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●しりあす・とーく

第4回テーマ

内科医とプロフェッショナリズム

(後編)

出席者(発言順)
大生 定義〈司会〉
横浜市立市民病院神経内科部長

金城紀与史
手稲渓仁会病院臨床研修部

野村 英樹
金沢大学医学部附属病院総合診療部助教授

大野 博司
洛和会音羽病院総合診療科


■職能団体の役割

医学会と社会とのコミュニケーション

大生 社会の中での医療ですから,いろいろなところで社会との連携も葛藤もあると思います。いまも,ピアレビューの話が出ましたが,社会との関係を解決していくにあたって,社会が医師側にどのようなことを望むか,あるいは医師側が社会に対して何を望むかということを踏まえながら,どのようなことが必要か,考えていかなくてはならないと思います。

 私自身は,社会に対して学会がもう少し,職能団体としての声明文を出し,私たちはこういうことをやりたいとか,こういうことで困っているというようなことをアピールしていかなければいけないと思っています。ただ,医師の側にも,そういうことに対して腰が引けている面もあることも確かです。先生方のお考えはいかかでしょうか?

金城 非常に難しい問題だと思います。日々の診療は診察室という非常に狭いところで行われ,1対1の勝負という性質がありますから,なかなか社会のなかでの自分の存在というものが見えにくいのです。日本も,DPC(Diagnosis Procedure Combination:診断群分類)に基づく包括払いが導入されつつあり,少し変わってきましたけれども,今までは“fee for service”,やればやるほど儲かって,患者もハッピー,医者もハッピーという関係性の中に医療が存在してきました。つまり,「このPETスキャンやMRIは税金を使ってやっているんだ」という感覚をもたずにやってこられたわけです。DPCが導入されたことで,やっとお金は無尽蔵ではないということがわかってきて,かなり風向きが変わってきたような感じがします。しかし,医師にとって社会のなかの自分の存在が見えにくいのは確かだと思います。

 また,いままで日本医師会は,自民党とつながった政治圧力団体としてしかメディアに取り上げられなかったようなところがあります。どうしても,開業医の利権を保護している団体だというふうな位置づけでしかみられていない。勤務医や,大学病院にいるような人は,「関係ない」「自分は好きな研究さえできればいい」「自分は臨床が好きなだけだ」という感覚になりがちではないでしょうか。だんだんプロフェッション自体が細分化されて,帰属意識が薄れてきています。厚労省から委託されて,税金を使って医療をやっているという感覚をもっている人は少ないと思うのです。

■医師の帰属意識も専門分化してしまった

金城 医師というのは,自分たちがどこに属しているのか見えづらい。かならずしも勤め先の病院に帰属しているのでもなく,医局のボスに直属しているという感覚なのかもしれません。さらに分野別に,自分は内科医だ,外科医だ,もっと細かく自分は内科の腎臓の中のナトリウムチャンネルの医者だというような形でどんどん細分化して,学会の数もどんどん増えていきます。それをまとめる大きな機関・学会の求心力は,徐々に低下してきていると思います。

 それは米国でも同じで,1910~20年頃には,米国の全医師の約70%がAMA(American Medical Association)に会員だったのが,いまは30%程度に落ち込んでいます〔AMA会員数は約25万人(2003年)。米国医師総数は約81万人(2000年)〕。

 いまや米国の医師をまとめる団体というのがないわけです。対照的に1917年にAmerican Collage of Surgeryというのが初めてできて以来,各専門学会がうなぎのぼりにできてきて,いまは100を超えています。おそらく,アメリカの医師も,「自分はカーディオロジスト(cardiologist)だ」とか,「自分は,インターベンション・カーディオロジスト(intervention cardiologist)だ」というように,帰属意識も専門分化してしまっていると思います。

 このように細分化された医師たちの総意をまとめて社会に伝えるような機関が存在しうるのか,私もよくわかりません。ただ,それがないと医師側に自己管理能力がないと解釈されてしまって,結局お上が指導する医療にならざるを得ないと思います。そうなったら,野村先生のおっしゃるとおり「マニュアル人間」になってしまうと思うのです。それは,高い職業倫理に裏打ちされた臨床の醍醐味を奪われるということを意味し,非常に不幸なことです。

