HOME雑 誌medicina 内科臨床誌メディチーナ > 危険がいっぱい  ケーススタディ  医療事故と研修医教育
●危険がいっぱい  ケーススタディ  医療事故と研修医教育

第12回

起き上がれない34歳男性

田中まゆみ(聖路加国際病院・内科)


登場人物
※本事例は,米国の臨床現場における筆者の経験をもとに,教育的な効果を考慮しつつ,全体を再構成したものです。本文中の登場人物・施設等はすべてフィクションであり,実在のものとは関係がありません。
研修医 
アリス3年目のチーフレジデント。冷静沈着なタイプ。
エディ1年目の内科研修医。クールで斜に構える。
クリス 2年目の内科研修医。まじめだが,やや思い込みが激しい。
ベティ 2年目の内科研修医。実直でやさしい性格で,患者やコメディカルからの信頼も厚い。
ジニー1年目の内科研修医。おとなしい性格。
指導医 
Dr.マーティン救急部。百戦錬磨の救急専門医で,瞬時の判断の的確さには定評がある。一方,イライラしやすいという欠点もある。
Dr.ポール総合診療科の指導医。いつもひょうひょう。
Dr.ノーラン 神経内科が専門。周囲に気を使う性格。
Dr.イェーツ 消化器外科医。温厚なベテラン。
Dr.ケント 血液内科

 今回の症例は,尻餅をつき,腰痛で動けなくなったため,救急車でERを受診した34歳の男性である。


アリス 本日の症例は,「起き上がれない」と救急車でERに運び込まれた34歳のアフリカ系男性です。

エディ HIVと魚鱗癬の既往がある一人暮らしの34歳男性が,来院した日の朝,ちょっと物を持ち上げようとした拍子に尻餅をついて,それ以来腰の痛みで起き上がれなくなったそうです。しびれや筋力低下はありません。そのままでは身動きもできず,救急車を呼んでER受診しました。 既往歴としては重症の魚鱗癬と重度肥満(BMI54),HIV陽性でAIDS発症はなくHAART(高活性抗レトロウイルス療法)を受けています。そのHIVクリニックのDr.ケントにしか話したくないそうで,救急では病歴もそれ以上は取れませんでした。朝11時頃に救急に到着していますが,患者が「Dr.ケントを呼んでくれ」というので連絡を取ったところDr.ケントはあいにく学会出張中で,そう説明しても「明日は帰ってくるんだろう,それまで入院させてくれ」の一点張りで,救急医は一応内科研修医に入院として申し送ったのですが,日勤の入院担当研修医は「ぎっくり腰では入院適応はない」と拒否,しかし患者は動けないので,救急部の指導医が「入院適応はある,家に帰しても患者は自分で自分の面倒がみられない状態なのだから」と研修医に入院を命じたところ,その研修医は救急に患者を見にも来ないで4時に準夜帯の入院担当研修医に引き継いで帰宅してしまいました。その間,患者は,内科入院ということで,昼食が供され,完食しています。

 準夜帯の入院担当研修医が救急に来てみると看護師も交代後で「Dr.ケントの患者で内科にぎっくり腰で入院する患者,と申し送りがあっただけ」とのこと。患者は「Dr.ケントに会わせろ」と言うばかりで病歴を取らせてくれません。バイタルでは血圧は正常でしたが脈拍数は98,呼吸数22,酸素飽和度88%で,酸素を吸入させようとすると「家でもこのぐらいの息苦しさはある,太っているのでいつも息切れしているんだ,放っといてくれ」とのことで血液ガスも取らしてくれませんでした。点滴ももちろん拒否。身体所見も非協力的でしたが心肺清,SLR(straight leg raise)(注1)は陽性でしたが,何せ足が重くて持ち上げるのもやっとで,患者が痛い痛いと言うのできわめて不正確な所見しか取れませんでした。

 困り果てた研修医が当直の内科指導医に電話で報告したところ,「Dr.ケントを待つためだけに入院させたり救急で一晩おもりをするわけにはいかない。救急車を呼んで家に送り返し,明朝もう一度Dr.ケントの外来を受診するように言いなさい」との助言で,何とか患者を説得して,救急車で帰宅させました。カルテには,バイタルが不安定だが患者はそれが常態であり検査も酸素さえも拒否,明日にならないとDr.ケントに会えないと説得して一旦帰宅することに同意した,と書かれただけです。


急死した患者

Dr.マーティン それで,どうなったんですか?

エディ 午後10時すぎに,その患者は心肺停止で救急車で運び込まれ,蘇生に成功せずそのまま死亡しました。

Dr.ポール Oh, my God!!

Dr.マーティン 死因は?

エディ 不明のままです。

Dr.マーティン 何だと思う? 誰か?

クリス 肺塞栓だと思います。肥満があって,救急で何時間もじっとしていて,多呼吸と低酸素状態と息苦しさがあったんですから。

ベティ 心筋梗塞かもしれません。それだけ肥満があって,HAARTを受けているんですから,副作用としての脂質代謝異常で起こったとしても不思議ではありません。糖尿病や喫煙や家族歴など,ほかのリスクファクターはなかったんですか?

エディ 糖尿病も喫煙歴もありません。家族歴については,本人が死んでしまった今となっては不明です。HIVクリニックではソーシャルワーカーが通院の交通手段も含め生活全般の面倒をみていますが,家族のことは一切しゃべろうとせず,一言も聞きだすことができなかったそうです。重症の魚鱗癬で極度の肥満なので,人付き合いもなく,教会にも通っていませんでした。

この患者のために何ができたか?

Dr.ポール 孤独やったんやね。この患者さんのためにほかにやりようはなかったのか,という反省になるけど,どう思います?

ジニー 救急に一晩置いていたら,急変しても間に合ったかも。Dr.ケントには心を開いていたのですから,会わせてあげたかった,と思います。

Dr.マーティン メディケイド(注2)は支払わないよ,そんな入院適応では。

(つづきは本誌をご覧ください)


注1:椎間板ヘルニアや坐骨神経痛などを疑うときに足を膝を曲げずに持ち上げ,何度で背部痛が惹起されるかを調べる身体所見。 
注2:各州政府が運営する低所得者用の公的医療保険。

田中まゆみ
京大卒。天理よろづ相談所病院,京大大学院を経て渡米。マサチューセッツ総合病院(MGH)他でリサーチフェロー。ボストン大公衆衛生大学院修了。2000年よりコネティカット州のブリッジポート病院で内科臨床研修。2004年より聖路加国際病院勤務。著書に,ハーバード大学医学部でのクラークシップ体験をレポートした『ハーバードの医師づくり』(医学書院)がある。

@mail box
 危険がいっぱい――ケーススタディ:医療事故と研修医教育」にご意見をお寄せください
 いただいたご意見の中から,適当なものは誌上でご紹介させていただきます。
 メールアドレスまでお寄せください。
(「medicina」編集室)