系統看護学講座
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サンプルページ健康支援と社会保障制度 ❶ 医療概論2第1章 生きることと死ぬこと A 生命を尊ぶ心 1 誕生の喜び 新しい命の誕生は,どの夫婦にとっても,その家族にとっても,特別な体験である。生まれてくる子どもにとって人生のはじまりであるとともに,家族にとっても人生をかえてしまうほどの劇的なできごとである。 妊産婦は,妊娠中の不安や身体的な変化,出産時の痛みと苦しみ,それらすべての過程をのりこえればこそ,無事の出産による歓喜と癒いやしに深く浸ることができる。濃密な体験の鮮明な記憶は胸にきざまれ,生涯忘れられることはない。夫婦ともども,新しい命の誕生に触れ,心を揺さぶられ,自分の命より大切な宝物に出会ったと感じる。ほかの家族にとっても感動的なできごとである。夫婦の両親は,孫の誕生に喜びもひとしおである。第二子の出産ならば,第一子にとってはお兄ちゃん・お姉ちゃんになる瞬間である。 出産予定日を約3か月後に控えたある妊婦には,末期がん患者の祖母がいた。医師が告げた祖母の余命は約1か月。しかし祖母は「ひ孫の顔さ見てえ」と強く望み,みずからの命の炎を燃やしつづける。 遠方に住む孫の妊婦は,日に日に大きくなる自分のおなかの写真や胎児の超音波検査の画像をスマートフォンで自分の母親に送り,祖母に見てもらった。祖母が生きながらえているうちに,孫は無事に出産を果たした。生まれてきたひ孫の姿を動画で撮影し,病床の祖母に見てもらうことができた。 祖母は繰り返し動画を再生し,「めんこい,めんこい」と何度も声をふりしぼり,幸せそうな笑みを浮かべた。その数日後,祖母は亡くなった。7A.生命を尊ぶ心さんの心のうちを少しでも聞けて,Uさんは少し安心した。 Uさんを含む医療チームはFさんと娘に相談し,Fさんは病院と連携する回復期リハビリテーション病院に移ることになった。退院の日,Fさんは涙ながらにUさんに「あんたと別れるのはさびしいね」と伝えた。Uさんも言葉をつまらせながら,「元気でいてください」と返した。Fさんは少し笑みを浮かべてこういった。「あの人の墓参りに行きたいから,リハビリもうちょっとがんばるよ」。 5 死生学(サナトロジー) 1 死生学とは 死し生せい学がく(サナトロジー)とは,死ぬことと生きることについて,医学だけでなく,哲学,社会学,宗教などさまざまな立場から研究する学問である。死生学は,医学の知をふまえつつ,人間が生きる意味をその対極の死から問う。 人はいつか必ず死ぬ。しかし現代人は,死について考えることを避けてきた。死は縁えん起ぎがわるいこととみなされ,人々は死についてあからさまに語ることをためらってきた。「いつか死ぬ」とぼんやり考えていても,健康なうちは死を非日常的なものとして遠ざけ,それ以上深く考えない。死にいたる病気にかかり,「必ず死ぬ」という現実に直面すると,死を必要以上に悲惨なものと考え,うろたえ,悩み,苦しみ,救いを求める。死に向き合うすべを見失い,途方に暮れることもある。 死生学は,死をタブー視する現代人に対し,死を必然として見すえ,死とつながっている生の大切さについて考察する。 死生学の医療への応用に関しては,精神科医であるキューブラー=ロス81C.公衆衛生と保健 4 産後うつ 産後うつは,育児による不眠と疲労が重なり,気分が沈み,それまで楽しいと感じていたことがそう思えなくなり,物事に対する関心がなくなったりする状態である。出産した母親の5~10%がかかるとされる。 産後うつが続くと,児に向き合うことも困難になる。重症化した場合,児童虐待や自殺のリスクにもなる。人口動態統計を用いたある調査によると,2015~2016(平成27~28)年の2年間に日本全国で生児出産後1年以内の褥じょく婦ふの自殺は92例であったという1)。産後うつをかかえた母親を死なせないために,母子保健と精神保健・医療の連携が重要となる。 保健師のDさんが勤務する保健センターにKさん(24歳,女性)から電話があったのは,ある年の暑い夏の日であった。生後2か月の女児(Iちゃん)の育児に不安を感じるKさんの様子を,近くに住む姉が見かねて,保健センターに電話するように教えてくれたという。 DさんはKさんの自宅を訪問した。