■目の前の患者のニーズと社会のニーズの間にあるコンフリクト

大生 私の外来には頭痛を訴える患者さんがよく来られますが,大体は脳の器質的病変はないんですよね。「頭まわりの問題で,脳の問題ではないですよ」とお話しするんですが,納得しない人は皆,CTなり,MRIの検査になってしまうわけです。その費用は,患者さんは3割を負担していますが,あとの7割は健康保険で負担されている。そのことを言っても,やはり「やってほしい」ということになります。

 無駄という言い方がいいかどうかわかりませんが,やってもあまり役立たないと思われるような検査でも,ご家族やご本人は,自分が納得したいためかもしれませんが,求めてきます。臨床の場面では,患者さんや家族の意向に沿ったかたちで進めます。しかし,社会的な立場を考えれば,それがいいかどうかわかりません。その両方のおりあいをつけながらやらなければいけないのが,非常に複雑なところです。

野村 目の前の患者さんのニーズ,要望に応えるということと,社会全体のニーズを考えるということの間には,1つのコンフリクト(conflict)のあるのだと思います。なんでもそうですが,コンフリクトというのは,ある意味では,よりよいものをつくるために必要なものだと思うので,私自身は,徹底的にそのことを説明するという方針でやっているつもりです。それこそ,“無駄な”検査はしない,ほとんどの場合CTは撮らないということにしていかないと,数字的なことは待ったなしだと思います。

医師と社会の契約とは?

野村 もう1つ,社会とプロフェッショナリズムということでは,例えばこの「医師憲章」〔日本語試案(抜粋)697ページ参照〕もそうですが,ソーシャル・コントラクト──医師というプロフェッションと社会との間の契約──という捉え方ですよね。欧米では,そういう考え方が前からあったと思うんですが,日本人にはどこか違和感がありませんか。

 社会からは,医者として十分なインカムと尊敬とオートノミー(autonomy)を与えてもらって,その代わりに,私たちは誠実に医療をしますという,そういうギブアンドテイクの契約だと思うのですが,間違いではないですが,私自身は「なんかちょっと違うぞ」と感じるところがあります。

 例えばタバコ対策でもそうですが,「社会は求めてないよ」といわれれば,「いいじゃん,やらなくたって」ということになってしまうのですね。「CTを撮ってくれという人が多いんだから,お金がかかったっていいじゃない」ということになりえます。

 もっと広い視野で考えるということを,もう少し社会にアピールしていくことがないと……。単に契約関係で,「ニーズがあるからやります」ということではなく,新しいニーズをつくっていくというか,「こういうふうにしていこうよ」ということまで提案していくべきなのではないかと思うのです。

 もちろん,この中には,限られた資源の配分について考えるということも,入っていますが。

体制側がほしいものに協力するばかりではプロフェッショナルとは言えない

金城 WyniaらがNew England Journal of Medicineに「社会が欲するものだけを与えていればいいわけではない」ということを書いています。例として,オランダのレジスタンスの医師たちが,ナチに抵抗して自分たちの医師免許を返してしまったということを挙げていました。ナチに協力するのは嫌だというわけです。そういいながら患者を見捨てることをせず,アンダーグラウンドで診療を続けたそうです

 ですから,体制側がほしいものに協力するばかりでは,プロフェッショナルというものは駄目だということです。ナチでも,ソ連でも,今回のイラクでも,医師が体制の虐待や濫用に協力した歴史があります。貧困層や少数派も平等に治療し,社会的弱者を守るというスローガンをもって社会と対峙していくこともあるのだということを含んだ,コントラクトだと思うのです。

New Engl J Med 341:1612-1616, 1999

野村 いや,おっしゃるとおりです。どんな価値を提供するのかということが,契約のもとになっていればいいと思うんですよ。そうではなくて,ただ「ほしいものをあげます。その代わりに僕らは収入も尊敬もほしい」というのでは駄目だということですね。そして,いまの時代,日本の医師は,健康だとか,命の大切さとかいったバリューを,ほんとうに提供しているかどうかということです。いつの間にか,違うものにすり替わってしまっているんじゃないかと思うことがあります。やはり,常にそこに立ち戻っていかなければいけないと思います。

大生 社会の表面的なニーズと,ほんとうに大切なものが違う場合には,社会の望む表面的なものに反するかたちでも,医師として提供すべきものを提供しなければいけない面があるということで,それはほんとうに難しい。ほしいといわれるものだけを与えることは,比較的簡単かもしれないですし,私たちは,楽だからどうしてもそうしてしまう面がありますよね。

 お互いにそのあたりを話し合い,自分たちどうしで見つめ合っていかないと,社会からの批判だけでは評価しきれないものがあるということですね。すごく大事な視点だと思います。

■これからのプロの内科医はどうあるべきか?

