医学書院の70年
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「編集長」―。長い間周囲からそう呼ばれた長谷川泉は,名実ともに社の名編集長であった。入社以来一貫して社の編集・出版活動に携わり,編集人として多くの企画を作り上げた。編集長在任中,20余誌にものぼる雑誌を創刊している。1978年10月1日,副社長兼編集長であった当時,前社長,金原元の逝去を受けて代表取締役社長に就任した。 長谷川泉は1918年2月25日,千葉県の山村に生まれる。文学を志し,1942年9月に東京帝国大学文学部国語国文学科を卒業。兵役を経て1944年同大学院に入学,終戦を挟んで5年間の研究生活を送り,1949年10月に大学院を修了した。自伝によると,小学校2年生のとき,誰もいない放課後の教室で好きな女性教師に菊池寛の『恩讐の彼方に』を読み聞かせてもらった体験が最初の文学開眼であったという。 一方,大学院在籍中には大学構内にあった財団法人大学新聞社に入社し,編集長まで務めている。ちょうどこのころ,家業の修行にと金原一郎から人を介して頼まれ,西洋史学科の学生であった金原元の教育係となったのが長谷川であった。戦後まもない薄汚れた大学食堂下の新聞社に,新聞の編集を志して訪れた長身白皙の青年を長谷川は深く記憶している。元に編集のイロハを“たたき込んだ”というこの出会いは,後に生涯の縁となった。 1949年4月,医学書院に入社し,東大大学院における文学研究と社における出版活動の“二足のわらじ”生活が始まった。やがて長谷川は“医学書院の編集長”となり,社長,会長を歴任。1994年に相談役を辞任するまで45年にわたり在籍し,社業の発展に努めた。その間も森鷗外の研究を続け,長谷川の文学界における業績は,医学界の重鎮ばかりである社の著者・編集者の間にも十分に浸透していた。編集会議の折には,先生方から研究の進捗状況を聞かれたり新しい文献について話が弾むなどの光景がよくみられた。長谷川泉が書いた色紙「啄」(そったく)―「」は雛(ひな)がかえろうとするとき,内側からつつく合図をいい,「啄」は,それを聞いた母鳥が外から殻をつつき割ることをいう。雛がかえる絶妙なタイミングを表すことから,「またとない絶好の機会」といった意味にも捉えられる。The calligraphic work reading “Sot-taku” by Izumi Hasegawa. 107

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