系統看護学講座
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サンプルページ精神看護学 ❶ 精神看護の基礎 D 精神看護の課題 1 世界的な課題としてのメンタルヘルス 世界保健機関(WHO)によれば,2017年の時点で物質依存も含めたなんらかの精神障害に苦しむ人が世界中に約9億7000万人いるという(▶図1―3)。全世界人口のおよそ8人に1人の割合である。ただし,かつては「精神病」といえば「不治の病」と考えられていたが,近年,統合失調症やうつ病などの多くが軽症化傾向にあることが世界的にみとめられている。入院治療が必要なケースは減少しているのである。 とはいえ,WHOの前事務局長ブルントラントG.H.Brundtlandは,「精神障害者の多くは沈黙したまま,孤独やケアの欠如,スティグマ(社会的烙印),恥,社会的排斥に直面し,しばしば死の最前線にいる」と述べた1)。 実際に,重い精神疾患をもつ患者はそうではない人より死亡年齢が早いことがわかっている。死因は,疾患が直接引きおこすものより,喫煙や飲酒,肥満などの生活習慣が関係するがん・糖尿病・心疾患などが多く,そこには貧困や患者数は多いが軽症化が進む精神障害者は死の最前線に12第1章 精神看護学で学ぶこと0100200300400500(万人)外来患者数入院患者数19992002’05’08’11’14’17(年)34.134.535.333.332.331.330.2170223.9267.5290287.8361.1389.1(厚生労働省:みんなのメンタルヘルス総合サイト〈https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html〉〈参照 2020-10-23〉をもとに作成)204.1258.4302.8323.3320.1392.4419.3▶図1―2 精神疾患を有する総患者数の推移(外来・入院別)1)世界保健機関(WHO)編,中野善達監訳:世界の精神保健精神障害,行動障害への新しい理解.pp.4─5,明石書店,2004. 日本では,精神科の入院期間がきわめて長いことも課題となっている。2011(平成23)年の精神科での平均在院日数1)の国際比較(▶図1―7)を見ても,日本が突出している。しかもこれは退院した患者の平均在院日数なので,何年も入院しつづけている患者を含めると,実際の平均在院日数はこれをはるかに上まわるだろう。 2004(平成16)年,厚労省は「精神保健医療福祉の改革ビジョン」を発表し,社会的入院の患者を退院させることで10年以内に約7万床を削減する計画を公表した。社会的入院とは,病状が改善していながら退院後の受け入れ条件が整わないために入院を続けている状態である。 その後の診療報酬改定で,入院が一定期間をこえると診療報酬を下げるシステムが採用されたため,多くの精神科病院が慢性期病棟を急性期病棟に転換した。その結果,精神病床の平均在院日数は短縮化傾向となり,2019(令和元)年には約266日に減少した(▶図1―8)。ただし,これはおもに新規入院患者の在院期間が短縮したためであり2),1年以上の長期入院患者は依然として20万人近くいる(▶図1―9,18ページ)。 長期入院の背景には,医療制度上の問題がある。ヨーロッパなどでは精神科医療を国や公的機関が担っていることが多いので,政策として病院から地域へ在院日数が格段に長い民間精神科病院の多い日本16第1章 精神看護学で学ぶこと認知症(血管性など)認知症(アルツハイマー病)2002’05’08’11’14’17(年)4035302520151050(厚生労働省:みんなのメンタルヘルス総合サイト〈https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html〉 〈参照2020-10-23〉による)てんかん0.71.21.820.31.95.40.62.61.31.719.92.95.42.80.70.51.41.418.73.34.42.90.70.51.51.317.44.13.92.90.70.61.51.416.64.73.02.90.70.61.61.315.44.92.83.00.70.6(万人)34.533.335.332.331.330.2統合失調症,統合失調症型障害および妄想性障害気分[感情]障害(躁うつ病を含む)神経症性障害,ストレス関連障害および身体表現性障害精神作用物質使用による精神および行動の障害その他の精神および行動の障害▶図1―6 精神疾患を有する入院患者数の推移(疾病別内訳)1)平均在院日数の計算の仕方は複雑である。巻末「資料2」(▶375ページ)を参照のこと。2)新規入院患者の約9割が1年以内に退院している。 A 精神の健康とは 精神が健康であるとは,いったいどういう状態なのだろうか。悩みがまったくなく,すべてに満足した状態のことだろうか。 それでは,次の場合はどうだろう(▶図2―1)。・ニキビに悩んだり体重を気にしたりする。・試験勉強をしなければと思えば思うほど,なにか別のことを思いついてやってしまったり,寝てしまったりして,いつも後悔してばかりいる。・あこがれの先輩の前で心臓がドキドキして顔が真っ赤になってしまう。