ。そして,コンピュータは記録,コミュニケーション,薬のモニタリングのためにいたるところに存在する。現在では,これらはすべて看護師の責任下にある。そして,それぞれの看護師が,そうした環境下で,何をどのように動かして活用すればいいのかを理解していることが期待されている。その役割には,工学とテクノロジーの要素が含まれている。
 看護師は患者を「(聖職者のように)世話をする」。看護師は,患者をケアし,慰め,励まし,理解する。痛みや不安にどのように対応すればよいのかを理解し,未知への恐怖に直面する患者を慈しみ,ほとんど存在しないような場合でも希望を患者に与える。まるで聖職者のような仕事を私たちは看護師に期待するのである。看護師は,時にはユダヤ教のラビとかキリスト教の牧師のように振る舞い,家族に慰めを与え,病人の看護をする。そうしたケアリングのなかには,スピリチュアリティの要素があり,信仰や献身の側面さえみられる。
 ゆえに,私が看護師の教育ということについて考えるとき,そこに,弁護士,教師,エンジニア,聖職者,医師,臨床心理士,ソーシャルワーカー,施設管理者を教育するための主要な要素を見いだすのである。その仕事は,肉体的に過酷で,知的な負担も大きい。ルーチンが多いのと同時に,予期できない,驚かされるような出来事に満ちている仕事である。看護教育は,非常に難しい仕事への準備をするということを意味している。
 看護という職業のこうした複雑かつゆたかな特性は,その実践の脈絡の複雑さと並行するものである。ほかのほとんどの職業では,実践者が,自分が提供するサービスのペースと密度に関して,いくらか抑制力をもっている。彼らは,通常,一度に1人の患者,1つの依頼人のケース,1つの設計に対して払う注意を制限することができる。しかし,看護は,教育に似ているのだが,多くの患者が同時に存在し,しばしばそのすべてが同じような注意とケアを必要としている。教育においては,教師が小グループや大きなグループに対して指導をするとき,なんらかの形の「一括対応」が可能かもしれない。しかし,看護では,通常,1対1の注意や治療が必要となる。したがって,何らかの形での「トリアージ(仕分けて優先順位をつけること)」が,継続的に必要である。
 看護は実にハイブリッドな職業である。役割や義務に関して,多職種協働的であり,職種間協働的なつながりがある職業だ。しかしながら,その中心にはいつでも,病気の人々に奉仕するために,ケアリングと擁護への期待が存在している。いくつかの種の強さが組み合わされているため,ハイブリッドな職業はしばしば特別にたくましい。しかし,同時に,特に弱い部分もあわせもっているかもしれない。
 歴史家スーザン・リバービー Susan Reverby は,看護師はケアリングに価値をおかない社会において「ケアする義務を負っている」と痛切な観察をしている。看護師は,ほとんど尊敬されず,ごく中位の経済的報酬を得ているだけではなく,正規の教育は,免許を得て実践を行う他のどんな専門職よりも少ないのである。医学,法学,神学では,通常,大学院での教育が期待され,教育と工学では,少なくとも学士号が(しばしばそれ以上の学位が)要求される。一方,看護師は,現在は,2年間学んで準学士号を取得すれば実践に入ることが可能なのだ。この職業—擁護と医学,工学と神学,教育学とケアリングがハイブリッドに組み合わされている職業—が,他のどんな専門職の学問的準備より少なくて実践に入ることができるということは実に理解しがたいことだ。それが,本書の著者たちが直接指摘した問題である。それが,本書が挑発的に訴える問題と論争の重大な側面であろう。
