医学界新聞

対談・座談会

2017.12.04



【座談会】

ライトの基準はこうして創られた
研修医・指導医に向けたレッスン
皿谷 健氏(杏林大学医学部付属病院 呼吸器内科講師)
リチャード W. ライト氏(米国ヴァンダービルト大学医学部教授)
青木 眞氏(感染症コンサルタント)


 胸水の滲出性/漏出性の鑑別に使われる,Light’s criteria(ライトの基準)。40年以上前,この診断基準を生み出したライト氏は,当時まだ研修医だった。

 若き研修医がなぜ,後に世界中で使われることになる診断基準を生み出すことができたのだろうか。本紙では,今なお現役で活躍するライト氏を招き,氏を「胸水診断の神様」と慕う皿谷氏,米国感染症専門医で,かつて皿谷氏の指導医であった青木氏との座談会を企画。ライトの基準を生んだ原動力や日本の研修医・指導医への教訓を聞いた。


皿谷 胸水の原因疾患を特定する上で,滲出性/漏出性の鑑別はとても重要な最初のステップです。「ライトの基準」は感度の高い診断基準として知られており(),多くの病院で日常的に使われています。

表1 ライトの基準(N Engl J Med. 2002[PMID:12075059]より)

 このライトの基準はあまりにも有名なので,ライト先生はすでに亡くなった偉人であると勘違いしている人が多いと思います。呼吸器内科医の私ですらそうでした。

 私は2007年にストックホルムで行われたヨーロッパ呼吸器学会でライト先生の講義を受け,ライト先生がご存命だと知りました。5年ほど前にメールで連絡をとり,以来,何本か共著論文を書くなどお世話になってきました。今日はあらためて,ライトの基準ができるまでの裏話や日本の研修医・指導医への教訓を,青木先生と一緒に聞いていきたいと思います。

「ライトの基準」誕生の瞬間

青木 ライト先生がメディカル・スクールを卒業されたのは1968年。その4年後の1972年にはライトの基準に関する最初の論文(Ann Intern Med. 1972[PMID:4642731])を発表されました。長年使い続けられている診断基準を生み出したのが,まだ若い研修医だったとは驚きです。ライト先生,胸水の研究をしようと思ったのはなぜでしょう。

ライト 1968年,ジョンズ・ホプキンス病院でのインターン(研修医1年目)で,胸水疾患に多く出合ったのがきっかけでした。私は深夜の病棟回診で,チーフレジデントに胸水の性状について常に聞かれていました。胸水穿刺をしていろいろな検査値をとっていましたが,当時,検査の意味することをきちんと知っている人は誰もいませんでした。

青木 それなら自分で調べてみよう,と思ったのですね。

ライト はい。ちょうど,血清LDHなどの酵素量や血液ガス測定ができるようになった頃でした。私は,こうした新しい血液検査の項目を胸水の診断に利用できないかと考え,研究に取り組み始めました。

皿谷 どのように研究を進めたのですか。

ライト まず,文献を基に2つの仮説を立てました。1つは結核性胸水のpHは低いのではないかということ,もう1つはLDHアイソザイム量の測定が胸水の鑑別に有用なのではないかということです。私はジョンズ・ホプキンス大からささやかな研究費を得て,これらの仮説を検証するための研究を始めました。

青木 データを集めるのは大変だったでしょう。

ライト 同僚の研修医たちに,「胸水の患者がきたら私に連絡してくれ」と頼んでいました。時には真夜中に連絡が来ることもありましたね。

皿谷 周囲を巻き込むことは研究を進める上で大切なことです。結果は出ましたか。

ライト 1つ目の仮説は正しいことがすぐに示せました。2つ目はなかなかうまくいかず,予備的な結果で米国胸部学会に要旨を送りましたが,リジェクトされてしまいました。とてもがっかりしましたが,諦めずにデータを集め続け,2年間で150人以上の胸水を調べました。

青木 すごい忍耐力だと思います。ライトの基準が生まれるには,何か転機があったのでしょうか。

ライト 1971年,ジョンズ・ホプキンス大で同窓生が集まる発表会がありました。その直前,メンターから「君はこんなにたくさんの胸水を調べたんだから,何か発表したらどうだい?」と言われたのが転機でした。その言葉をきっかけに,これまでに集めたデータを再検証したのです。

青木 メンターに後押しされたと。

ライト その日は急いで帰宅して,数時間机に向かい続けました。みぞれ混じりの雨が降る日だったのを今でも覚えています。

 当時,胸水の滲出性/漏出性の判定基準としてタンパク質量が使われていました。それをヒントに私は,血清と胸水のタンパク質とLDHの量や比率のデータをグラフ用紙にプロットして,試行錯誤しました。そしてついに,滲出性胸水を高感度で判定するための基準を見つけたんです。

皿谷 「ライトの基準」誕生の瞬間ですね!

