医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その7
  サトリ,サトラレ,サトラサレ!?(3)の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2564号よりつづく

「嘘つき」は痴呆ケアのはじまり!?

 サトラレ。口に出さなくとも思ったことが思念波となって周囲に伝わり,知られるのが恥ずかしいことまでもが筒抜けになってしまう“謎の奇病(能力?)”を持つ「サトラレ」という人たちの物話を再び使いながら話を続けたいと思います。
 「サトラレ」の周囲の人たちは,自分がそういう病気であることに「サトラレ」が気づかないように,常日頃からたいへんな気くばりを求められるということを書きましたが,その様子は,痴呆ケアの場面とよく似ています。例えば,あるグループホーム(仮に△△の家と称しておきましょう)では,入居者の方の「徘徊」を「日課としての自然な外歩き」としてスタッフは受けとめていました。「徘徊」があっても,外で偶然バッタリ出会った「フリ」をして「○○さん,偶然ですねえ。今から△△の家に戻るんですけど一緒に行きませんか」と誘うといったことを行なっていたのです。
 これは,その人の行動を「痴呆症状」ではなく,その人の日課として捉えるよいケアなのかもしれません。しかし一方で,これって人をだますことじゃないの? と思う人もいるでしょう。
 僕らは幼少の頃から,親や学校の先生から「嘘をついたら地獄でエンマ様に舌を抜かれる」といった形で,人に「嘘をつくこと」「だますこと」は,悪いこと,人の道を踏み外すこととして教えられてきた経験があるかと思います。しかし人は経験の中で,自分を守るために,また相手のためによかれと思ってつく嘘やだましやごまかしを覚え,「嘘をつくこと」「だますこと」は決して悪いことばかりでもないと学んでいきます。ただ,それでもやはり,相手に嘘をついたりだましたりした時には,「自分は悪いことをしたんじゃないだろうか」と後悔することもあります。親や学校の先生から「嘘をついてはいけない」と刷り込まれたことが,烙印のように心をしめつけるのかもしれません。
 痴呆ケアで,いわゆる「嘘」をつき「だます」ことが時に功を奏すことがあるのはなぜでしょうか。また,ケアにともなって「嘘」をつくことで,自己欺瞞におちいるのか,あるいはおちいったりしないのでしょうか。これまであまり深く突っ込んで考えられてこなかったような気がします。看護職の皆さんも,ケアのために嘘をついたりだましたり(ガンなのに胃潰瘍だといったり)したことがあるかと思いますが,そのあたり,どう折りあいをつけてやってらっしゃるのでしょうか。「嘘つきはどろぼうのはじまり」ならぬ,「嘘つきは痴呆ケアのはじまり」なのかどうかについて,考えてみたいと思います。

「三階に行かせてーな」でヘトヘト事件

 痴呆とされる人たちにかかわっていると,気配りとしての嘘も万能ではない,という思いも僕の心の中で湧き上がります。連載第2回(2548号)でも紹介した,「家に帰りたいけどお金がない」と訴えたBさんの場合もそうです。僕が「お金は私がお預かりしています。今日はここでお泊まりになってください」と言ったところ,「銭湯に行って番台さんにお金を預けた(のであんたにはお金を渡してない)」と言い返された,そんな出来事でした。このやりとり(の失敗?)は,相手に配慮してついた嘘とはいえ,安易についた僕の嘘が相手に見透かされた例といえるでしょう。
 また,以下のフィールドノートは,今から7年前,ある特養でボランティアをしていた頃のことです。あき子さん(仮名)という女性の入居者が,イスを自動ロックのところに持っていて,カギを開けようとしきりにボタンを押していました。この特養では勝手に外に出て行けないように,割合高いところに電子式自動ロックのカギがあり,そのカギの番号は職員や僕のようなボランティアしか知らされていませんでした。

 私「どうしたんですか」,あき子さん「3階へ,洗い場へ行かなあかん」。この特養は2階までしかない。彼女は昔,病院で働いていたと以前に聞いたことがあったので,私は「病院の従業員の1人になりきる」ことにした。
 私「もうそろそろ,ご飯にしますで。それ食べてから,片づけましょう」。あき子さん「だけど,もう4時や。めしはここにおいといて,先に洗い場にいかせてーな」。私「ほんなら,私が3階に行って洗っときましょ。あき子さんは,ゆっくり夕ご飯食べといてください」。
 こうしたやりとりを何回かくり返した後,これで落ち着いたかと思いイスを元に戻す。しかしこの時の私は,彼女とのやりとりに根気がきれ,疲れ果てて自分勝手に「落ち着かれた」と思い込むことにした,そう自分に言い聞かせることにした,と言う方が正確だ。
 しばらくして,またしてもあき子さんはイスを自動ロックのところに持っていき,自動ロックを開けようとしきりにボタンを押している。

 こうした僕の“失敗例”は,僕たちが,その場しのぎのおざなりな「ご都合主義」的あるいは「自己満足」的なごまかしやとりつくろいのもとで,痴呆とされる人を「何を言ってもわからない」として見切ってしまっていたのではないか,と思い起こされるのです。

ウソつき痴呆ケアも万能ではない!?

