医学界新聞

連載

2017.09.25



行動経済学×医療

なぜ私たちの意思決定は不合理なのか?
患者の意思決定や行動変容の支援に困難を感じる医療者は少なくない。
本連載では,問題解決のヒントとして,患者の思考の枠組みを行動経済学の視点から紹介する。

[第2回]損失回避 治療をやめる意思決定は難しい

平井 啓(大阪大学大学院人間科学研究科准教授)


前回よりつづく

「わずかな確率でも,可能性に賭けたい」

 これ以上は積極的治療を続けても効果が見込めないと思われる患者さんに,今後を考えて積極的治療の中止を提案することとなった。

主治医 Aさん,大変残念なお知らせなのですが,抗がん剤がうまく効いていないようです。
看護師 薬の副作用はつらくないですか? このまま抗がん剤を続けて副作用に苦しむより,残された時間を有意義に使えるようQOLの維持を優先したほうがいいかもしれません。
患者 1%の確率でも効く可能性のある治療に賭けたいです。何か他の治療法はないのでしょうか? ここではもうこれ以上の治療はできないのなら,別の病院を探します。

 説得を続けたが,結局その後も積極的治療を継続することになった。さらに後日,高額な民間療法にも挑戦し始めたと知らされた。

 このような事例,あるいは,積極的治療をなかなかやめることができず,ギリギリまで治療を継続し,全身状態が悪化してから緩和ケアチームや緩和ケア病棟に紹介されてくるような事例は多いと思われます。

 患者さんが「やめる」意思決定をしにくい背景には,行動経済学で「損失回避」と呼ばれる現象があります1)

1万円得るうれしさと1万円失う悲しさは同じか?

 損失回避は,行動経済学を体系化した認知心理学者のKahneman & Tverskyのプロスペクト理論2)の中心となる概念です()。

 プロスペクト理論による利得と損失に感じる価値の大きさの違い

 自分にとって得になる状況(利得状況)の場合,例えば「コインを投げて表が出たら2万円もらい,裏が出たら何ももらえない」という選択肢と「確実に1万円もらう」という選択肢を比較して,どちらを選ぶでしょうか? 第1回(第3237号)で述べたような,「完全な合理性」を持った人であれば,図の点線に従って判断を行います。つまり,どちらを選んでも同じだと判断します。しかし実際には,多くの人は「確実に1万円もらう」を選択するでしょう。

 これに対して,その選択によって自分に損失が発生する状況(損失状況)の場合,例えば「コインを投げて表が出たら2万円支払い,裏が出たら何も支払わない」という選択肢と「確実に1万円支払う」という選択肢を比較した場合,多くの人は,「確実に1万円支払う」は選択しないでしょう。

 これは,「合理的でない」われわれは図のSカーブ線のような価値判断を行っているからです(個人差は存在しますが)。参照点(reference point),つまり現状を基準に,❶「確実に1万円得る」選択に感じるプラスの価値(うれしさ)は,❷「50%の確率で0円か2万円を得る」選択に感じるプラスの価値よりも大きいです。これに対して,❸「確実に1万円失う」選択に感じるマイナスの価値(悲しさ)は,❹「50%の確率で0円か2万円を失う」選択に感じるマイナスの価値に比べてかなり大きいです。さらに❶「確実に1万円得る」選択に感じるプラスの価値の大きさに比べて,❸「確実に1万円失う」選択に感じるマイナスの価値の大きさは,約2.5倍大きいという特性があります。

損失状況では,現状維持の可能性に賭ける心理が働く

 先ほどの例に当てはめてみると,患者にとっての参照点は,現状維持,すなわち「生き続けること」です。これを基準として,選択肢の価値を比較します。

 積極的治療をやめることで得られる,「QOLを維持し,残された時間を有意義に使うこと」は,患者にとっての利得(❶)です。しかし一方で,積極的治療をやめることで,「生き続けることはできない」という損失(❸)が確定します。この利得と損失を比べると,「QOLを維持し,残された時間を有意義に使うこと」と「生き続けることができないこと」がその人にとって同じ利得・損失の大きさだと仮定しても,マイナスのほうがその価値は大きく感じられます。

 さらに,「積極的治療を続けても99%効果がないかもしれないが,現状を維持できる可能性が1%ある」という選択肢(❹)と,「積極的治療をやめることで確実に効果がなくなる」という選択肢(❸)を比較すると,たとえ効果がある確率が極めて低いとしても,現状維持の可能性を含む選択肢(❹)のほうがマイナスは小さく感じられます。

 こうしたリスク愛好的な価値判断が無意識下で行われる結果,患者さんは損失の確定を避けたいと感じ,「積極的治療に賭ける選択」をしてしまうのです。

損失回避的であることを認識したコミュニケーション

 このような状況で医療者が患者とのコミュニケーションにおいて気を付けるべきことは,2つあります。

 1つは,損失状況に置かれた患者さんは,損失を回避したいという心境から合理的に判断できない状況にあると,共感的に理解することです。特に,患者にとって「治療をやめる」という意思決定をすぐに行うのは難しいということはコミュニケーションの前提にします。

 2つ目は,患者と医療者では価値判断のために置かれた状況に大きなギャップがあると認識することです。自らに関する意思決定ではないので,患者に比べて医療者は,利得状況であっても,損失状況であっても,比較的合理的な価値判断を行うことができます。一方で,患者は医療者と同じような合理的な価値判断はできません。

 重要なのは,患者さんは自分の置かれた状況を「損失状況」として考えがちだということです。図からもわかるように,人は利得状況(❶と❷の比較)ではより確実なほうを選択しますが,損失状況(❸と❹の比較)では確率が低くても現状維持の可能性に挑戦しがちです。患者さんが利得状況として考えられるように,医療者は意識して働き掛ける必要があります。患者さんがどのような価値を得ることができるかについて時間をかけて話し合い,利得状況での判断に導くことが,このような状況でのコミュニケーションの大きな方向性になると考えます。

 このための具体的なコミュニケーションの方法としては,フレーミング効果やナッジといった概念を活用できます。これらについては次回以降で解説します。

今回のポイント

●1万円を得るときの“うれしさ”と1万円を失うときの“悲しさ”を比べると,“悲しさ”のほうが約2.5倍大きい。
●患者は「損失状況」として物事を判断する可能性が高い。
●「損失状況」では,現状維持(損失ゼロ)の可能性が残る選択をしがち(リスク愛好的)である。
●患者がリスク愛好的であることを共感的に理解し,利得状況として考えられるように,意識して働き掛ける必要がある。

つづく

参考文献
1)平井啓.意思決定支援と行動経済学.終末期の意思決定――アドバンス・ケア・プランニングの実践をめざして.Modern Physician.2016;36 (8):881-5.
2)Kahneman D,et al.Prospect Theory:An Analysis of Decision under Risk.Econometrica. 1979;47 (2):263-92.

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