糖尿病ケアの知恵袋よき「治療同盟」をめざして石井 均 |
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糖尿病治療と心理的アプローチ
あなたの考えが知りたい 合併症になってほしくない糖尿病治療にかかわる医療者の思いは突き詰めれば「合併症になってほしくない,いい人生を送ってほしい」ということにつきるかもしれません。しかし,私たちはこれまで,この気持ちを患者さんにどのように伝えてきたでしょうか?私たちが学んだ「糖尿病」とはどんな病気でしょうか。教科書の章立てを見ると,ほとんどのものは歴史的考察,糖尿病の病態と分類,診断法,治療法(食事,運動,薬物療法),合併症,その他(シックデイ,低血糖,教育),といった構成になっています。そして糖尿病治療の目的は「血糖をはじめとする各種代謝要因を適正化することによって急性および慢性合併症を予防し,健常人と同じ平均寿命を達成すること」となっています。 糖尿病の診療を続ける中で視力障害や末期腎不全の状態で初診された人,足壊疽で切断しなければならなかった人,脳梗塞や心筋梗塞を起こされた人,そういう人々に出会うたびに私たちの合併症を防止したいという気持ちは強くなりました。 当然の帰結として,外来診療でも入院診療においても,その教育や指導の一番の力点は合併症の予防に置かれました。「現時点では糖尿病は治らないけれど,正しい療養をすれば合併症を予防でき,健常人と同じような人生を送ることができる。だからしっかり自己管理するように」と伝えてきました。 ところが…なぜだろう,自分のことなのにところが,このような説明をしたときの患者さんの反応は,必ずしも私たちの期待通りではありませんでした。もちろん,「しっかりやります」「糖尿病を甘く見ていました」という反応もありました。しかし,あからさまではなくても,「またその話か,聞き飽きたよ」といった,否定的な反応も多かったのです。診療に来なくなる人や,いったん望ましい療養法をはじめても6か月,1年とたつうちにだんだん血糖コントロールが悪くなる方もたくさんおられました。 また,診察のときには療養を行なうことに同意していても,実際にはまったくやっていない方も多くおられました。私の気持ちの中に残っている象徴的な出来事は,2型糖尿病の高校生の女の子の事例です。彼女が「血糖が上がるのでアイスクリームをやめます」と言ってくれたので,私は「それはいい。そうしよう」と答えました。しかし,診察が終わって待合室で私が見たのは,彼女がアイスクリームをおいしそうに食べている姿でした。
今になって思うと,これは教育とのアナロジーで表のように理解できると感じています。その時々の試験の点数(血糖値)は,ある期間の区切りで平均され通信簿(HbA1c)で評価され,それらが何年分か蓄積されて進学先や就職先(合併症)に影響するというものです。いい進学や就職(合併症のない生活)をしたかったら勉強(自己管理)しなさいと,私たちは患者さんに指導してきたわけです。実際の教育現場のことはわかりませんが,自分たちの学生時代を振り返れば,こうした指導によって,すべての人が勉強(療養)に取り組むことを期待するのは難しいということは理解できます。
「しない」「できない」の向こうにあるものを求めてこうした袋小路から抜け出すため,私は1993年にアメリカのジョスリン糖尿病センターへ行きました。そこで私が出会ったのが,糖尿病における心理社会的側面や糖尿病という病の個人的意味を重視する「エンパワーメントアプローチ」です。先に述べた女の子の話をすると,臨床心理学者のウィリアム・ポランスキー博士は「食べたいものがあるなんて当然じゃないですか」とこともなげに言いました。また,同じくバーバラ・アンダーソン博士は「どうすればその子がほかの子どもたちと同じようにアイスクリームを食べることができるか」が課題だと説明してくれました。 私たちに欠けていたのは,「患者さんの考え方や価値観は治療上非常に重要な要素である」という認識であり,「それを組み込んでこそ治療は成功するのだ」という姿勢だったのではないか……。博士らと話すうちに,私はそう考えるようになりました。 患者さんが療養を行なわないのは「効果がないし,失うものがつらい」と考えたからではないか。「しない」「できない」のは「しなくていい」と考えているからではないか。そのように考えることで,患者さんの「しない」あるいは「できない」の向こうにあるものが見えてきました。 力をあわせて糖尿病を引き受けよう1)私たちにできることは患者さんが変わることを援助することであり,変わることを強制したり,無理矢理変えることではない。2)患者さんには自ら問題を解決しようとする力,変化する力がある。それは必ずしも医療者が望ましいと考えるものではないかもしれないが,医療者にできるのはそれを引き出し,後押しすることである。 3)患者さんの話を聴き,よく話し合うことによってのみ,お互いの考えを理解できる可能性が生まれる。 