精神看護学ノート 第2版

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部屋に引きこもる高校生A君,家事が手につかない主婦Bさん。誰もが経験する人格の成熟と人間関係の発展を軸に,この2人を中心としたさまざまな場面や患者像を通して,精神疾患・精神看護に求められる知識・理論を実践的に解説。看護学生・看護者として自身の問題を見つめる視点や広い視野を育てるヒントを与えてくれる。
武井 麻子
発行 2005年03月判型:B5頁:208
ISBN 978-4-260-33398-6
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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第1章 精神の健康と精神看護学
 精神の「健康」と「障害」
 精神障害と偏見
 精神科の外来にて
 精神障害の原因についての考え方
 精神障害と学習
 病気と退行
第2章 人格の成熟と人間関係の発展
 対象関係論の考え方
 対象関係の発展
 全体対象と抑うつ態勢
 移行段階と「甘え」
 言葉の獲得と個の確立
 気質について
 気質と不安のあり方の違い
 同一化のメカニズム――投影と取り込み
 子どもと両親の三角関係
 アイデンティティと遊び
 大人になること
第3章 死との出会いと心的外傷
 心的外傷後ストレス障害(PTSD)
 心的外傷体験としての非道処遇
 二次的外傷性ストレスとバーンアウト症候群
 心的外傷からの回復
第4章 防衛としての精神障害
 不安と神経症
 うつの諸相
 統合失調症という病
第5章 精神科における入院治療と看護
 患者の訴えを理解する
 日常生活における不安と防衛
 水中毒のDさん
 看護と境界(バウンダリー)
 B子さんの入院
 感情の容器になること
第6章 こころと身体――身体的ケアの意味
 毛づくろい信号と症状
 身体に表れるこころの病気
 存在の基盤としての自我感覚
 身体的ケアの持つ意味――B子さんの場合
 精神科における身体的ケア
 睡眠の健康と援助
 薬物療法と看護
 向精神薬と有害反応
 薬の意味
第7章 クライエントとしての家族
 家族という幻想
 病因としての家族
 全体としての家族
 家族理論から学ぶもの
第8章 グループのダイナミクス
 グループと看護
 グループ・アプローチの起源とグループ理論
 「全体としてのグループ」の見方
 グループ文化とグループ役割
 グループを実践する
 SSTと看護
第9章 治療の場のダイナミクス
 システムとしての組織
 治療的環境と看護
 環境療法としての治療共同体
 治療と抑制
 リハビリテーションの意味
第10章 看護という職業
 看護師の職業意識と画一性
 感情労働の概念
 プライマリ・ナースの悩み
 スーパーナースの落とし穴
 病院という劇場――結びに代えて
文献
索引

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書評 (雑誌『看護教育』より)
書評者: 出口 禎子 (北里大学看護学部教授)
 『精神看護学ノート』の初版は,1998年に出版された。技術論ではなく,精神看護の本質を問う内容であり,著者自身の長年にわたる臨床経験に基づいて執筆された。この『精神看護学ノート』は,テキストによる学習をさらに深めるサブ・テキストとして活用され,刷が重ねられてきた。

 このたび,その改訂本が出版された。最近注目され始めた自然災害や社会犯罪などによる心的外傷後ストレス障害,うつの時代といわれる現代社会の動向を反映して睡眠などの新しい項目が加えられている。また初版で充実していたおすすめブックスに,今度はさまざまなおすすめシネマの解説が加わり,さらに充実した内容になった。

 心を病むということが,ストレスフルな現代社会に生きている私たちにとっても決して特別なことではないということは,徐々に受け入れられ始めている。不慮の事故に巻き込まれて社会生活が立ちゆかなくなったり,抑鬱状態で日常生活を維持できなくなる可能性は誰にでもある。しかしその出来事が,実際に自分の身近に迫ってみなければ,心を病むということを自分のこととして考えることはなかなかできないものである。そういう意味で,この書は看護師を目指して学ぶ人やすでに看護師として働いている人だけではなく,精神看護学に関心をもっている人たちに広く手にとってほしい書物のひとつである。この書では,心の病と身体のつながりが詳しく述べられ,人間同士の関わりあいの中で心を病んだり癒されたり,成長する様がわかりやすく明確に解説されている。