ライト 最初は特に名前は付いていませんでしたし,大きな反響もありませんでした。1972年には米国内科学会で発表したり論文を書いたりしましたが,その評価も平均点といったところ。“Light’s criteria”として引用されたのは,1989年が初めてだと思います(South Med J. 1989[PMID:2595416])。

青木 先生が最初に論文を書かれてから,17年もたっています。

ライト さまざまな診断基準と私の基準の比較検討がなされ,結局私のものが高感度だということになりました。

皿谷 定着までにはさらに忍耐が必要だったのですね。

ライト その通りです。まあ自分では,この話の一番の教訓は“better to be lucky than to be smart(賢いより幸運なほうがよい)”だと思っています。あの日のメンターの言葉がなかったら,せっかく集めたデータはお蔵入りしていたかもしれません。

問いを立てる,シンプルに考える

青木 ライトの基準を生む出発点は臨床で抱いた疑問でした。私を含めて,忍耐強さはあっても「問いを立てること」は苦手という人は多いように思います。

ライト 私にとってはごく自然なことでしたよ。大学で基礎医学を学んでいる頃から,知識を頭に入れるだけではなく,なぜそれが起きるのか,なぜこの方法なのかということをいつも考えるよう教えられていましたから。

青木 そうした姿勢は研究でも臨床でも非常に役立ちます。基礎教育のうちから染み付いていたのは素晴らしいですね。

皿谷 私がライト先生と一緒にお仕事をするなかで印象的だったのは,いつも「物事をシンプルに考えるように」とおっしゃっていたことです。

ライト 話をするときはなるべく簡潔に,と心掛けています。論文を書くときも,構造はできるだけ単純に。各段落の最初の文を読めば,その段落で言いたいことが大体把握できるように書きます。

皿谷 ライトの基準が今なお使い続けられているのは,そのシンプルさも一因だと思います。多くのデータの中から,シンプルな法則を見つけ出すのは難しいことではなかったですか。

ライト 私はメディカル・スクールに入る前,工学部でコンピュータプログラミングなどを学び,工業数学の学士号を取りました。自分で統計計算ができたので,多くのデータを前にしてもシンプルに考えられたのだと思います。

皿谷 なるほど。でも,なぜ工学部に?

ライト 医師になるのは小さい頃からの夢でした。16歳のとき,進路を考える適性検査があったのですが,ちょうどその前に手にひどいけがをしていまして。しばらくギプスで固定していたせいか,器用さを調べる実技テストが全然うまくできなくてね……。検査官に「君は医師にはなれないね」と言われてしまいました。

 それでいったんは工学系に進路を変えたのですが,やっぱり医師になりたくて,最終的には医学の道に進みました。

青木 数学が得意な医師は日本に比べると米国では珍しい印象がありますね。

ライト 工学部での学びから私は数学や統計という強みを持つことができました。呼吸器内科に進んだのも,肺活量測定のフローボリューム曲線など,数学が役立つことが比較的多いと考えたからです。この回り道なくしてライトの基準はなかったかもしれません。

後進の育成に尽力,まだやるべきことがある

皿谷 ライトの基準を生み出した後,先生は胸膜疾患の研究に励まれました。名著,『Pleural Diseases』(LWW)は第6版まで版を重ね,世界中で愛読されています。後進の育成にも熱心に取り組んでこられました。

ライト これまでにたくさんの外国人研究者の指導を受け持って,一緒に研究に取り組んできました。スペイン,ブラジル,ギリシャ,エジプトなど,さまざまな国から私の研究部門にやってきて研究や論文執筆を学び,母国に帰っていきました。

 ゲイリー・リーという,今はオーストラリアのパースで教授をしている彼もその一人。私のもとで2年間研究員をしていました。

皿谷 リー先生は世界的に有名な方です。

ライト 今では胸膜疾患の分野で3本の指に入るような研究者として活躍しています。当時,彼はとてもたくさんの論文を書いた。彼と研究できたのは私にとっても素晴らしい経験でした。

