医学書院の70年
24/252

1944.08.18右ページ:夜空に想いをめぐらす一郎(1954年7月23日/自宅)Opposite page: Ichiro wearing a summer kimono (yukata), deep in thought looking at the night sky (July 23, 1954). 戦後の特異な時期を脱すると,医学雑誌専門の出版社から書籍出版にも進出し,社名を「医学書院」と改称して一郎は自ら社長に就き,長男元が専務となり,二人三脚で会社を発展させていった。 一郎には父寅作から学んだ教訓があった。「銀行経営の失敗は,本業から脱して全く無経験の事業で利益をあげようとしたからである。自分は家業に徹する。医書出版社は医学書以外作らない。」―これがのちに社を貫く“憲法”となった。そして,金ばかりでなく時間も勉強も趣味もすべて自分の本業に投資することが,利益を得る最も確実な方法であると考えた。一郎自身その覚悟を決めたときから“趣味は生業”となった。進むべきわが社の道を徹底して学び,国内はもとより海外にも幅広く目を向け,研究した。そして世界随一の学術出版社であるドイツのスプリンゲル社を手本に定めると,社を日本のスプリンゲルにすると公言してはばからず,医学書第一の出版社になることに執念を燃やし,それが生涯をかけた唯一自身の道楽であるとした。当然ながら出版物はまず内容の充実を第一とし,そこに利益は付随するという信念のもと,社員に対しては,よい本はたとえ高価でも必ず売れる。必要は高価を買わしめるのであると説いた。 一郎は後年,エッセイ「まむしのたわごと」を著した。元来『週刊医学界新聞』に毎週連載されたものである。まむしは一郎のニックネーム,その意は一度食いついたら離れない執念に由来するという。自分自身を「生来の貧乏性で特別な余技もない」としながら,晩年はこの執筆を唯一の趣味とした。そこには自身の歩んできた艱難辛苦の人生から得た教訓,出版人としての哲学が盛られている。一郎は1986年に91歳の生涯を全うしたが,活字となったまむしは時折毒を吐きながら,変わらず社の行く末を見守っている。70 years of igaku-shoin014

元のページ  ../index.html#24

このブックを見る