2020年東京オリンピックに向けた健康リスクへの備え(和田耕治)
寄稿
2019.02.18
【寄稿】
2020年東京オリンピックに向けた健康リスクへの備え
和田 耕治(国際医療福祉大学医学部公衆衛生学教授)マスギャザリング(mass gathering)という言葉が最近話題に上るようになった。「群衆」と訳されることのあるこの言葉を,日本集団災害医学会(現・日本災害医学会)は,「一定期間,限定された地域において,同一目的で集合した多人数の集団」と定義している。日本でも,例えばコンサートや初詣など日常的にマスギャザリングが見られる。そして,2020年にわが国で開催される東京オリンピック・パラリンピック競技大会(以下,東京オリンピック)は,世界各国から多くの人々が訪れる国際的なマスギャザリングである。
国際的なマスギャザリングにより健康リスクが生じる例として,イスラム教のメッカ巡礼がある。かつて,巡礼者の間で髄膜炎が流行したことがある。その後,巡礼者には髄膜炎菌性髄膜炎のワクチン接種を求めるようになった。また,巡礼者の将棋倒しにより多数の負傷者が出た事故があったほか,今後はMERS(中東呼吸器症候群)の感染拡大のリスクも懸念されている。
過去に開催されたオリンピックでは,健康リスクへの対応がまとめられ,次の大会に生かせるようにされている1)。本稿では,過去のオリンピックの事例を踏まえながら,健康リスクと求められる備えについて概説する。
健康リスクの適切な評価と対策を
オリンピックは,世界中のメディアが注目している。もし,大会開催前や大会期間中に何らかの感染症の事案が開催都市の東京をはじめ日本国内で発生した場合には,これまでの感染症事案以上に大きく報じられるだろう。韓国で2018年の冬に開催されたピョンチャンオリンピックでは,大会の警備担当者間でノロウイルスの集団感染があり,国際的に報道された。ブラジルで2016年に開催されたリオデジャネイロオリンピックでは,開催前にジカ熱の流行が大きな話題となり,オリンピックの開催延期や場所の変更を訴える記事も見られた。2012年のロンドンオリンピックでは,健康リスクを誇張した記事に対応するため,健康問題を担当する部局が非医療従事者である意思決定者に説明するのに大きなエネルギーを費やしたという。
表に,東京オリンピックで想定される代表的な健康リスクを示した2)。リスクは特定した後に,対象者に応じてどの程度の大きさなのか,事前のリスク評価を自治体が主体となって行い,それに応じた対策を関係機関と連携して考える必要がある。すでに取り掛かり始めていることが望ましいが,これから着手するところが多いようである。
表 2020年東京オリンピックで想定される健康リスクの例(文献2より筆者作成) (クリックで拡大) |
話題になっているように,大会期間中は熱中症のリスクが非常に高いと懸念されている。選手のリスクも心配されるが,順位を争う競技である以上は,暑さへの対策を選手個々人で進めることが期待される。競技の開催時間や救急対応についても検討がなされている。考えられる観客の健康リスクについては,水分摂取や暑さ対策の予防行動を呼び掛け,具合が悪くなりそうになったら涼しい場所に入れるようにするなどの対策を進めなくてはならない。同様に,ボランティア,警備,物品販売などの大会運営スタッフは,それぞれの役割によっては,暑い場所に長時間いる必要があったり,天候や時間帯によって思わぬ影響を受けたりする可能性がある。高齢の方や持病のある方もいる可能性がある。こうした大会運営スタッフにも十分な対策を施す必要がある3)。
海外に情報提供できる体制作りも必要
東京オリンピックの期間中,海外から渡航者が多く訪れることで感染症が流入するリスクはどのくらいあるだろうか4)。過去のオリンピックの例を参考にすると,オリンピック期間は航空券の価格が上がり,ホテルの確保も難しくなる。そのため,所得の比較的高い人の訪問が多くなることが想定される。一般に,ある程度所得の高い人たちは健康管理が行き届き,ワクチン接種を受けていることが多いと考えられる。楽観論だけではいけないが,海外からの渡航者が多く訪れることによって何らかの感染症が流行するリスクは,平時である今と比較すると同程度か,むしろ少し低くなるとの想定もあり得る。