青木 ライト先生は今でも教育にかかわっているのですか。

ライト 歳をとって脚も悪くなりましたが,今でも毎週の研究会議に参加しますし,臨床実習の指導も行っています。

皿谷 臨床実習の指導はどのように行っていますか。

ライト ベッドサイドでの指導はごく短い時間しか行いません。患者の前で医学生にいろいろ指導するのは好きではないからです。質問は持って帰ってもらい,後で丁寧に教えます。

青木 それは私も同感です。ベッドサイドで時間をかけすぎることは,患者や看護スタッフの負担にもなります。ベッドサイドに行く前に,何を診るのか・話すのかを事前に決めておき,最小限,必要な時間だけを費やすようにしています。

ライト ベッドサイドでの指導は,患者を疾患ではなく人として扱うためのやりとりを示すことに専念するのが良いですね。最新の知識はもう私の教えるべきことではないですが,患者との交流の仕方など,伝えなければならないことがまだたくさんあると思っています。

幸せな医師になりなさい

皿谷 ライトの基準の誕生秘話や先生のお人柄からは,日本の私たちも学ぶべきところが多くありました。ライト先生,日本の研修医に伝えたいことはありますか。

ライト 皆さん自身が幸せな人になるということです。そのためにはお金を稼げる所ではなく,自分の好きなことに向かって進むと良いでしょう。仕事上のことだけでなく,良きパートナーと出会い,一緒に過ごすことも含めてね。

青木 大切なことですね。人生を楽しんでいる医師こそが患者の人生に興味を持てるのです。

ライト その通り。仕事だけに夢中になる必要はないと思います。むしろ,他にも熱中できるものがないと,疲れて燃え尽きてしまう。

皿谷 仕事以外で好きなことは何ですか。

ライト 旅行です。講演に呼ばれることも多いですが,妻と数多くの国を旅しました。今回の来日もそうですが,現地の人々と出会い,現地の食を楽しむ。そういったことが私の財産となっています。

 幸せな人はより生産的になり,周りも幸せにします。それは良い医師になるために,とても重要なことだと思います。

■座談会を終えて

ティアニー先生や日野原先生にも通じる姿

 皿谷先生とのご縁で,著名なライト先生とお会いする機会が与えられました。

 ライト先生は,ご自身が優れた臨床医・研究者であるだけでなく,学生・研修医教育にも熱心な方です。何より,ベッドサイドで真っ先に患者との信頼関係を築くことの重要性を説くお姿に,本紙にもたびたび登場するローレンス・ティアニー先生(カリフォルニア大サンフランシスコ校)や故・日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長)との共通点を感じました。

 米国においても失われつつある,良い意味でのOld schoolに触れる機会を与えてくださった関係の皆さま,特に皿谷先生に心から感謝する次第です。

(青木氏)

旺盛な好奇心が原動力

 私の研修医時代からの恩師である青木先生,胸水関連のメンターであるライト先生との3人での座談会ができるとは,10年前には思いもしないことでした。

 今回ライト先生が来日されていた9日間,ずっとご一緒させていただきましたが,注目すべきはその旺盛な好奇心です。リクエストがありお連れした築地の場外市場,スーパーマーケットの食材売り場,おいしい日本酒が飲める日本料理屋,日本庭園,どの場面でも興味を持って質問する“旺盛な好奇心”がまさにライトの基準を生んだ原動力だと感じました。電車の中では論文や本を読んだり日記を書いたりと疲れを知らず,アメリカンフットボールの元コロラド州代表選手だったタフさを感じました。

 これまで訪れた56か国でそうであったように,異文化をなんでも受け入れる寛容さと誰とでも気さくに会話するお人柄は,強烈な印象をわれわれに残しました。

(皿谷氏)

(了)


Richard W. Light氏
1964年米コロラド大ボルダー校工学部,68年にジョンズ・ホプキンス大医学部を卒業。70年にジョンズ・ホプキンス病院内科臨床研修を,72年に呼吸器内科専門研修を修了後,沖縄県立中部病院の臨床研修プログラムにハワイ大の派遣医師として参加。沖縄返還の時期を現地で過ごした。その後,ルイジアナ州立大,カリフォルニア大アーバイン校,ヴァンダービルト大などで胸膜疾患を中心に研究。これまでに発表した論文は400本以上,50か国以上で講演を行ってきた。著書に『Pleural Diseases(第6版)』(LWW),『Textbook of Pleural Diseases(第3版)』(CRC Press)がある。

あおき・まこと氏
1979年弘前大医学部卒。沖縄県立中部病院,米ケンタッキー大などで研修。2000年より現職。

さらや・たけし氏
1998年順大医学部卒。都立広尾病院,都立駒込病院で研修。杏林大第一内科を経て2014年より現職。

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