 ところで,私たちは精神障害者と向き合いながら,自らの健康観や障害観について振り返る機会に迫られたり,精神障害とは何かについて改めて考えさせられることも少なくない。私たちは,今では援助の対象が患者だけではなく家族も含めて考えなければならないことを理解している。しかしこの書では,精神看護の対象は,さらに家族の住む地域や社会にまでも及ぶと述べており,それゆえ一人の人の回復には多くの専門家がそれぞれの立場から関わっていることを改めて認識させられるのである。また,日々生活の中で経験するさまざまな出来事が学習や回復につながるという考え方をとおして,生活の中で学習することの意味や心を病むことからの回復とは何かについても深く考えさせられる。

 最後にふれておきたいのは,私たちはどこかで聞きかじって身につけた言葉や,不確かな理解のまま日常的に使っている言葉があるものであるが,この書の「豆知識」には,そんなあやふやな知識を確かなものにしてくれる,実に豊富な情報が盛り込まれているということである。また,さらに充実したおすすめブックス,あらたに登場したおすすめシネマの解説は,私たちの専門的な知識に幅をもたせてくれる。時には読み取ろうとしなければ理解しがたい文章にも出合うが,それはこの書が,想像を超える多くの文献を背景に,広い知識と深い解釈を持って書かれているからだろう。そういう意味でも,学生だけではなく,経験を積んだ看護師にも,自分の考え方を確認したり,迷ったりしたときには示唆を得ることができる,長く付き合える書物となるだろう。

(『看護教育』2005年8月号掲載)
本を読むとき (雑誌『精神看護』より)
書評者: 松澤 和正 (国際医療福祉大学保健学部看護学科・助教授)
 私は、まだ看護師として精神科臨床にいた頃、初版の『精神看護学ノート』に出会っている。従来の看護学類似書らしくない、開かれたユニークな内容や構成に驚いたのを覚えている。特に、本文の余白には、多くの書籍が著者のコメントと共に紹介されており、新たな世界に目を見開かせてくれる著者の新鮮な意図や好奇心の拡がりを感じたものだった。

 今回、ほぼ7年ぶりの改訂となった第2版は、初版のユニークさをそのままに、新たな章立て(第3章・死との出会いと心的外傷)を加えつつ、時代の変化に沿ってさまざまな加筆・修正等がなされている。また、その間に著者は、精神看護学のみならず看護学そのものにとって記念碑的な著書『感情と看護』(医学書院)を上梓している。この斬新な著書に提示された一連の問題意識は、すでに初版『精神看護学ノート』(特に第9章・看護という職業)においても確かに内包されていたのだが、当時の私の目には十分に届かなかったようだ。

 しかしいま、『感情と看護』を経て、『精神看護学ノート』に再び向き合うとき、その意味はやはり明らかであったように思える。つまり、それまでの看護学には、看護行為や看護過程を支えるための看護理論はあり得たかもしれない。けれど、そのような看護行為の当事者である「看護師自身を支える看護理論」などほとんどあり得なかったのではないかという反問である。

 私たちはようやく著者によって、臨床看護師のための看護学、すなわち看護学における「臨床看護師の当事者性」という古くて新しい問題の端緒に行き着いた、とはいえないだろうか。そのような問題意識の幾ばくかが、すでに本書全体のあり方に影響を与えていたように思えてならないのだが。

 いずれにせよ、本書のもつ特徴の1つは、精神看護学の教科書(ないしサブテキスト)としてのあり方より、おそらくある種の優れた啓蒙書としてのあり方であろう。看護実践の内容や方法そのものを問うというより、それらの根拠や妥当性などを批判的に吟味するために有用な、さまざまな概念や理論が至るところに引用されている。しかもそれらは、看護学という領域に必ずしもとらわれることなく、著者自身の自由で境界的な知的関心のなかで見出され整理されてきた「臨床に近い」ユニークな視点である。

 特に本書では、精神分析学や対象関係論から得た豊富な知見が、さまざまな議論や説明の基盤となっている。なかでも、例えば土居(健郎)の甘え理論からの「甘えの内在化」やウィニコットの「一人でいられる能力」などの概念は、看護行為における患者との関係性や相互性を考える上でも興味深いものである。