大生 医師憲章(697ページ参照)では,プロフェッショナルというのはどういうふうになければいけないかということについて,もう少し細かく述べられているようです。内科医には,治療者の役割と,社会的な意味でのプロフェッショナルとしての役割があるということで,さまざまな性格が述べられています。患者さんに対して,優しさと思いやりをもとうとか,洞察力をもち,包み隠さない態度でいこうとか,患者さんのもつ治癒のファンクションを尊重する態度をもとうとか,患者の尊厳と自己決定を尊重しようだとか,プロフェッショナルとしては自主性とか,自律性,自己規制とか──これは大事なところだと思います──,社会に対する責任──これはさっき申し上げた表面的なニーズに一見反するものもあるかもしれません──,チームワーク,そして利他主義,正直さ,倫理性などが書かれています。

 これからのプロの内科医としては,どういうふうにあるべきか。先生方ご自身の診療場面や教育の場面で,理想はこうしたいということはたくさんあると思いますが,実践していくときにはどうしていくのがいいのかということについてご意見をお聞かせいただきたいと思います。

分業化時代における「赤ひげ」的内科医とは?

大野 昔の診療所の先生や開業医には,「赤ひげ」みたいな先生がいて,家族ぐるみかかりつけみたいなかたちで付き合う,自己完結的な医療だったので,そこには強い信頼関係があって訴えられることもなかったという話を聞いたことがあります。その代わり,1人か2人の少ないドクターなので,治療方法には限りがあるし,その人の知っている範囲内のことしかできないから,果たしてそれがスタンダードかどうかもわからないということもあった。

 しかし,医療技術がどんどん進むにつれて専門家が増えてきて,診療所は病院に送って,病院には救急の医者がいて,専門家がいてというかたちで,分業化が進んできた。分業化が進む代わりに専門性が高まって,治療のオプションも増えてきている。そのときどき,別の医師が別個にかかわるわけです。昔のように医者と患者の間の親密感がないので訴えられることが多くなったというわけです。

(つづきは本誌をご覧ください)


大生定義氏
1977年北大卒。聖路加国際病院で研修開始。その後同院内科副医長,医長として,研修医の指導にあたる。95年から産業医へ転身。99年ニューキャッスル大学臨床疫学大学院(通信制)修士課程を修了,同年から臨床に復帰。それ以来EBM・臨床疫学の実践と教育,神経疾患のQOL研究などにも関与している。内科専門医会監事,米国内科学会上級会員(FACP)。神経学会,神経治療学会,頭痛学会などの評議員も務める。

金城紀与史氏
1994年東京大学卒。亀田総合病院研修医,トマスジェファソン大学病院内科レジデント,マウントサイナイ医療センター呼吸器集中治療医学フェローを経て現職。研修プログラムの作成・運営をしながら,総合内科病棟研修医に内科の醍醐味を伝授すべく奮闘中。

野村英樹氏
1988年金沢大卒,1994年同大学院修了。1995年より3年間,ハーバード大ブリガム・アンド・ ウイメンズホスピタルで遺伝子研究。帰国後総合診療部に参加し,2001年より助教授。卒後臨床研修センターや地域医療連係室も併任。EBM,プロフェッショナリズム,タバコ対策,医学教育,地域医療連携など,遺伝子とかけ離れた分野での仕事を新鮮に愉しんでいる。

大野博司氏
2001年千葉大卒。01~03年麻生飯塚病院初期研修。03~04 年舞鶴市民病院内科。04年2月米国ボストン ブリガム・アンド・ ウイメンズホスピタル感染症科研修。04年4月より現職。救急外来,急性期病棟から往診まで患者さんの主訴,病歴を重視した医療に取り組んでいる。また,全国の医学生,医師と勉強会を行っている。共著に『診察エッセンシャルズ』(日経メディカル開 発)がある。
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