●しりあす・とーく | |||||||
第18回テーマ
アメリカの医師研修から何を学ぶか?(前編)
金城 私は,1994年に東京大学を卒業後,3年間,亀田総合病院で初期研修をしたのですが,その当時,ジェラルド・スタイン先生という医師が亀田総合病院にいまして,「アメリカの研修は絶対にいい」と言われ続けていました。最初は嘘だろうと思っていたのですが,何回か見学に行くにつれて「ほんとうだ」と思うようになって,1997年7月からフィラデルフィアのトーマス・ジェファソン大学病院で内科のレジデントになりました。レジデント修了後も,そのまま米国に残って2000~2003年にニューヨークのマウント・サイナイ医療センターで呼吸器と集中治療のフェローシップを行い,2004年1月から手稲渓仁会病院に入りました。 臨床研修部所属ということですが,臨床では総合内科をやっていて,病棟を中心に研修医と一緒に,総合内科診療をしています。 白井 私は,1997年に京都大学を卒業し,横須賀の米海軍病院でインターンを,福岡の飯塚病院で2年間,救急と内科をあわせた研修をしました。研修をするうちにがん診療をやりたいと思うようになり,国立札幌がんセンターに2年3か月お世話になりました。そうこうするうちにピッツバーグ大学の内科のプログラムに入れることになりました。アメリカでは腫瘍内科のフェローをするためには,総合内科研修から始めないといけないことになっています。どうせ行くならレジデントから教育を受けて,「がん総合医」みたいなものになれたらいいなという青写真を描いてアメリカへ行きました。現在は,サウスカロライナ医科大学でフェローの1年目が終わろうとしているところです。 大曲 私は,1997年に佐賀医大――いまの佐賀大学医学部――を卒業しまして,内科の研修を聖路加国際病院で足かけ5年ぐらいやりまして,そのあと少し時間を経て,2002年1月から,クリニカルフェローとしてテキサス大学ヒューストン校の感染症科に入って2年やりました。2年を終わるのでどうしようかというときに,たまたま静岡がんセンターの仕事があって,もともと日本で感染症を教えたいと思っていましたので,そのまま帰ってきていまに至ります。 アメリカという衝撃![]() そのあと,ハワイ大学へ1か月行って,「やはりアメリカで研修をやりたい」と考えるようになりました。特に日本では,どうしても先生が言うことを静かに聞いて,という授業スタイルだと思うんですが,アメリカでカンファレンスに行くと,「俺に喋らせろ」という感じですよね。ああいうところはすごく新鮮で,アメリカの非常にいいところだと思います。そこから,新しいアイディアが出てきたり,自分では全く考えつかなかったアプローチが隣の人から出てきたりと,そういうことが非常に刺激的でした。「この国の人は,いろんな考え方をするんだなあ」ということを知ったのが,私のいちばんの収穫だったと思います。そして,3年ぐらいアメリカで過ごすと,アメリカという国と文化に,だんだん自分が染まっていくのがわかっていきました。一方で,同僚たちの考え方の中にはどうしても自分には受け入れられないところがあるということも感じるようになり,日本人のアイデンティティを意識することもありました。 アメリカにはすごくいいところがあるけれども,嫌いなところもあるということがわかったわけです。実は自分自身の経験としてはそれがいちばん大きかったです。視野が広がったというのでしょうか。 「これはかなわない」という経験![]() 当時,私の先輩がシアトルに留学されていたものですから,ワシントン大学のクリティカルケア部門でしたが,そこへまず1週間,見学に行ってみたら,金城先生がおっしゃったとおり,「これはかなわないや」と思いました。自分と歳が変わらないのにかなわない。それが納得いかないと思ったんですね。あれだけ必死になって研修したのに……と。これが,1つのきっかけです。 もう1つは,聖路加には古川恵一先生がいらして,彼に出会って感染症を勉強しようと思ったということがあります。いまはだいぶ感染症科の研修プログラムも増えましたが,1998~2000年の頃には,国内で感染症を勉強しようと思っても,なかなかいいリソースがなかったものですから,古川先生とも相談して,よそで勉強しようということになって,たまたま入れたのが,テキサス大学ヒューストン校だったということです。 効率よく,質の高い人材養成システム大曲 私はアメリカへ行くにあたって,もちろん自分自身の力量をあげていくことを考えていたのですが,それだけでなく,日本へ戻ったら人を教えなくては,と漠然とは思っていましたので,どうやって人を育てていくのかということにものすごく興味がありました。実際にアメリカでそれを見ると,2~3年といった,それほど長くない期間に,きちんとカリキュラムを組んで,セレクションをかけていい人を集めて,しっかりそのトラック(track)に載せて育てていくんですね。スタッフにも,それを教えるエネルギーがあるし,時間も確保されていて,人を教えるためのリソースがしっかりしていました。実際,われわれがやる気を出せば出すほど,利用できるリソースもたくさんあるんですね。ときどきチェックを受けて,どうしようもない場合にはピック・アウトされるレジデントやフェローもいましたが,少なくとも私が当時日本で受けた研修よりは,いい悪いは別として,効率よく専門家がつくられていました。そういうプロセスを経験できたというのは,いま私が教える立場になってすごく役に立っています。 日本には感染症科の歴史や伝統みたいなものがほとんどなかったものですから,新しく立ち上げていこうとするとなかなか大変なところがあって,ああいうリソースが潤沢にあるところはいいなあと,正直思います。私なりに得たものというと,そのあたりかなと思います。 金城 システムが非常にしっかりしてますよね。トレーニングはベルトコンベアに似ているところがあって,ベルトコンベアに載るということをいったん許された人は,よほど変なことをしない限り,力がついて,ほとんどの人が認定医を取るし,手技がある科であれば,手技も数多く経験しますよね。 自分が何年後にはどうなるかがわかる![]() 1年目はこう,2年目になったらこうなる,3年目になったら,指導医になったらこうと,自分が何年後にはどうなるかというのが,日本に比べてわかりやすいですよね。例えば私の同級生でも,地方の病院に派遣されて赴任したときに,しばらく入局者がいなかったので,3年連続でいちばん下をやり続けたという話を聞きましたが,アメリカの場合は,1年目が終わったら必ず2年目になりますよね。2年目が終われば3年目になる。毎年必ず立場も役割も変わっていくのです。いまは,日本のシステムも変わったから,アメリカだけのものではないかもしれませんが,当時はそれがすごく魅力的でした。 確かに1年目はシンドイかもしれないけど,その先に2年目が待っている。また上のレジデントと過ごしながら,2年目までにはこうならなくてはいけない,3年目にはインターンや学生を教え,モーニングカンファも仕切らなくてはいけないといったゴールを日々意識することができます。屋根瓦だと常に身近にロールモデルがいるので,「それに追いつけ」と将来担うべき役割のイメージがはっきりつかみやすいのがいいですよね。 大曲 日本にいるときには,ほんとうに不安でしたね。何年やればいいのかな,これでいいのかな,みたいな。 白井 ボード(各種認定医制度)があるからかもしれないですけど,日本に比べて,3年目になったらこのくらいのことを知っていなければならないというのが,わかりやすいですよね。 (つづきは本誌をご覧ください)
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