 カーネギー財団が看護教育の問題を指摘する準備がととのい,私たちは,その研究を主導する理想的な人物を全米を対象に探した。ある1人の研究者の名前が繰り返し提案された。彼女—パトリシア・ベナーは,私たちにとっても身近なカリフォルニア大学サンフランシスコ校看護学部で研究していた。社会科学者,人文学研究者,経験ゆたかな看護師,そして寄付講座指命教授経験者である。彼女は,パサディナ・シティ・カレッジ(Pasadena City College)で看護師になる教育を受け,カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得した。卓越した学者であり看護という職業の良心である。私たちは依頼し,パトリシアは承諾してくれた。こうして,私たちはこの仕事が必要とするリーダーを得たのだった。
 パトリシアの分身として,私たちは,この研究に彼女とは大きく異なる視点を持ち込むことが必要だと思った。そして,その人物には,研究にも訓練にも補完的かつ同輩的な役割を果たし,別の方向からの学問的経験をもっていることが期待された。モリー・サットフェン Molly Sutphen は,もともと自然人類学者と解剖学者としての研究を行っていたが,やがて科学と医学の歴史に魅了された。エール大学において医学史で博士号を取得した後,研究を続けながら医学大学院で教鞭を取った。看護師養成について4年間研究し執筆するという機会は彼女にとって抗いがたい魅力があり,彼女の能力はカーネギーにとってたまらなく魅力的なものであった。
 パトリシアは,看護チームを構築するために,彼女が以前指導した2人の学生で,現在はそれぞれ教育者と実践者として,卓越したキャリアを積んでいる人物をメンバーに誘った。ヴィクトリア・レオナード Victoria Leonard とリサ・デイ Lisa Day である。ヴィクトリアは,現在,UCSFカリフォルニア小児保健プログラムでヘルスコンサルタントを務めている。リサは,UCSF医療センターで神経科と集中治療室で専門看護師を務める。
 最後に,本研究は,この専門職教育研究のシリーズの調整役を最初から務めた2人の上席研究者,アン・コルビー Anne Colby とウィリアム・サリバン William Sullivan の支援を受けた。コルビーは,成人の道徳観の発達に特に注目している生涯発達心理学者で,サリバンは,優れた哲学者かつ社会科学者で,「こころの習慣」と専門職の倫理的側面について広く執筆している。この2人の役割は,私たちが実施したすべての研究に積極的に協働することと,個々の専門職に関する研究が単なるパーツの寄せ集めにならないようにすべてを総合的に縫いあわせることであった。
 英知,勇気,そして計画的に準備された適度な挑発がこめられた本書は,必要とされる医療教育,そのなかでも特に看護教育の改革の実現をほんとうに期待できるものである。このまえがきでは,その認識を明確に表明しておきたい。それなくして本書が提供するものに対する敬意と正義を表すことはできない。パトリシア・ベナーは,看護における理論と実践への貢献に対して尊敬され,崇拝さえもされてきたが,長い間,看護コミュニティ内において愛されるうるさ型としての役割を果たしてきた。本書は,現在の実践に対して,擁護的でも自己正当化的でもない。看護の現状を映し出す鏡を提供しているのだ。そして,多くの障害に直面しながらも達成してきた優れた業績をたたえる一方で,現状に対する明確な批判と今後なされるべきことをきわめて具体的に著述している。ゆえに,本書は,約100年前に出版された医学教育に関する1910年のエブラハム・フレックスナー報告に始まり,最近出版された法律者教育,聖職者教育,エンジニア教育に関する研究にいたるまでの,一連の重要なカーネギー研究に加える価値ある一冊となった。私は,このすばらしい貢献に対して,パトリシア・ベナー,モリー・サットフェン,ヴィクトリア・レオナード,リサ・デイ,およびカーネギー財団の専門職教育研究プログラムの全スタッフに心から拍手を送りたい。本書が,今後の看護教育に与える影響を楽しみに期待している。
 読者の皆さまの知的好奇心を刺激し,関心を引くことを願っている。個人的に,私は,専門職教育について私たちが研究を行ったこの10年間ほど,啓発され刺激されたことはかつてなかったし,それ以上の経験は今後も想像できない。