Iちゃんの体重・身長・胸囲・頭囲を測定し,順調に育っていることを確認し,「お母さんはちゃんと休めていますか?」「なにか困っていることはないですか?」「もしつらいことがあったら,お話してください」と語りかけた。 それまでかたい表情だったKさんは,堰せきを切ったように語りはじめた。「夜泣きがひどくて,どうしていいかわからないんです。昼間に2人きりでいるときにも泣かれて,なんで泣いているのかわからなくて,なにも考えられなくなって。子どもに追い詰められているような気がするんです。どうしようもなくてイライラして,涙があふれてきて。自分はダメな母親なんです」。 DさんはKさんの産後うつを疑った。「お母さん,あなたはちゃんと子育てできていますよ。その証拠に,赤ちゃんはちゃんと育っています」。DさんはKさんに,産後うつについてわかりやすく伝えた。 ── この時期の母親には誰にでもおこりうること。産後うつからの回復には十分な休息が必要であること。育児・家事を完璧にこなそうとは思わなくてよく,1) 国立成育医療研究センター:人口動態統計(死亡・出生・死産)から見る妊娠中・産後の死亡の現状.(https://www.ncchd.go.jp/press/2018/maternal-deaths.html)(参照2019-12-01)61A.保健 ・ 医療 ・ 介護を取り巻く社会環境の変化総数は5099.1万世帯である。そのうち「夫婦と未婚の子のみの世帯」が1485.1万世帯(29.1%)で最も多く,ついで「単独世帯」が1412.5万世帯(27.7%),「夫婦のみの世帯」が1227.0万世帯(24.1%)となっている。かつて多かった三世代世帯(祖父母・父母・子どもが同居する世帯)は,減少している。 世帯類型でみると,「高齢者世帯」は1406.3万世帯(27.6%)で年々増加傾向となっている。このうち,「単独世帯」が683.0万世帯(48.6%),「夫婦のみの世帯」が664.8万世帯(47.3%)となっている。三世代世帯の減少とともに,高齢者の単独および夫婦のみの世帯が増加の傾向にある。 2017(平成29)年の1世帯あたり平均所得金額は,「全世帯」が551.6万円,「高齢者世帯」が334.9万円,「児童のいる世帯」が743.6万円となっている。高齢者はおもな所得が年金であるため,働く世代に比較して相対的に所得金額が低くなっている。 2015年の貧困線(等価可処分所得の中央値の半分)は122万円となっており,相対的貧困率(貧困線に満たない世帯員の割合)は15.7%となっている。また,子どもの貧困率(17歳以下)は13.9%となっている。 2 疾病構造の変化 1 死亡原因 わが国のおもな死亡原因は,時代とともに大きく変化してきた(▶図3-2)。▶所得と貧困の状況010203040506070020406080100120140195019551960196519701975198019851990199520002005201020152020202520302035204020452050205520602065人口(百万人)年齢3区分別人口の割合(%)01234合計特殊出生率(2015年以前の人口は総務省「国勢調査」,合計特殊出生率は厚生労働省「人口動態統計」,2020年以降は国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口〔平成29年推計〕:出生中位・死亡中位推計」による)老年人口(65歳以上)生産年齢人口(15~64歳)年少人口(14歳以下)合計特殊出生率老年人口の割合(高齢化率)生産年齢人口の割合実績値推計値▶図3-1 年齢階級別人口の推計195B.転換を迫られる医療政策一部を看護補助者に移行することにより,看護師はその本業たる専門的技術について実力を発揮しやすくなるだろう。 B 転換を迫られる医療政策 1 国民医療費 1 国民医療費の推移 国民医療費は,1年間に日本全国で行われた保険診療の支払額の総額である。予防接種,正常分娩,人間ドックなどは,いずれも保険診療の対象外であるため,国民医療費には含まれない。2017(平成29)年度の国民医療費は約43.7兆円,1人あたり年間医療費は約33万9900円,国民医療費対国内総生産(GDP)比率は7.87%であった 図5-2は,国民医療費,国民医療費対国内総生産(GDP)比率および対国民所得(NI)比率の年次推移を示す。