医学書院の70年
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た。続いて専務の元が挨拶に立ち,ひと言ふた言話すうち感極まってテーブルに突っ伏した。実のところ,当時の社の力量をもってして医学会総会を迎えることはすべての点で分不相応な試みであった。この学会は元にとっても専務としての初陣であり,大いに熱意を燃やし困難を乗り切った末の感激の嗚咽であった。 1955年4月に開催された第14回日本医学会総会では,社長の金原一郎自ら京都に赴き,社員30人も出張。自動車は宣伝カー2台,乗用車2台が遠征し,京都市内は先生方の送迎のためにチャーターしたサービスバス十数台が数分おきに走り回るという状況で,社の成長を強く示すことになった。 こうした活動は全くのサービスであり,利用者が多いからといって社の出版物が直接的にたくさん売れるわけでもない。しかしながら,医学会が盛大になることは医書出版社が盛大になることで,大きくそろばんをはじけばその出費はわずかなもの。学会こそ出版社が最も活躍する場であり,医学会を制するものが明日の医書出版界を制するものであると一郎は確信していた。心血を注いだPR活動は礎となり,今日の社を支えている。 一郎は医書出版社としては珍しい,ユニークなPRを次々と打ち出した。1951年8月には雑誌『結核診療室』創刊記念の催しで「レントゲンくじ」抽選会を開催。その後,52年には「鞄くじ」,53年には「エレクトロくじ」,54年にはメディカル・フォト・コンテストの開催を試みている。1951.04.01学会時のサービスバスComplimentary shuttle service at academic meetings.70 years of igaku-shoin042

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