 カリフォルニア州スタンフォードにおいて

 リー・S・シュルマン
 カーネギー教育振興財団名誉理事長


* 訳者注:前菜の前に,食前酒のおつまみとして出されるもの。

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  まえがき
  謝辞
  著者略歴

 はじめに
  数が示す危機
  看護教育を通じて患者ケアのアウトカムを改善する
  危機は好機でもありうる
  不確かな新たな財源
  看護教育のための新たなビジョンへ向けて
  本書の研究背景
  3つの主要な研究結果
  本書の意図:パラダイムケースについて
  行動を起こそう

第1部 変革,危機,そして機会
 第1章 変革された職業
  医療システムの変革
   新たな責任
   新たなチャレンジ
   新たな機会
  看護の科学とケアリング実践の統合
   知識と科学を獲得し活用する
   臨床的論証と熟練したノウハウを活用する
   倫理的態度と形成
   知識,熟練したノウハウ,倫理的態度の統合
  不適切な看護教育システム
  複数の教育進路
   歴史的な成り立ち
   コミュニティカレッジ・プログラムの台頭
   看護教育の需要を満たす
  下げすぎた入学基準のハードル
   看護のための事前必須履修科目
   BSNそしてその後
   免許付与制度
   実践-教育間のギャップについて
 第2章 臨床状況下における教育と学習
  高いリスクを伴う学習
   脈絡のなかでの学習
   計画とフィードバック
   質問しながら学習を支援する
  臨床的論証力と判断力を発達させる
   脈絡化の教育法
   優先順位の設定
   逃された機会
   論証能力を発達させる
   状況のなかでどのように行動するかを学ぶ
   短期間に起こった変化を臨床的に論証する
   患者の状態の変化への対応を学ぶ
   探偵のような仕事
  臨床教育へのチャレンジ
 第3章 教室および実習室における教育と学習
  教えることと学ぶこと-実践から切り離されて
   講義の標準化
   教室でのチーム授業
  教室および実習室での教育と学習
  教室でのゲームと余興
   実習室
  分断化
  統合という目標に向かって
 第4章 看護教育への新たなアプローチ
  統合のための4つの不可欠な転換
  優れた看護教育のパラダイムケース

第2部 重要性・非重要性の識別力を育成する
 第5章 パラダイムケース ダイアン・ペストレッシ 実践者であり教師
  実践から引き出す
  事例,短い描写,ストーリー
  自分の学生を知る
  コーチング
  実践における彼女自身のスタンスから教える
 第6章 重要性・非重要性の識別力を養うための教育戦略
  学習における継続性と一貫性を創出する
   逸した学習機会
  質問を活用する
   重要性・非重要性の識別力へと学生を導く
   生涯にわたって知識を探究していくことの模範を示す
  実践の予行演習をする
   情報収集の課題:臨地実習への準備
   「もし……ならば」という質問を使った練習と実践のための知識
   脈絡を活用する
  学習を振り返る
   実習後カンファレンス:学んだ教訓を共有する
   実践を振り返るためにナラティブを活用する

第3部 臨床的想像力を育てる統合的教育法
 第7章 パラダイムケース リサ・デイ 教室の授業および臨床指導担当
  G夫人
   複数の教育戦略
   講義とスライド
   対話と質問
   段階的に教える
   学生の経験を掘り下げる
  知識を活用する
  複雑な対応を発達させる
 第8章 臨床的想像力を発達させる
  固定観念にとらわれない態度を保つことを学ぶ
  脈絡がもつ力
  論拠と説得力のある説明を学ぶ
   断片をつなぎ合わせる:統合的な教育と学習
   実践の予行演習をする
   共通の言語を学ぶ
   不確かさが明らかにすること
 第9章 統合的な教育と学習を通じて教室と臨床をつなぐ
  統合教育,統合学習
   責任の所在
   統合の教授法

第4部 倫理的想像力を育てる
 第10章 パラダイムケース サラ・シャノン 看護倫理学者
  事例
  倫理的態度の模範を示す
 第11章 看護師であるということ
  すること,知ること,あること
   五感を再形成する
   社会的感受性を再形成する
   専門職的かかわりのスキルを再形成する
  知覚力とかかわりのスキルを教える方策
   コーチング
   責任を負う
  看護のフォーカル・プラクティス
  1人の人間として患者に接する
  人間性を保つ
  患者を擁護する
   患者擁護についての教授法
 第12章 批判的な立ち位置からの形成
  看護の社会契約:公民としてのプロフェッショナリズム

第5部 必要とされる抜本的改革
 第13章 看護プログラムから教育を改善する
  入学と進路
  学生
  学生体験
  教えること
  実践に入ること
  全国的な監督

 付録 カーネギー財団全米看護教育研究の手法
 文献

  訳者あとがき

  人名索引
  事項索引

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日本にもいかせる看護教育変革の提案 (雑誌『看護研究』より)
書評者: 田中 美恵子 (東京女子医科大学看護学部教授)
 一言で言って,勉強になる本である。一人の看護教育者として,いろいろと考えさせられながら読んだ。

