医学書院の70年
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1944.08.18ない船も同然ではないかと考えた。禁を破ったものの,結果として出版企画は旺盛となり売上げも増進した。 このころ,家業の経営は母とうから長男の作輔へと引き継がれていた。この兄と一郎とは兄弟中でも最も仲がよかったが,にぎやかなことを好む作輔は生来の道楽者であり,生真面目な次男,一郎とは正反対の性格であった。作輔の遊蕩はいよいよ旺盛となり,家業の経営を案じた一郎は弟たちと相談して,危険分散のため事業を出版と販売とに二分し,兄と一郎は出版を,弟たちは販売を分担することにした。 次々とその手腕を発揮していく一郎に,社内での風当たりは強かった。会社を二分するに至っては作輔の後見人となっていた顧問の逆鱗に触れ,折しも発令された戦時下の企業整備令によって,一郎はなかば追放されるように一人雑誌社に移ることになった。 1944年8月18日,日本医学雑誌株式会社を創業した一郎は,常務取締役に就任する。戦時下ですべての物資が不足するなか,社員10名を率いて細々ながら新たな出版活動を開始した。 父の失意をよく理解し,助けたのが一郎の長男,金原元であった。戦中・医学書院社長時代,兄作輔(左)と(1952年3月2日)Ichiro Kanehara, then the President of Igaku-Shoin Ltd. (right) with his elder brother, Sakusuke Kanehara (March 2, 1952).70 years of igaku-shoin012

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