●危険がいっぱい ケーススタディ 医療事故と研修医教育 | ||||
※本事例は,米国の臨床現場における筆者の経験をもとに,教育的な効果を考慮しつつ,全体を再構成したものです。本文中の登場人物・施設等はすべてフィクションであり,実在のものとは関係がありません。
今回の症例は,不妊治療を受けてほどなく腹部膨満と腹痛をきたし,産婦人科主治医の指示で救急受診した32歳の女性である。 アリス(司会役) 本日の症例は,不妊治療後,腹部膨満と腹痛をきたした32歳女性です。 ダン(症例提示役) 生来健康な32歳の女性が,不妊治療を受けてほどなく,腹部膨満と腹痛をきたし,産婦人科主治医の指示で救急受診しました。 主治医からの連絡Dr.マーティン(救急) 主治医から救急への連絡はどういうものでしたか?ダン OHSSの疑いがあるとのことでした。 Dr.マーティン OHSSって,内科医で知っている人は少ないんじゃないでしょうか。ウッズ先生,説明していただけませんか? Dr.ウッズ(産婦人科) ovarian hyperstimulation syndromeの略なんですが,排卵誘発剤を注射して数日から2週間後の黄体期,あるいは妊娠初期に起こる卵巣の浮腫・腫大,腹水や胸水の貯留などの一連の症状を指します。かなり稀な合併症で,病態はまだ不明なことが多いのですが,サイトカインの関与が言われており,体液がサードスペースに移動して循環血液が濃縮されてしまうのです。経過観察だけで改善する軽症例がほとんどなんですが,腹水を抜く必要があることも少なくなく,稀に重症の腹水・胸水・ARDS(急性呼吸窮迫症候群)・腎不全での死亡例も報告されており,決してあなどることのできない状態です。 Dr.マーティン 排卵誘発剤によって起こる合併症なわけですか? Dr.ウッズ (難しい顔になり)非常に稀に自然妊娠での報告例もありますが……そうですね,近年の不妊治療の隆盛に伴って増えてきているのは間違いないですね。 Dr.マーティン 具体的にはどういう治療のあとで起こったんですか? Dr.ウッズ この患者さんの場合,パートナーの男性生殖機能は正常で,無排卵性月経が多い方で,まずクロミフェン(経口排卵誘発剤)を試したのですが効かなかったので,hMG(ヒト閉経期ゴナドトロピン)を9日間連日注射し,卵胞が膨らんでいるのをエコーで確認後,hCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)を注射して,翌日に性交していただきました。hMGの総量は1,000単位,hCGは5,000単位使用しました。これは決して多い量ではありません。患者さんが腹部膨満に初めて気付いたのはhCG投与後10日目で,2日間は自宅で安静にして,オフィスで腹囲と体重を毎日測定していました。しかし改善しないので,入院が必要と考え,まず腹水を抜くために救急受診を指示したわけです。2日間で腹囲は18cm,体重は4kg増加し,オフィスで行ったエコーでその日の卵巣は約9cmまで腫脹していました。 身体所見と検査所見アリス ダン先生,救急での身体所見をお願いします。ダン 意識清明,バイタルは呼吸数22/分,脈拍122/分,血圧102/68,酸素飽和度98%,体温は37.2°Cで,苦悶様表情と両側下腹部に強い腹痛の訴えがありました。眼瞼結膜に黄疸なく,下肺野にラ音がわずかに聴取され,腹部は著明に膨満しており,仰臥位と側臥位での打診で腹水が認められ,腸蠕動音は正常でした。 アリス 打診での腹水の診断のしかたはわかりますね? 側臥位での濁音境界線に印をつけるか手を置いておいて,仰臥位になってもらうと,境界線が動くんですね。少量の腹水は診察ではわからないのでエコーするしかありませんが,大量の場合はこれでだいたいわかります。身体所見で何か質問はありませんか? では検査所見にいきます。 ダン 白血球15,200,ヘモグロビン12.8,ヘマトクリット38.8,血小板45万,ナトリウム130,カリウム4.5,尿素窒素76,クレアチニン1.0,血糖106,肝機能膵酵素は正常,凝固系も正常でした。 Dr.マーティン かなり濃縮されている感じだねえ。で,腹水は? ダン 漿液様で,1l抜いた後,アルブミン4g投与しながらICU入院となりました。検体の白血球数は20,アルブミンは1.8で血漿中アルブミンが3.5でした。腹水を抜いた後は圧迫も取れて,鎮痛剤も効いたのかやや落ち着かれました。 入院後の経過アリス 入院後の経過を教えてください。ダン 腹痛と腹部膨満は翌日またぶり返し,以後38°Cの発熱が続きました。アルブミンの投与,厳密な輸液管理にもかかわらず,尿量が減少してきて,ドーパミン投与を行っても反応せず,徐々にクレアチニンが上昇してきました。入院2日後,妊娠反応陽性となり,患者は大喜びで,何とか妊娠を継続したいと強く希望。保存的治療で様子をみようということになりました。 Dr.マーティン 血培とか,熱源の精査はしなかったの? エディ OHSSという診断がついており,発熱は感染によるものとは考えませんでした。CBC(complete blood count)も特に変化はありませんでした。CRPはやや上昇ぎみでしたが,OHSSでもCRPは上がるので……。 Dr.ウッズ 産科としては,今までの経験からいっても,このまま輸液管理とアルブミン投与で乗り切れる,と考えました。 ダン しかし,患者の全身状態はあまり改善せず,患者本人の気持ちとしては非常に張り詰めて「がんばる」とおっしゃり続けていたのですが,ICUとしては,腎不全が進行したら透析もするのか,重症OHSSの治療経験の豊富なセンターに転送したほうがよいのではないか,さらに悪化した場合の妊娠中絶の必要性など,産科との協議を続けていました。が,患者さん自身が頑として妊娠継続を希望されたのです。 Dr.マーティン 大変率直な質問で申し訳ないんですが,重症OHSSの死亡率はどのぐらいなのでしょうか。 Dr.ウッズ (努めて冷静に)5万分の一以下です。当院では死亡例はありません。卵巣の過剰刺激状態そのものは自然妊娠でも起こることがあるくらいですから,ほとんどの場合は次第に改善していくのです。腹痛と腹部膨満が遷延して1カ月以上入院加療することも珍しくありません。ICUにお願いしたのは,患者に万一のことがあってはいけないからで,うちのICUのレベルからいって,さらに転送する必要は全く感じませんでした。OHSSの治療は経験的なもので,よそのセンターに行っても全身輸液管理が主であることに変わりがあるとは思えません。 Dr.ポール(総合診療) それで,腹水はどれくらいの頻度で抜いたんですか? Dr.ウッズ 絶対的なルールがあるわけではなく,症状に応じてということで,4日目に2回目の穿刺を行ったのです。(ダンに促す) ダン そうしたら,検体が黄土色で……。 (つづきは本誌をご覧ください)
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