誤作動する脳

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「時間という一本のロープにたくさんの写真がぶら下がっている。それをたぐり寄せて思い出をつかもうとしても、私にはそのロープがない」――たとえば〈記憶障害〉という医学用語にこのリアリティはありません。ケアの拠り所となるのは、体験した世界を正確に表現したこうした言葉ではないでしょうか。本書は、「レビー小体型認知症」と診断された女性が、幻視、幻臭、幻聴など五感の変調を抱えながら達成した圧倒的な当事者研究です。

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
樋口 直美
発行 2020年03月判型:A5頁:260
ISBN 978-4-260-04206-2
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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はじめに

 道に倒れていた白髪の女性と数時間お話ししたことがあります。
「大丈夫よ。転んだだけだから」と救急車を呼ぶことを断るので、行き先や自宅を尋ねると、
「すぐ近くのはずよ。……どこだったかしら……すぐ近くのはずなんだけど」

 一緒に助け起こした通りがかりの若い女性が、すぐ警察に電話をしました。
 一人の警官が戸惑った顔で来て、しばらくあちこちと通信した結果、女性の家族と連絡がつきました。女性は以前にも警察に保護されているようでした。
 家族が迎えに来るまでの長いあいだ、道の脇に横並びに座り込んで二人でゆっくりとおしゃべりをしていました。

 知的な女性なので、若いころは何をされていたのかと尋ねると、
「私ね、東京オリンピックで通訳をしていたのよ」
 女性は誇らしそうに、当時(一九六四年)の様子を語ってくれました。

 最近になって、道がわからなくなったり、不思議なことが続いたそうです。
「なんだか私……、バカになってしまったみたい……」
 娘さんに言われて、一緒に病院に行ったことを淡々と語りました。
「……ご病気だと……わかったんですか?」
 女性は、口元だけで微笑みました。その横顔が、心に刺さりました。
「どんな……お気持ちだったんでしょう?」
 聞くべきではないと思いながら、聞かずにいられなくなったのは、その横顔に以前の自分を見たからです。
 女性は、私の目を見ました。
「あなたも、いつか私と同じ病気になったときに、わかるわ」

 彼女にはついに伝えませんでしたが、私も同じ世界の住民で、かつて暗闇の底にいた仲間でした。私は、レビー小体型認知症(レビー小体病の一つ)の診断を五〇歳で受けていました。
 ところが、当事者として内側から観察してみると、この病気や「認知症」の症状は、本やサイトに書かれている説明とはずいぶん違っていたのです(それは脳の病気や障害全般で、長く続いてきたことだろうと今は思います)。そんな自分を観察した日記『私の脳で起こったこと』(ブックマン社、二〇一五年)を上梓したことをきっかけに、思いがけない世界が開けました。
 五〇歳の終わりにレビー小体型認知症と診断されたときには、五年後の自分がどうなっているのか、まったく想像できませんでした。『私の脳で起こったこと』は、私が書く能力を失う前に社会に遺そうとした置き手紙でもありました。ところがどっこい、予想を裏切り、今日も私は書いています(病気の脳には、大変な作業ではあっても)。
 そう。今の私は、たびたび誤作動する自分の脳とのつきあい方に精通し、ポンコツの身体を熟知して巧みに操り、困りごとには工夫を積み重ね、病前とは違う「新型の私」として善戦しているのです。
***
 本書『誤作動する脳』は、医学書院のウェブマガジン「かんかん!」で二年半にわたって書いた同名の連載に大きく加筆したものです。
 そのあいだにも症状は変化しています。考えることも感じることも、時間とともに変わっていきますから、「今の私とは違うな」と感じる部分もあちこちにあります。でもそのときの私から、今、教えられることもあります。
 連載中、私の症状は、高次脳機能障害や発達障害の当事者の方々から「自分とよく似ている」とたびたび言われました。統合失調症などの脳の病気とも共通点があります。今まで別物として切り分けられ、一緒に語られることはなかったこれらの病気と障害ですが、同じ「脳機能障害」なのですから、原因が病気や事故であれ加齢であれ、似ていないほうが不自然かもしれません。

