医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その2
自己チューな「共感」の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2545号よりつづく

「痴呆」の人とはやっていけない?

 人とのやりとりやつき合いというのは,二人三脚で歩くのと近いように思います。軽やかに走れるくらい息が合う場合もあれば,逆に息が合わず足がもつれて共倒れしてしまう場合もあるでしょう。
 「痴呆」とされる人とつきあいはじめた当初,僕はともに歩けずにズッコケてばかりいました。かれらとコミュニケーションがとれないことに,戸惑い,うろたえ,いらだち,時には相手に怒りさえ覚えました。そして僕は,そんなふうにズッコケるのは相手である「痴呆」とされる人の歩みがオカシイからであり,「『痴呆』の人はなんでともに歩くのが下手なんだろー」と思っていました。
 しかし一方,「ボディフィールだー」である僕には「“なんでだろー”と思ってしまうのは“なんでだろー”」と考えてしまう癖がついています。そのように振る舞う自分の身体の感触を見つめ直さざるをえなくなってくるのです。
 僕はまず,「自分は『痴呆』とされる人のことがわかっていないのではないだろうか,『痴呆』に関する知識や理解が足りないのでは」と考えました。そこで「痴呆」に関する本を読み,介護施設のスタッフのかかわり方を見てその技法を盗むようになりました。でもそうしてしばらく痴呆ケアの現場にいるうちに,必要なことはそんなことばかりでもないなあ,と考えるようになったのです。

「家に帰りたいが,お金がない」

 ある特養の痴呆専用ルームでボランティアをしていた頃のことです。Bさんという入居者の方が僕の脇に寄ってきて,「家に帰りたいが,お金がない」とこぼしました。僕は「今日はここにお泊まりになってください。お金も私がお預かりしていますから安心してください」と応えました。
 これは介護施設のスタッフがやっていることを見よう見まねで覚えた対応です。こうすれば,少なくともその時,その場限りであってもいったんは落ち着かれるようなのです。ところがBさんは,何度そう伝えても,繰り返し「家に帰りたいが,お金がない」と訴えます。あまりにも何度も訴えてくるので,僕も根負けして,よくよくじっくりと話を聞いてみたところ,僕の受け答えがいかに不十分であったかということに気づかされました。
 Bさんは,「(銭湯の)番台にお金を預けたのだけれど,どこの番台さんだったか(すなわちどこの銭湯だったか)わからなくなった」というではありませんか。「おかげで,お土産とかの買い物もすませられないし,電車に乗って帰れなくなってしまった」と話されました。
 これを聞いてはじめて,「お金も私がお預かりしていますよ」なんていう僕の声かけに彼女が耳を貸すわけはないことに気づかされました。つまり,お金は「番頭さん」に預けていたのであって,目の前の「僕」に預けていたわけではないわけです。Bさんには,そのことはよーくわかっていた。だから,僕の受け答えに聞く耳を持たずに,「家に帰りたいがお金がない」と繰り返していたのでしょう。

自己チューな「共感」

 「痴呆」とされる人の中には「家に帰らなければ」と口にする人が少なくありません。こうした場合,ケアする側の現実を押しつけずに「痴呆」とされる人の言動を共感的に受け容れよう,という方法論が近年,看護界を中心に浸透してきています。そういう意味では,先に述べた僕の応対も,そうした「共感と受容」に即したケア技法であったといえるでしょう。
 では,そうした「共感」的な方法がこのときうまくいかなかったのはなぜなのか。もちろん,裏目に出てしまったということなのかもしれません。でも僕は,この事例から見えてくる問題は,単に「裏目に出た」ということにはとどまらないように思うのです。
 「今日はここにお泊まりになってください。お金も私がお預かりしていますから安心してください」と僕が言ってしまったのは“なんでだろー”と,いわば自分自身の振る舞いについて「自己研究」してみると,次のようなことに気がつきます。僕はBさんとやりとりしていて,僕の言うことが通じてないなあ,わかってくれてないなあ,と感じていましたが,一方のBさん自身も,僕とのやりとりに対して通じ合えてない,わかり合えてないと感じていたのではないか,ということです。

他者初発の,他者による修復

 日常の会話場面でも,お互いに通じ合えなさ,わかり合えなさを感じていると,「他者初発の,他者による修復」になりやすい傾向があるといいます。
 「他者初発の,他者による修復」とは,相手が何を伝えようとしているのかよくわからない場合に,聞く側が先回りして代弁しようとしたり,言い直すことです。この「修復」は,本人は相手と協調しようとして行なっているつもりでも,「痴呆」とされる人が話し相手だと,聞く側が一方的に──自己チューに──相手の「コミュニケーションの意図」をつかもうとする対応になってしまいがちです。
 僕の声かけは,一見,共感的・受容的にBさんにとってのリアルな世界に入っているようです。しかし実際のところ,相手の世界にはちゃんと踏み込んでいなかったのでしょう。この事例は,「ちゃんと痴呆のケアをやっていますよ」という僕の自己満足的な行為に対して,Bさんが「理解したつもりになるな」とさとしてくれたものではないかと感じています。

「完璧な理解」なんて,ない

 僕は最近,「痴呆」とされる人のことを完璧に理解できるわきゃあない,と思うようになっています。むしろ,わからなければ「わからない」と思い,そういうゆとりを持つことも必要なのかもしれないと思うのです。なぜなら,誰に対しても,相手のことを完璧にわかってあげられるわけがないのにもかかわらず,「痴呆」とされる人に対しては「完璧に」理解しなければならない,なんてのはどうかと思うからです。