・出かけようとして,鍵をちゃんとかけたか,アイロンのスイッチは切ったかと,気になってしかたがない。・クラスの友だちの輪に入ろうと近寄ったら,急に会話がやんだ。私の悪口を悩みをもつことは不健康?24第2章 精神保健の考え方本章で学ぶこと■精神の健康・不健康とはなにか,「正常」と「異常」をはかるものさしとなっている「ふつう」というものさしについて考える。■精神の健康や障害の3側面を理解する。■精神の健康の定義を学ぶ。■精神障害を説明するさまざまなモデルと,発生のメカニズム,予防と回復への視点を学ぶ。▶図2―1 こんなふうに思うのって変? また,欧米では精神科病院に入院している患者は少ないのに,日本ではいまだにおおぜいが精神科病院の,しかも鍵のかかった閉鎖病棟に長期間入院しているという事実がある。明らかに精神障害の問題には,生物学や心理学だけではかたづかない,社会学的側面があるのだ。 つまり精神の健康や障害には,生物学的側面,心理学的側面,社会学的側面の3つの次元があり(▶図2―2),回復やケアにもこの3つの次元がからむ。 4 精神の健康の基準 精神に限らず,健康を定義するのは簡単ではない。1948年に制定されたWHO憲章の前文には,有名な次の一節がある。 健康とは,身体的,精神的ならびに社会的に完全に良好な状態であり,単に病気や虚弱でないことにとどまらない。到達しうる最高レベルの健康を享受することは,人種,宗教,政治的信念,社会・経済的条件のいかんにかかわらず,すべての人類の基本的権利の1つである。 なお,「良好な状態」は,原文ではstate of well-beingと表記される。 WHOは精神の健康についても,どの社会にも通用する一般的な定義はむずかしいとしたうえで,健康の定義にならって,「ただ精神疾患ではないことをいうのではない」とし,次のように定義している。 すべての個人が自分の能力を知り,生きていくうえでのふつうのストレスに対処でき,生産的で実りある仕事ができ,そして自分のコミュニティに貢献することができる良好な状態。 1999(平成11)年のWHO総会において,この定義の最後の部分を「身体的,生物学的・心理学的・社会学的側面がある「健康」は「病気でない」ことではない精神の健康の定義27A.精神の健康とは生物学的側面心理学的側面社会学的側面▶図2―2 精神障害の3つの側面人間の心とはなにか、なぜ心の病がおこるのかがよくわかる!びであり,空想なのである。ユーモアもこの遊戯性に根源があるとエリクソンはいう。 6 アイデンティティを求めるたたかいとモラトリアム アイデンティティは固定したものではない。誕生後,名づけられるとき,親の「どのような人になってほしいか」というイメージが付与され,アイデンティティの最初の輪郭が与えられる。さらに「お姉ちゃんだから」「ひとりっ子だから」「しっかり者」「甘えん坊」といった言葉や家族からの扱いによって,徐々にアイデンティティの核となる「私」という感覚が育っていく。 学童期になると,家族以外に特別の「仲よし」ができる。さらに,性的な成長とともに思春期が近づくと,親に対する反抗心がめばえる一方で,共通の趣味や考え方などによって結びついた仲間(チャム)集団を求めるようになる。そ「私」の輪郭がはっきりしてくる集団同一性から個人の同一性が育ってくる100第3章 心のはたらきと人格の形成統合対絶望・嫌悪《英知》生殖性対停滞《世話》親密性対孤立《愛》勤勉性対劣等感《適格》自主性対罪悪感《目的》自律性対恥・疑惑《意志》基本的信頼対基本的不信《希望》同一性対同一性混乱《忠誠》乳児期口唇期幼児期初期肛門期遊戯期男根期学童期潜伏期青年期前成人期性器期性器期(思春期)成人期ー老年期ー発達段階同調傾向対失調傾向の藤と《徳》※※おおむね対応する精神力動理論における自我の発達段階をあらわす。▶図3―11 エリクソンによる漸成的発達図式ぎるそうだ。彼女のように早期から適切な支援が得られて,言葉や人との付き合い方を学ぶことができれば,その刺激になんとか対処できるようになり,社会的成功も可能なのである1)(▶Column 「テンプル=グランディン」)。 ASDをもつ人のなかには通常教育を受けている人も多いが,友だち付き合いが苦手で,いじめやからかいにあうなどして,人への警戒心や不信感が植え込まれてしまい,それがさらに生きにくさを増強している例も少なくない。日本では,2005(平成17)年に「発達障害者支援法」が施行され,広汎性発達障法的な支援73A.心のはたらき( ウタ・フリス著,富田真紀ほか訳:新訂 自閉症の謎を解き明かす,東京書籍,2009による,一部改変)サリーです。カゴを持っています。アンです。箱を持っています。そして,外へ出かけました。アンは,サリーがいない間にボールを自分の箱に移しました。さて,サリーがボールを探すのは,カゴと箱のどちらでしょうか?サリーはボールを自分のカゴの中に入れました。▶図3―3 サリーとアンの課題1)テンプル・グランディン,リチャード・パネク著,中尾ゆかり訳:自閉症の脳を読み解く─どのように考え,感じているのか.NHK出版,2014.精神症状・精神疾患・関係法規や制度など、精神看護に欠かせない基礎知識を網羅。63専門分野

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