[1] 昭和期 1955~1973(昭和30~48)年の高度経済成長期はGDPののびが大きかったため,国民医療費が急増したにもかかわらず,対GDP比率は4%以下に抑えられていた。しかし,1973年後半におきた石油危機で高度経済成長期は終わり,国民医療費対GDP比率は急上昇した。以降の昭和の時期は約国内総生産一定期間内に国内で生み出された付加価値の総和。付加価値とは,財やサービスの生産額から原材料費や燃料費などを除いたものである。国民所得一定期間内の国民の所得の総和。国民医療費(兆円)対国内総生産比率・対国民所得比率(%)(厚生労働省「国民医療費の概況」平成29年度版による)024681012 0 10 20 30 40 501955’60’65’70’75’80’85’90’952000’05’10’15(年度)対国民所得比率対国内総生産比率国民医療費▶図5-2 国民医療費・対国内総生産および対国民所得比率の年次推移医療を取り巻く社会や,医療に関する制度・経済について概要を学びながら,それらが現場の医療にどのように結びつくか想像できるように,ていねいな解説を加えました。30第1章 生きることと死ぬこと 3 非がんの緩和ケア 一般的には,緩和ケアの対象疾患はがんであるというイメージが強い。しかし,がん以外にも,治癒が困難であって,苦痛を緩和しながら最期を迎えることを考慮すべき疾患は多い。こうした疾患には,慢性の臓器不全(心不全・呼吸不全・腎不全など),認知症,脳卒中後遺症,神経難病などが含まれる。 がんと異なり,非がん疾患の場合,「数か月以内に亡くなる」という予測はほぼ不可能である。患者が急な死を迎えたとき,「そんなにすぐに亡くなるとは思っていなかった」と家族が口にすることもめずらしくない。このような死亡時期の予測困難性が,緩和ケアの導入の妨げになっているといえる。 非がん疾患の緩和ケアにおいては,患者の身体状況のみならず,精神的・経済的状況や家族との関係性などをよく知る医療者がかかわることが重要である。その患者を長期にわたり診療していれば,最期が近づいているかどうかの予測がある程度可能になり,患者・家族に対し,最期を迎える心構えについて段階を追って助言できる。そして,その流れのなかで,緩和ケアの導入を検討する。 非がん疾患の緩和ケアは,がんの緩和ケアとは考え方が大きく異なる。がんの緩和ケアでは,がんに対する直接的な治療は徐々に減らし,緩和ケアの比重を高めていく方法が一般的である。非がん疾患,とくに臓器不全では,疾患に対する直接的な治療がそのまま緩和ケアにつながる。▶対象疾患▶がんと異なる点医療者を志すあなたへ④訪問看護の思い出 新人看護師のYさんが看護学生だったころ,とある農村の病院の夏季インターンに参加した。訪問看護師のFさんに同行させてもらい,高級なペンションが集まる高台の避暑地に向かった。最初の訪問先は,彫金の芸術家R氏(50歳・男性)が過ごすペンションであった。R氏は進行した食道がんの患者であり,余命いくばくもない。訪問時間は30分と決められている。その後も何軒も訪問先があり,早くまわらないとノルマを達成できない。 訪問看護師のFさんは,15分で病状確認,病変部のケアをすませた。R氏は,自作の彫金製マグカップにかおり高いコーヒーを淹いれ,FさんとYさんにふるまった。Fさんはマグカップ片手にゆったりR氏と話をする。病気のことばかりでなく,日々のなにげない話から,彫金の話まで。そうした話がきっとR氏の心のやすらぎにつながるのでは,とアセスメントしたうえでの雑談だったのかもしれない。 患者の病気だけを見るのではなく,患者がたどってきた人生をふまえ,その人の日常をとらえサポートする。Yさんは,訪問看護の奥深さを垣かい間ま見た気がする。彫金製マグカップの手に吸いつくようになじむ肌触りに,R氏の人生そのものが宿っているような気がして,感動をおぼえずにはいられなかった。看護師をはじめとした医療者や患者のすがた,医療の場をイメージしやすいよう,豊富な挿話を取り入れました。87専門基礎分野

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