 私たちの脳の機能の障害は「見えない障害」なので、多種多様な困りごとも周囲から気づかれにくく、理解もされにくいものです。少々説明したくらいでは、私が困っていることは伝わりません。「そんな症状は初めて聞いた」と認知症専門医から言われて驚いたことも何度かあります。
 私自身、自分にどういう障害があるかは、“何かができなかったとき”に初めて気づくことです。そのたびに驚き、「これは一体どういう仕組み!?」と考え、文献など調べ……まぁ、おもしろがってもいます。できなくなって初めて、脳が年中無休かつ無意識にしてきた仕事に気づき、感心したり、感動したりするのです。
 みなさまにも、目の前の世界を違う形で認識する体験と不思議を一緒に楽しんでいただければ、とてもうれしく思います。

 では、いざ、私の脳の中へ!

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はじめに

I ある日突然、世界は変わった
 今はないあの甘美な匂い
 夜目遠目も脳の内
 乗っ取られる耳
 五感という名のメッセージ
 見えない毒が忍び寄る
 私の家の座敷童子

II 幻視は幻視と気づけない
 幻視をVRで再現するまで
 消えた女性と巨大グモ
 幻視という孤独
 呪いが解かれ怪物が消えた!
 牢獄に差し込んだ光
 「言葉」という人災
 手放せない手綱

III 時間と空間にさまよう
 私が時間を見失っても
 指輪の埋まった砂漠を進め!
 美しい糸で編まれてゆく時間
 異界に迷い込むとき
 お出掛けは戦闘服で

IV 記憶という名のブラックボックス
 扉を閉めると存在が消える
 なぜできないのかわからない
 「できる」と「できない」を両手に抱えて

V あの手この手でどうにかなる
 「見えない障害」の困りごと
 目は脳の窓
 眠るという苦行
 自分の首を絞める手を放せ
 「いただきます」までの果てしない道のり
 料理が苦手な私たちへ

VI 「うつ病」治療を生き延びる
 地獄の扉は開かれた
 乗っ取られた体
 六年間の泥沼から抜け出す
 治療というジャングルの進み方

エピローグ

おわりに

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●新聞で紹介されました。
《重度の認知症者が示す「若い頃にタイムスリップしたかのような言動」を、病的な妄想と退けず、むしろ時間軸から解放されたオルタナティヴな脳の作動として受けとめてみせる。そうした著者の実践は、老いる前の人にも勇気と、なにより安心をくれるだろう。》――與那覇潤(歴史学者)
(『日本経済新聞』2020年5月2日より)

《近代社会は「幻」との付き合い方を見失っている。著者の「病状」に対する自己分析は、近代的人間観が、いかに偏ったものなのかを突きつける。》――中島岳志(政治学者・東工大教授)
(『毎日新聞』2020年5月2日より)

《「私たちには、それぞれまったく違う『できない』と『できる』があります。そして『できない』から『しない』のではなく、自分の『できる』を使って、『できない』を違う形の『できる』に変えて生活を続けています」本書を読んでもっとも大切にしたいと思った一文だ。》――武田砂鉄(ライター)
(『朝日新聞』2020年4月25日 読書欄・BOOK.asahi.comより)

《最大の特徴は、容易には想像できない異質な現象や感覚、それに伴う苦しさや恐怖などが、第三者である読者が追体験できるように見事に再現された表現力にある。》
(『聖教新聞』2020年5月6日より)

●webで紹介されました。
《緊急事態宣言が発令され、家ごもりするようになって、本を読むことが多くなったのですが、その中で面白かったのが樋口直美さんの『誤作動する脳』でした。》――末井昭(編集者・作家)
『テンミニッツTV』2020年7月1日より)


ていねいな暮らしを大事にしてきた著者の生活視点を学べる1冊(雑誌『看護教育』より)
書評者:山川 みやえ(大阪大学大学院医学系研究科保健学専攻)

