て、私はごまんといる拘束すべき患者の一人に過ぎなかっただろう。しかし私はといえば、人権を奪われた三週間のうちに、それによって自分の一部が死んでしまった人間として、今を生きている。拘束される前の自分には決して戻れない、何かが損なわれた状態で還ってきたことを、果たして「生き延びた」と簡単に言えるだろうか。私は困難の詰まった家庭で育った。その影響で、「自分は消えたほうがいい存在だ」「死んでつらさを無にしたい」という気持ちが深く胸に刻まれ、どこにいて何をしていようが通奏低音として私の人生のうちに鳴り響いていた。一五歳でついに家庭にも学校の教室にもいられなくなった私は、細々と支援に繋がった。それ以来、揺らぎながらも細い糸を綱渡りしてきた。生きるための足がかりは、毎日通う保健室と、二週に一回のスクールカウンセリング、そして、オーバードーズとアームカット。オーバードーズは胸をプレス機で潰されるかのようなひどい感情を意識ごと飛ばすのに役立ち、アームカットは切る痛みや流れる血の赤さと温かさによっていっときでも意識の向く方向を自分の感情から体の感覚へとそらすのに役立つ。これらがなければ私はとっくに死んでいた。それほど生きるのはきつかった。ハタチまで生きているはずがない。そう思っていた私があらゆる手段を使ってその歳を越え、支援に繋がってからは六年余りが経った頃。存在するべくもなかった周りの世界への信頼感を地層のようにわずかずつ積み重ねていき、幸運にも親と離れて安全な住まいを得た矢先のことだった。13
元のページ ../index.html#6