 本書は,カーネギー財団による一連の専門職教育に関する研究の一環として,米国における看護学教育に焦点を当てて行なわれた大規模調査を1冊の本として著したものである。

 研究の中心となったのは,世界的に高名で日本でも大変人気の高いパトリシア・ベナー博士である。

 問題の視座は,高度テクノロジーの導入や市場経済に左右される医療環境を背景として,看護実践の急激な変化が起こっているが,果たして,そうした現場に応えられるナースを輩出する教育が行なわれているのか? このような現場で役割を果たすことのできるナースを育てるにはどのような教育が必要なのか? というところにある。この問いは,そのまま日本の看護教育にも当てはまる。重大で頭の痛い問いである。

 博士はいう。「新人看護師は,知識や技術革新が驚くべき速さで進む多様な環境において,安全に,正確に,かつ慈しみ深くケアを行えるよう教育されなければならない。新人が職場に入るときには,自主的学習を通して学び続ける準備ができているべきである」,そして「今日の看護実践と看護教育の間には大きなギャップがあり,(中略)看護教育は,現在の看護実践で求められているものを満たすためには劇的に変革される必要がある」まさにしかりである。

 この本では,こうした危機的な要請に答えるために,“看護教育変革のビジョン”が最終章で示されることとなる。単なる抽象的な議論に終わることなく,問題解決のための具体的な提言が示されている点で,極めて実践的な本である。そして,これらの提言は,問いそのものが共有される日本の看護教育にとって,多くの示唆を与えるものである。

 しかも,こうした現実的な問いが,哲学的にも方法論的にもベナー博士のこれまでの研究におけるスタンスと一貫性を保ち,その延長線上で展開されている点が,非常に興味深い。データは,インタビューと観察をメインとして収集され,ソフトウエアを一部用いて質的に分析され,テーマが明らかにされるとともに,パラダイムケースが同定されている。学生や教員,1人ひとりのインタビューに基づき,かつパラダイムケースを用いての提示という点で,看護教育の内実が手に取るように伝わってくる。日本の現実にそっくりそのまま当てはまるような古くて新しい問題もあり,いちいち頷いてしまうことも少なくない。本書は,奇しくも質的研究がいかに現実を変革するために役立つ方法であるかを示している点でも価値がある。

 本書の主要な主張は,臨床教育と教室教育を統合することの重要性にあるが,そのほか,「形成」「重要性・非重要性の識別力」「臨床的想像力」「倫理的想像力」といった概念など,これまでとは違った視点から教育方法を再編するための有益な示唆を提供する本である。翻訳も大変読みやすく,訳者に敬意を表する。

(『看護研究』2012年3-4月号掲載)
看護教育の変革を見据える新たな視座 (雑誌『助産雑誌』より)
書評者: 村上 明美 (神奈川県立保健福祉大学)
 今回,敬愛するベナー博士の新刊『ベナー ナースを育てる』を書評する機会をいただき,心から感謝を申し上げる。

 博士は,現在の複雑化するアメリカの看護実践環境に看護師が適応できるには,看護教育を劇的に変革する必要があると訴えている。本書は,カーネギー財団による大規模研究を通して明らかにされた,いわばアメリカ看護教育への挑戦状である。日本の環境との重なりも多く,わが国の看護教育にも豊富な示唆を与えてくれる。

 ベナー博士は,アメリカ看護教育に4つの転換を提案する。(1)教育の焦点を「脈絡から切り離された知識を網羅すること」から「特定の臨床状況における重要性・非重要性の識別力,状況下での認知と行動を教える教育」へ,(2)「臨床現場と教室における教育を明確に区別すること」から「教室と臨床での教育の統合」へ,(3)「クリティカルシンキングの強調」から「臨床的論証とクリティカルシンキングも含む複数の思考方法の強調」へ,(4)「社会化と役割取得の強調」から「形成の強調」への転換である。これら4点は,極端な言い方をすれば,「看護学生を専門職として育てるには,臨床と教室を合体して教育すべきである」という,いかにも卓越した実践を重視する博士らしい論理で展開されている。