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 認知症ケアにかかわった者であれば、本書の著者、樋口直美さんを知らない人はいないだろう。本書でも書かれているが、介護者、特に医療者のなかには、樋口さんがレビー小体型認知症患者の代表のような位置づけになっていることに疑問を呈している人もいる。私もどちらかといえばそうであった。でも、それは樋口さんの生活を語るうえでのキーポイントではないと思った。診断や治療はその人をステレオタイプに分類するものではなく、その人の日々の生活にとって有益な状況をつくり出す助けをするものだ。もちろん医学の進歩のためには分類して特徴づけることは重要であるが、それも「その患者」の生活に還元できるためのものである。特に私が専門にしている看護学では、どんな状況のなかで「その人」が生活しているのかをできるだけイメージしていくことが重要だ。

 しかしながら、本書で樋口さんが表現している体験やそれを自分のなかでどのような形で溶け込ませているかを知ることで、医学も看護学も、常に病のなかで生きる人の生活を後追いしているように感じた。診断がつくり出す、これまで何十年も継続されてきた研究の体系以上に、その人が体験している生活の在りようは多彩だ。なぜこんなことが起こるのか、今までの体系では説明できないことを医療者は疑問に思っているのだが、病気をもつ人のほうがその疑問を百倍強く思っているだろう。自分自身の生活のなかで、その気持ちにどう折り合いをつけながらやっていくのかをどれだけ考えているのだろうと思うと、医療者はもっと謙虚になるべきであろう。ここまで精密に症状を描写し、自分なりの解釈を気持ちを奮い立たせ、変えていこうとする力を本書に込めてくれた樋口さんに心より敬意と感謝の意を表したい。

 最後に、病気や障害とともに生活している人に対して、周りは「○○病のAさん」「聾唖のBさん」というような「代名詞」をつけて呼びがちである。ある集まりでコミュニケーションバリアフリーについて話した時にある人が言っていた言葉を思い出した。その人はとてもアクティブでおしゃれでおもしろい人である。脳性麻痺があるのだが、いつもいろんなところで紹介されるときに「脳性麻痺のCさんです」と言われるのだそうだ。「私の代名詞は病気なんだと思うと、それに抗いたくなる。私を表現する言葉はそんなものではないと思ってもらいたい」と言っていた。彼女もまた自分の生活をていねいに、自分が気に入るようにしたいとがんばっている1人だ。

 看護者として、私自分は本当に未熟だと思うと同時に、病をもつ人の体験と、病を自分の生活に落とし込もうとされているうえでの絶え間ない自問自答の助けになりたいと、決意を新たにした。

(『看護教育』2020年8月号掲載)

樋口さんの言葉が僕の体の中でシンクロした(雑誌『精神看護』より)
書評者:村瀨 孝生(宅老所よりあい・代表)

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 白熱灯の優しい明かりに包まれた本屋さんで行われた対談。そこで手渡された本が『誤作動する脳』だった。「書評をお願いするかもしれません。改めてご連絡いたします」。医学書院編集者の白石さんはニコニコしながらそう言った。

 気軽に引き受けたものの、後で不安が募ってきた。著者の樋口さんは当事者。僕は支援する立場。支援者として、ちゃんと当事者を理解していたかが問われるように感じた。僕は落第かもしれない。

 読み進むうちに、そのような正解か否かといった態度はちょっと違うなぁ、と感じるようになった。樋口さんは誤作動する脳と向き合いながら、どう生きるかもがいている。これまで通りではなくなった、脳と体の反応に戸惑い、落胆しながらも、今の私のままに、どのように生活していくのかを他者との関係の中で具体的に見出そうとしている。絶望と希望の境界を行ったり来たりしながら。この本は現在進行形の記録でもある。

 ならば、僕も支援する側として、当事者とともに生活を一緒に創るなかで戸惑い、悩みながらも、どのように希望を見出そうとしてきたかを綴ってみよう。そのような態度で樋口さんの言葉とシンクロしたいと思った。

