傷の声
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拘束は、羞恥心と共に患者を内側から無力化していく。拘束具をいっときたりともはずすことが許されなかった当初の私は、トイレに行く権利さえ奪われた。すべては縛られたままベッドの上で行われた。二~三歳以来となるオムツを履かされ、「トイレはここでしてね」と当然のようにサラッと言われたのだ。結局、ベッド上という環境で、しかも横になったままではどうしても排泄できなかった。そこで、尿のほうは尿道に管を入れっぱなしにして袋に尿が貯まるようにし、便のほうは下剤の助けを借りて便意が来たタイミングで看護師に申し出てベッド上でちりとりのようなものを差し込み、用を足した。文章で書けばそれだけのことだ。しかし、普段トイレを使っている人間が、排泄をコントロールされ、排泄物を見られるのは尊厳をズタズタに傷つけられる拷問である。時計のない個室でひたすら天井を眺める一日はとにかく長かった。ナースコールで「今何時ですか?」と問うては一時間も経っていないことに絶望したり、夕食を食べてからいつまでも日が暮れていかないことをこころの中で嘆いたりした。一秒、一秒が苦しみだった。この状態がいつまで続くかもわからず、縛るくらいならさっさと殺してくれと願った。このような環境に置かれるという構造そのものが、力で患者を組み敷く恐怖政治になっているのだ。少しでも医師の思い通りにならなければ、この生活が延びるかもしれない。どんなに強い怒りを感じていても行動に表せば、拘束が追加されるかもしれない。相手が植えつける苦しみを、相手が植えつける恐怖によって抑え込まされる経験は、暴力を振るわれて黙らされているのと何ら変わらなかった。16

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