 これまでのように学生に理論や原則を教え,その枠組みで臨床状況を分析させて行動を導くのではなく,生々しい臨床に学生が身をおき,体験する現象を丁寧に整理・識別して,行動しながら考える能力を培えるような教育を推進しているのである。しかしながら,すぐに直面するのは教員の教育力の問題であろう。

 看護教育の効果的な学習法として提案する「徒弟式学習」も挑戦的である。看護の知識を学び,熟練したノウハウを学び,倫理的態度を形成する学習である。これら3領域が同じように強調され,統合的に教えられることで専門職を育てることができる。

 「徒弟制」というと,西欧手工業ギルドの技能教育や日本の丁稚奉公などをイメージしやすいが,ベナー博士は慎重にこの言葉を用いている。「徒弟式学習」は高度な徒弟制を意味するという。ただ模倣するだけでなく,創造的で批判的に思考し,疑問を問いただし,行動を革新していく。そのことが専門職実践の学習の中心にある。学生が,医療ケアチームや実践コミュニティ,患者や家族の徒弟になることは,臨床の状況を把握し,状況に即した理解やスキルを向上させ,知識を活用する能力などを修得するために不可欠であると述べている。

 「徒弟式学習」の表現に関しては賛否両論だが,実践なくして学問たり得ない助産教育においては,ぜひ導入したい学習法である。

(『助産雑誌』2012年4月号掲載)
看護の学びの発見,再認識,そして追体験
書評者: 佐藤 愛 (大分大病院看護部)
 臨床看護師として3年目を終えようとしている今,本書を興味深く手にとった。本書はベナーらが10年の歳月をかけて行った看護教育研究をまとめたもので,アメリカの看護教育システム,教育内容,今必要とされる改革を,事例を通じてわかりやすく論じている。数多く紹介される語りの中で最も共感したのは,教育と並行しながら臨床で働く3人の教育者の指導法だ。

 第2部「重要性・非重要性の識別力を育成する」で,尿路敗血症の診断でICUに入院する80歳の患者への対応が紹介される。この患者は呼吸器合併症でクリティカルな状況にある。しかし学生はカルテの情報のみに基づいて尿路敗血症のケアを優先していた。指導教師は,患者の元へ足を運び実際の全身状態を観察しながらアセスメントする必要性を指摘。学生はやっと呼吸器合併症への対応が最優先だと気付く。これは臨床では当然のことだが,学生の段階でそれに気付くのは難しい。臨地実習時,私もカルテからの情報収集を優先していた。著者は,この教師の指導を通じて,患者の今の状態を把握して必要なケアを判断することの重要性を,そして,学生をそのように導くことの重要性を示した。そのような指導を経て,学生の成長する過程が見えてくる。ナラティブは,患者の日々変化する状態を評価する重要性を見事に伝えている。臨床で働きながら教鞭をとる指導者の言葉は,臨場感をもって学生に強く訴えかける。

 第3部「臨床的想像力を育てる統合的教育法」では,教室での学習と臨床とを関連付けて指導する過程が示される。指導者は学生に多くの臨床的質問を投げかける。私も学生時代,講義中に質問すると,いつも「どうしてだと思う?」とか「どうしてそう思ったの?」と逆に質問されたものだ。そのときはなぜ答えを教えてくれないのだろうと思っていた。しかし,本書の事例を読みながら,あのとき,教師は私たちへの質問と対話を通して,看護師として考え動く能力を発達させようとしてくれていたことに気付いた。看護師として働くと,同時に多くの問題をアセスメントする能力が要求されることに気付く。その能力はすぐには養えない。だからこそ,学生のうちにこのような教育を始めることが重要なのだ。本書の事例は,学生にも,教師にも,現場の看護師にも,その重要性を生き生きと訴えかけてくる。

 本書には,日本の看護教育と共通する内容も多くあったが,異なる重要な点も提示されていた。それは教育者が臨床で働きながら教鞭をとっていることだ。教育者が体験している看護現場の実際を適時に教育現場で伝えれば,学生の臨床的想像力を大きく伸ばす。しかし日本では今すぐそれができる状況にない。だからこそ,それが実現できている事例から学ぶ意義は大きい。本書は,看護教育者にはもちろん,臨床看護師,看護学生にも,多くの学びと示唆を,説得力をもって提供するにちがいない。

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