孤立“感”のはじまり
 樋口さんの孤立感を思う時、澄江さんの句が浮かんできた。

勇気出せ 花のウテナが待っている
80年 神も佛もないものか
 *ウテナとは極楽往生した者が座れる蓮の花でできた台座

 地元のスーパー、マルショクサンリブのレシートの裏に走り書きされていた句だ。よりあいの利用が始まった頃、澄江さんの口癖は「なっちょらん」と「バカよ、バカよ、大バカよ」だった。自分のふがいなさを自らなじり、奮起させているようだった。澄江さんは独り暮らすなか、カレンダーやチラシの裏、破られたノートに、その時の気持ちを書きしたためていた。メモであったり、句であったり、出されることのない手紙の形で。そこには、ぼけが出始めたころの不安と混乱が溢れていた。

ボケがひどい為に自分で解決することができない
周囲のゴメイワクを防止する自信がない
自分でボケを家族に説明できる自信がない
 澄江さんのメモより

 人に迷惑をかけたくない。その一身で窓もカーテンも閉め切り、心配する人が訪ねてきても戸を開けなかった。澄江さんの孤立感。あの時、僕にはわからなかった、いや、今でもわからない、孤立感の始まりというものを、樋口さんがほんの少し教えてくれた気がした。

 気がつかぬうちに変化する感覚。他者とのやり取りでふいに明らかとなる変容する機能。他者との共感的関係はそういった感覚のズレからじわじわと失われていく。自分の感覚を自分が信じられない。その過程は誰にも理解されず、説明することもできない。澄江さんも、さまざまな生活場面で孤立していく「感じ」に苛まれていたのだ。

結果を手放してつき合う
 澄江さんは考え続ける。知らないはずなのに、よく知っていると感じる人がいる。初めて行くはずなのに通い慣れた場所がある。ボタンとボタンホールの関係がわからない。うどんはなぜ長いのかしら? 他者と同調するための、つじつま合わせに脳をフル回転させていた。考えれば考えるほどわからなくなるようだった。考えなければ難なくできていることも、考えることによってできなくなっていた。

 そうなると「あら、私なぜこんなところにいるのかしら? 失礼します」と声を上げ、逃げるように、よりあいを飛び出していく。僕たちのできたことは、ただただ付いて歩くこと。

 「澄江さんを早くよりあいに連れて帰る」

 そんな目標を胸に秘めて一緒に歩くと、ロクなことにならない。そんなことをしようものなら、澄江さんはさらに逃げる。追えば追うほど逃げる。

 樋口さんは言う。

私が時間を見失っても、草花や木々は覚えていて、黙って毎日告げてくれます。
 『誤作動する脳』104頁

 専門職はよく視野狭窄に陥る。支援対象者が誰であろうと「落ち着くこと」が支援計画に最初から仕込まれているからだ。視野にあるのは「落ち着くため」の方法論とアプローチばかり。だから、当事者の見ている風景を共に眺め、喜んだり、悲しんだりすることはできない。草花や木々が外部記憶になっているなんて気がつきもしない。

 事象を概念化することで、法則性を見出し、少し先の未来を予見しうる専門職は、その力を有しているがゆえに、当事者の行き先を支配し、無理やり導いてしまう。家族もまた、自らの安心を得るために同様な振る舞いをしてしまう。それは、当事者に言いようのない圧となって蔽いかぶさる。

 どこにたどり着くかわかりもしないバスに一緒に乗り込んでみる。勝手に想定した結果をいったん手放して共に風景を眺める。澄江さんが求めていた「一緒に歩く」とはそのようなことだったのだろう。

本気のウソ
 時には職員がチームを組んで小芝居も打った。後を追う職員から逃げるように歩く澄江さんに、別の職員が偶然を装って出合いがしらをつくる。

 「あっ、澄江さんじゃないですか。ちょうどよかった。あなたに会いに行くところでした」

 そのように登場すると、取り付く島のなかった澄江さんにちょっとした島ができる。そこにたどり着ければ、一緒によりあいに帰ってこられる確率は上がる。みんな、本気だった。すべてが藪の中にあるお年寄りたちが求めていたものは、本当かどうか確かめようのない事実より、信じてもよいと思える「本気」だったと思う。