これらが,私がジョスリン糖尿病センターで学んだ,エンパワーメント(empowerment)の基本的な3つの理念です。この言葉にはもともと「権限委譲」という訳語があてられていたため,少し誤解されてきたきらいがあります。実際,こうしたやり方を日本で紹介したときには,「医療者の権限を譲るなんて,危なっかしくてそんな無責任なことはできない」,「患者にそんな判断ができるとは思えない」といった批判を,医療者からも患者さんからもいただきました。 しかし,エンパワーメントとは本来,患者さんと私たちの中に眠っている力-問題解決能力-を開花させることであり,そのための関係づくりを表わす言葉です。糖尿病を自分のこととして引き受けて療養する患者さんと,彼らが出会う問題を分析し,アドバイスし,患者さんとよく話し合いながら問題解決に協力する医療者との関係こそが,エンパワーメントです。 糖尿病は簡単な病ではありません。その治療にあたっては,まず,医療者と患者がともに問題解決に取り組む仲間であることを,お互いに確認できることが大切だと思います。精神科医のアラン・ジェーコブソン博士は治療に関するこの関係を「治療同盟」という用語で表現されていました。これは精神医学の領域で使われてきた言葉ですが,博士はこれを糖尿病の治療にも当てはまる真理として用いておられました。日本においても,この関係を患者-医療者の間に立ち上げることができれば,それは患者さんの力になるでしょうし,私たちにとっても専門家としての力になるでしょう。 日本でできることを求めて先ほど,私がこれらの考え方を日本に紹介したとき,かなりの抵抗があったというお話をしました。しかし,この領域に関する仕事を続けていて,その抵抗は過去の話ではなく,いつまでたっても消えないこと,あるいは新たに生じてくることに気づきました。いわく,「これらの考え方は輸入品であり,日本人には合わない」。その一方,日本各地で,本当に幅広い地域で,糖尿病を持つ人たちをエンパワーするために,患者さんとの「治療同盟」を作って療養に当たっておられる方々にお会いする機会を得ました。それらの方々は,他の施設の人々に比べて,とくに時間的にあるいは人的資源において余裕があったというわけではありません。しかし,自分たちの気持ちを伝えるために,あるいは自分たちが本当に糖尿病を持つ方々の力になるために,どんなやり方が効果的であるかをとても真剣に追究されていたのです。地域で開催された研究会で,あるいは施設単位の勉強会で,そんな方々の発表に出会うたびに,私のなかに力がわいてきました。この人たちに会えてよかったと思いました。本書に登場していただいた方々は,私にとって,そのような偶然かつ大きな出会いがあった人たちです。この方たちのお話をご紹介することによって,臨床における実践とその有用性を示していくことが,日本での「治療同盟のあり方」,「エンパワーメントの可能性」を理解していただく最もよい方法だと考えました。 本書は『看護学雑誌』67巻1号「くじけてばかりはいられない-糖尿病ケアの知恵袋」および同68巻2号「糖尿病看護とバーンアウト-「挫折」を宝に!」の収録内容に大幅な加筆修正を行ない,そこに新原稿を加えたものです。Part 1事例編では,日本の各地で,患者さんのエンパワーメントに取り組む皆さんの困難事例を検討しました。それらの方々が,どのくらい心を砕きながら日常診療に当たっておられるかをまず感じていただきたいと思います。また,アメリカで育ったエンパワーメントという考え方が,日本において,どのように日常診療の支えとなっているか,またどのような効果を上げているかを読み取っていただければ幸いです。またPart 2解説編では,事例編で浮かび上がった問題点を中心に,食事,運動,薬物治療など各分野のエキスパートにお願いして,教科書的解説から一歩踏み込んだ,臨床的アドバイスをいただくことができました。糖尿病療養指導には,チームによるアプローチが必要不可欠です。エキスパートの知恵は,きっと明日からの療養指導の力となるでしょう。 最後に,この本を作る過程で,貴重な症例と実践の報告をしていただいた方々,ご協力いただいた患者さん,また何日間かにわたる事例検討会に参加していただいた方々に,御礼申し上げます。また,本書には参加していただけなかったけれども,私どもの理念にご賛同いただき,貴重なご意見をいただいた方々にも厚く御礼申し上げます。それらの方々との幾多の議論の成果をまとめた「知恵袋」である本書が,読者の真の専門性とチーム機能を高め,糖尿病を持つ人たちの力になっていくことを願っております。最後に,本書をまとめる機会を作っていただき,貴重なご意見をいただいた医学書院の編集者の方々にも厚く御礼申し上げます。
2004年4月 吉日
天理よろづ相談所病院内分泌内科 石井 均 (III~VII「はじめに」より抜粋)
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