書評 神経疾患患者の倫理的問題で迷った時に手にしたい一冊
浅ノ川総合病院脳神経センター顧問/脳神経センター長/てんかんセンター長 廣瀬 源二郎

書影 「神経倫理ハンドブック」をテーマとして増大特集として発行された本誌では神経疾患における倫理的課題が西澤正豊先生の倫理総論を筆頭に種々の角度から取り上げられている。評者は私立医科大学で退職までの20余年倫理委員会の長を務め,毎年新入医学生に「めざすべき医師像」を講じた経験から書評を引き受けた。

 「医の倫理」の歴史は紀元前4世紀の「ヒポクラテスの誓い」に始まるも,2000年以上を経過し,ギリシャ時代の医の倫理観も現代化されねばならない大きな社会環境の変化があり,世界医師会(WMA)の「ジュネーブ宣言」(1948年採択,2017年改訂),「ヘルシンキ宣言―人間を対象とする医学研究の倫理的原則」(1964年採択,2013年修正),「患者の権利に関するリスボン宣言」(1981年採択,2015年再確認)や米国発祥の現代版「Dr. Louis Lasagna’s Oath」や2002年の米国内科専門医認定機構(ABIM)を中心とした新しい内科医プロフェッショナリズムなどが世界的に見られる。わが国でも平安期に編纂された最古の医学書『醫心方』の総論治病大體部の項に立派な「医の倫理」がまとめられており,「病を治すに欲すること,求めることなく大慈惻隠の心を持ち,救いを求めて来た人は貴賤・貧富・長幼を問わずに治す」とある。江戸時代には曲直瀬道三の『道三切紙』にも五十七箇条からなる医家の心得が,さらに二代目道三は『延寿院医則十七条』を作成,その門下山脇家の『養寿院医則』にも十七条医則が残っており,われわれ医師にとって「医の倫理」は永遠の課題である。

 本特集は最近の日常臨床での倫理問題に遭遇する機会の増加に備え,特に難治疾患,不治な遺伝疾患を多く抱える脳神経内科医にとり,一度は知っておくべき神経系疾患患者の倫理的問題を取り上げ,その対処方法,解決法をまとめる目的で下畑享良先生が熱意をもって編集されたものである。

 その意図を汲み前半で「医の倫理総論」「臨床倫理学の基礎」の概論が論じられ,医のプロフェッショナリズムとは何か,脳神経内科医の持つべき理念,また神経分野の臨床倫理の特殊性,臨床倫理の4原則などが平易に紹介・解説され,読者にとってあらためて確認あるいは新たな知識獲得ができるように執筆されている。

 次いで法律家の立場から,法と倫理の関係,神経疾患の終末期の倫理(自己決定権,説明義務)や神経難病に関連する法律が社会的に公表されている脳神経内科医から出された事例を挙げて説明されており大変理解しやすい。さらに臨床の現場で倫理問題が発生した場合の解決法として多専門職によるカンファレンス,多様な背景・倫理観を持つ参加者の総意を取り上げる処理法などがまとめられている。

 後半は神経疾患各論からなり,遺伝性神経難病の遺伝学的検査の倫理,認知症ケアの倫理,筋萎縮性側索硬化症(ALS),多系統萎縮症(MSA),遺伝性神経筋疾患の臨床倫理,さらに神経救急,脳卒中,小児神経疾患や摂食嚥下障害の倫理まで網羅され,特に臨床例に合わせた個々の解決法をも示されている。

 月刊誌の特集で増大号とはいえ,極めて広範囲な神経疾患取り扱い倫理がうまくまとめられた本特集号は実地臨床に携わる脳神経内科医にとって必読の一冊であろう。


書評 臨床医の抱える倫理的課題を援ける貴重な1冊
堀川内科・神経内科医院理事長 堀川 楊

書影 脳神経内科医として診療していると,医学を越えた問題に毎日出合う。まだ軽微な症状しかない初診の患者に,やがて進行する神経難病の徴候を認めたとき,どう伝えたら明日からの暮らしに,少しは希望を持ってもらえるか。進行期のパーキンソン病患者の,もう少しよく動きたい思いを受けて抗パーキンソン病薬をわずかに増量しただけでも,精神的な多動や攻撃性が増して介護負担を大きくしてしまうとき,患者と介護者間の公平性をどう保つべきか。

 医学書院が『BRAIN and NERVE』誌の増大特集として編纂した「神経倫理ハンドブック」は,臨床医の抱えるこうした問題を,倫理学の切り口で検討することを援ける,貴重な1冊である。「座右の書」としてそばに置き,困ったときに何度でも読み返してほしい。

 西澤正豊氏は,脳神経内科医のプロフェッションが,次世代へ矜持として伝えるべきことは,診療対象の障害を持つ人々が,地域で当たり前の平凡な生活を再構築することを当然の権利とするノーマライゼーションの理念であり,臨床医をめざす学生が最も身につけるべき素養は,クライアントの思いに,共感する力(empathy)だと説く。

 長年患者と対峙して悩み,その解決を求めて倫理学を学んだという荻野美恵子氏が,その基礎を概説している。本質的には治癒困難な患者にトータルで益を成すためには,医学的知識や医療技術だけでは足りず,医学の進歩で増えたさまざまな選択肢を患者にどう選択し適用するかも,主治医がその場で考え,悩み,その時点での最良の判断を模索するしかない。しかし脳神経内科医に求められる問題は多く,遺伝性神経難病の患者への告知時の配慮,近年アクセスが容易になった遺伝学的検査時の倫理的規範,疾患進行期の胃瘻や人工呼吸器など処置の選択,患者の自己決定権と,自己決定能力の低い患者への主治医と家族による協働意思決定の必要と医師の説明責任,救急現場でのトリアージや,脳死,臓器移植の判断,認知症患者や重度障害患者への尊厳を重視した地域での医療,介護連携の構築など数え切れない。

 問題に出合ったときの倫理学的検討の方法として,臨床倫理の4原則(自立尊重,無危害,善行,正義・公正)に反しないかの検討,症例をより多面的に検討する際のJonsenの4分割表の使い方も述べている。施設内,地域内での医療倫理コンサルテーション,倫理委員会設置の意義と運用方法にも諸氏が言及しており学べる。板井孝壱郎氏はALS患者の人工呼吸器使用の開始,不開始の問題を,事前指示書(advance directives)を書いた4名の症例の,自身の思いの変遷と書換え,家族の思いへの配慮,主治医や看護・介護サービス連携の支援などを経て選択していく過程を通して述べている。正解は1つではなく,方法も多様にある。敢えて胸の内を詳しく語らない人の思いも大事にし,独善的に踏み込むことを戒めている。生命維持治療の中止に関する法的な問題と留意点は,稲葉一人氏が症例をもとに詳述している。

 下畑享良氏をはじめとした本特集の執筆者が,臨床現場で一人ひとりの患者のために悩み,長い間支え続けて来られたその思いが,どの章でも行間に溢れ,読者の心を打つ。「私たちの精一杯の個別の熟慮と議論が,社会の見えない天井を押し上げ,すべての人々が難病や障害を抱えようとも,多様な生を生きる希望の持てる社会を創ることを期待する」と書く笹月桃子氏に共感する。