 また,以下のフィールドノートも,僕が今から7年前,ある特養でボランティアをしていた頃に書いたものです。

 夕食後,カナエさん(仮名)が落ち着きをなくしている様子。カナエさん「今日,家族と一緒に来たんですけど。家族の人が見あたらないもので。ここで1人でいるから,不安でしょうがないんです。一階の方にいるのかしら」。私「今日はここでお泊まりですよ。明日,家族の方と連絡を取り持っておきましょう」。カナエさん「そうなんですか」。まだ不安そうだ。
 しばらく話すうちに「今日,あなたはここにお泊まりなんですか。よかったら,一緒にいてくれませんか」と頼まれる。こういう場合,いまだに私はどう答えたらいいのかわからない。しかし,このころは,<いま,ここ>にいる痴呆とされるお年寄りの不安を取り除く方が先決だと思い,「ええ。一緒にいますから。安心してください。朝になれば,ご家族と連絡しておきますから」と言ってしまう。この後,数十分たって私が帰ってしまうなんてことは,とてもじゃないが彼女には言えない。それほど,彼女は悲愴感におそわれた,不安そうな表情をしている。
 私の言葉を聞くと,彼女はやっとホッと安堵したような表情をして微笑む。その微笑んだ表情を見たとたん,私は,「よかった,安心したみたいだ」と晴れやかな気持ちになると同時に,「彼女をだましたことになりはしまいか」という罪悪感で分裂状態に追い込まれる。彼女の安堵の微笑みが「無垢」に見えれば見えるほど,こちらの腹黒さが際立ち,自己嫌悪はますます募る。しかし,そのかたすみでは,「いいことをしたかもしれない」という思いもある。この私の分裂状態。あの時,「僕は立ち去ります。あなたはここで残ってしばらくここで暮らすんです。今だってここで暮らしているんですよ」とホントのことを言っておけばよかったのかもしれない。けれども,そう言えば彼女は落胆するに違いない。そのように私は勝手ながらも推測した。推測した結果とった行動が,このありさまだ。この自分の分裂状態に,胸をかきむしりたい気分におちいる。

 このやりとりは,「一緒にいてくれ」というメッセージに込められたメタメッセージ「不安だ」という感情をまずは緩和,解消すればいいんだ,と捉えればそれですむのかもしれません(「一緒にいますから安心してください」と僕が言ったように)。カナエさんの言葉「一緒にいてくれ」というメッセージ内容そのものに縛られた対応(実際に僕も今日泊まってカナエさんと一緒に一日過ごす,など)は必要はないのかもしれません。
 痴呆とされる人に対するかかわりとしてよく言われるものに,「説得より納得を」というコトバがあります。この時,僕は理屈で説得をはかったわけではありません。しかし,彼女は「納得」したといえるのでしょうか。彼女は微笑んで安堵したので,少なくともその時点では「納得」したと考えてよいのでしょうか。何より僕自身が,彼女と納得したやりとりをできたと思えているのでしょうか。

嘘をつく存在

 頭の中で思っていることがすべて筒抜けである「サトラレ」は,いわば周囲の人たちに「嘘をつくこと」ができない人であるともいえます。例えばある人に心の中で悪意を持っていて,その人には直接ふだんの会話とかでその悪意をおくびにも出さない(つまり,会話では「嘘をついている」)としても,サトラレであるとその悪意までもがそのまま伝わってしまいます。こうして,サトラレという存在は,嘘がつけないことで相手や周囲とトラブルを引き起こすことにもなってしまうのです。
 サトラレとは違って,互いに心の中がそのまま見えるわけでない僕たちは,自分の気持ちを状況に合わせて隠し,人間関係を柔軟に取り持つことができる一方で,嘘や猜疑心からは逃れられない存在であるともいえます。そう考えると,こうした僕たち人間の「嘘をつく」という行為のままならなさ,なまなましさをいつくしみたい,そんな気にもさせられます。こう格好よく言ってしまうと,自己満足的でご都合主義的な,その場しのぎの嘘も許容してしまうのか? ってなってしまいそうですが。

【著者紹介】  ホームヘルパー2級の資格を駆使して,痴呆ケアの現場にかかわりながらフィールドワークを行なう若手社会学者。自称「ボディフィールだー」として,ケア現場で感じた感覚(ボディフィール)を丹念に言葉にしながら,痴呆ケアの実像を探る。