 これらの概念は、昨今の自律やセルフケアといった思潮のもとでは、むしろ発達論的な退行や依存といった文脈でとらえられやすいが、むしろ看護が相互的関係の中で成立する際の、基本的な条件にかかわるものであることに改めて気づかされる。

 その他、「希望という能力」や「待つことができる能力」、さらには「偽りの自己」といった多くの重要な概念が提起されるが、それらは皆、臨床看護師が目前の困難な現実に向き合う際の、豊かな概念的な視力を提供してくれるように思える。

 本書は、先に述べたとおり、おもに精神分析学や対象関係論という枠組みの中で、臨床におけるさまざまな現象をより深く掘り下げようとしている。同時に、その視力は、個人と家族、そしてグループ、さらには病院・地域といった拡がりの中に向けられていく。そこでも著者は、私たちに多様な概念的視力の数々を提起してくれている。

 家族という、ある意味で最も近くかつ不可視な現実に対して、「欺瞞」や「偽相互性」「IP:患者として認められた人」「家族システム論」「EE:家族の感情表出」等々の言葉が与えられていく。私たちは、それら言葉のもつ固有な切断面から、家族という複雑な立体を想像し、その中にかろうじて浮かび上がった個人のあり方に、時に嘆息することになるのだが。

 グループという、今度はかなり浮動的な集団への考察では、グループの治療的因子やさまざまなグループ現象・文化についてふれ、病棟の中に起こる同様な現象についても言及している。また、組織や地域の中の個人という問題意識では、治療的環境の複合的要因や環境療法としての治療共同体のあり方や、地域ケアの拡がりやそこにある問題点などが述べられている。

 しかし、ここでも著者は、例えば退院や社会復帰という言説のもつ意味を、より始原的な(対象関係論的な?)個人の相互性の上で常に考えるべきもの、という姿勢を崩そうとはしていないように思える。

 私は冒頭で、著者の別著『感情と看護』にふれつつ、本書『精神看護学ノート』がまさに「臨床看護師の当事者性」を問う視点をすでに内包していたことを述べた。しかしそれは、上述してきたことからも明らかなように、単に本書が、臨床看護師の感情労働に言及していたからというだけの理由ではないように思える。本書がもつ、看護学というものへのある種微妙なスタンスの違いが、その中(看護という領域)にしか生きざるを得ない臨床看護師への支え・支持としての機能をもち得る、ということにも関係しているのではないだろうか。

 つまり、臨床という困難な現実に絡め取られている看護師に、本書は常に幾分か看護を越境しつつ、いくつもの新たな視点や考え方を提供してくれる。しかも、それらは問題を焦点化するというよりも多元化するというかたちで作用することによって、現実と自分との密着した距離感に何らかの変化がもたらされる。おそらくその密着の中には、すでに感情労働といわれるべきものが存在していたかもしれないその場所において、である。

 著者は本書で、「看護において感情は職務上必然的に生じてくるものであり、個人的な感情として片付けられない要素を含んでいる。また、個人の私的な努力と仲間内のサポートだけでは対処しきれるものではない」と述べ、そのための支援体制の確立の必要性を示唆している。

 しかし、少なくともここで言及されている感情とは、ともかくも対処されるべきものとみなされてはいるが、精神科看護においては、看護師の感情ないしこころのあり方そのものが、患者とのかかわりやケアの本質的な手段であることが特徴でもある。またそれゆえに、相互的に喚起される感情が「必然的」ともみなされるのであろう。

 したがってそこには、関係のなかでケアとして(あるいはその結果として)あり得る「妥当な」こころのあり方(感情)も、むしろ互いに有害なそれもあり得るという意味では、単なる対処・サポートという議論だけでは、看護における感情のもつ意味を十分にくみ取れない可能性もある。さらには、看護師にとって有害と思われる感情であっても、それが生み出される臨床の現実や患者への知的理解や新たな視点が深化することによって、そうした感情的反応そのものが生じなくなる可能性もあろう。しかし、それでもなお存在し続ける感情とはいったい何なのか……。

 いずれにせよ、本書は、日々さまざまな困難に取り組んでいる臨床看護師に、あるいはそれを目ざす看護学生や多く医療関係者に、ある種の自由や新たな視力を与え続け、かつ支持し続けていく豊かな力に満ちている。

(『精神看護』2005年9月号掲載)

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