 板挟みなのだ。僕たちの社会には納期があって、それに合わせて生きざるを得ない。時間や空間の概念から解放されていくお年寄りは、納期に合わせたくても、合わせられない。社会とお年寄りにある乖離を埋めていくのが僕たちの役割でもあった。その調整のためならウソをついた。「本気」と書いて「マジ」と呼ぶウソ。

 ぼけの深いお年寄りから聞かれたことがある。

 「その嘘、本当?」

 取り繕っても無駄である。すでに見抜かれていた。だから、開き直って本気のウソをつく。信じようとする勇気、信じてもらう努力のせめぎ合いだった。世間では「大変ですね」の一言で語られてしまうのだけれど、そんな感覚ではない。せめぎ合いは一時的に大変でも、長期的にはかけがえのないものとなる。

 ちなみに。

 「あそこはね、宗教団体なの。でもね、不思議なことに勧誘しない」―「よりあいに通い始めた頃、澄江はいつもそう言っていました」と甥御さん。どうやら、よりあいを宗教団体と思っていたらしい。なるほど、事実ではないが、見方によってはそう見えなくもない。

「わからない」につき合う

(高齢者であっても)人知れず自分の失敗に戸惑い、悩みながらもいろいろ工夫していた時期があったはずです。もしその段階で「できない」を「できる」に変える工夫を一緒に考えたり、困ったときだけさりげなく手を貸してくれる仲間や家族がいれば、ストレスは激減し、その先もずっと穏やかでいられるのではないかと思うのです。
 『誤作動する脳』152頁

 捉え難い感覚や体の反応、どう出るかわからない脳の働き。樋口さんはその「わからなさ」を分析して、法則性を見つけ出す。すでに発見した法則も、事あるごとに書き換えて生活を工夫する。

 では僕たち支援者はその「わからなさ」にどう向き合えばよいのだろうか。やはり生活折々の場面で、丁寧に合意していくしかないと感じている。たとえ全介助の声なきお年寄りであっても、表情や体の反応で意思を伝えてくれる。

 「今の調子はどう?」「今、起きる? まだ寝とく?」「ご飯食べる? 後にする?」

 そんなやり取りをそのつど、積み上げていく。言葉だけによらず、総動員した五感が生み出す第六感も頼りにする。そうやって、1つの行為をめぐり、ふたりの私(当事者と支援者)が共に今を掴み取る。ふたりの私は互いの体を通じてシンクロできるはず。

 と同時に僕たち支援者は「わからない」ことに逃げ込むことがあってもよいと思う。

ここ(よりあい)に来るとうまく誤魔化せる気がする。

 これは澄江さんの言葉である。僕たちはわからないことで悩みもするが、気楽でいられもする。そのことは当事者を傷つけるとは限らないのではないか。車のハンドルにある「遊び」にも思える。「わからない」という1つの限界から生じる、戸惑いやためらい、ちょっとした間は、専門職が取りがちな一方的な見方や態度を諫めてくれるはず。

 僕たち専門職にありがちなのは「わからない」に直面した時、わかったふりをしてしまい、自分の知識の範囲内に当事者を閉じ込めてしまうことだ。それでも、対応できなければ遠ざけ排除してしまう。隔離や抑制、たらい回しはその延長線上にある。

 樋口さんの実感を興味と関心を持って取材したNHKディレクターは「わからない」に接したときの態度がどうあるべきか、大きな示唆を与えてくれた。それは、当事者にも僕たちにも希望を見出す分岐点となることを教えてくれている。

そんなに長時間、自分のことを一方的に話したのは、生まれて初めてでした。私は驚いていました。自分が「異常者」でも「哀れな患者」でもなく、貴重な「情報提供者」という立場にあるということに。そして私の体験が、肯定的な態度で、目を輝かせて聴いてもらえるものだったという思いがけない事実に。
 『誤作動する脳』73頁

 『誤作動する脳』を読みながら、心に触れる文章を書き出していった。樋口さんの表現の豊かさは僕を怖がらせたり、面白がらせたりした。この本の中の樋口さん同様に、「風に舞うレジ袋が美しい白い鳥に見えた」風景が僕にも見えた。

(『精神看護』2020年7月号掲載)

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