しかしながら,昨今流行している風疹がオリンピック前に国内で流行し,先天性風疹症候群の子どもが生まれたなどのニュースが増えれば,海外でセンセーショナルに報じられる可能性がある。こうした事案に備えて,リスクとその対策も含めた情報提供が,少なくとも英語で各国に発信できるような体制作りが求められている。
オリンピックを契機にマスギャザリングは全国に
2020年の東京オリンピック開催を前に,競技大会の開催地だけでなく,ほぼ全ての都道府県において予防や医療体制について検討する必要がある。理由として,ホストタウンとキャンプ地は全国各地に散らばることになるからだ。大会期間の前後には,人的・経済的・文化的な相互交流が活発に行われる。
どこの国を受け入れるかは国や自治体のウェブサイトですぐに見つけることができる。例えば,福岡県はホストタウンとしてアフリカからケニアと南アフリカ,アジアからはタイの方を受け入れ,その他にもヨーロッパの国々の方が訪問する予定だ。他の自治体でも,大会前に選手がトレーニングをするキャンプ地が続々と決定している。
オリンピアンと呼ばれる出場選手や,選手を支えるスタッフなど多数の来日を前に,訪問者の体調が悪くなったりけがをしたりした場合にどのように医療を提供するかを考えなくてはならない。もちろん,多言語や多文化を考慮した対応も必要になる。アフリカではマラリア,アジアではデング熱が今でもよくある疾患のため,アフリカやアジア諸国から来た方が発熱した際に,迅速な検査ができる体制も検討しておかなければならない。ロンドンオリンピックでは,選手村に入る前にノロウイルスの感染が判明し,関係機関に速やかに連絡するなどの連携が行われた。
開催まで75週間,準備加速へ
読者の中には,オリンピックの選手やその関係者の診療に実際にかかわる方もいるだろう。選手村には,総合診療所(ポリクリニック)が設置され,医療は無料で受けられることになっている。過去の大会のデータから,スポーツ選手ならではの筋骨格系の医療ニーズが高いのは明らかだが,その他に歯科(虫歯など)や眼科(検眼や眼鏡作成など)が多かった点は見逃せない5)。途上国から参加する選手にとってオリンピック出場は,先進国で治療を受けられる良い機会となっている面もあるからだ。日本の医療技術を伝える良い場でもある。
オリンピックに続いて開催されるパラリンピックでは,選手それぞれの障害に応じたきめ細かい対応が求められることになる。リハビリテーション医学の知見を生かすとともに,バリアフリー環境も整備したい。
2020年7月24日に開幕する東京オリンピックまで,残り1年半を切った。本紙発行日の2019年2月18日から日数で考えると522日もあると思われがちだが,週数で考えると約75週間となる。この間に休日なども挟むため,実質的な対策が検討できる時間は実はあまりない。オリンピックにおいて,医療や保健は大会を支援する裏方である。華々しいイベントに健康リスクが水を差すことのないように,残りの期間,準備に取り組んでいきたい。
参考文献・URL
1)国際的なマスギャザリング(集団形成)における疾病対策に関する研究.参考資料.
2)WHO. Public Health for Mass Gatherings:Key Considerations. 2015.
3)Kakamu T, et al. Preventing heat illness in the anticipated hot climate of the Tokyo 2020 Summer Olympic Games. Environ Health Prev Med. 2017;22(1):68.[PMID:29165162]
4)和田耕治,他.東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会に関与する自治体における感染症対策のためのリスク評価.日医師会誌.2016;145(7):1459-68.
5)赤間高雄.オリンピック・パラリンピックの医務体制.日外傷会誌.2017;31(1):43-6.
わだ・こうじ氏
2000年産業医大医学部卒。企業で専属産業医として勤務後,カナダMcGill大産業保健学修士課程修了・ポストドクトラルフェロー,北里大大学院博士課程修了。同大医学部講師,准教授を経て,13年国立国際医療研究センター国際医療協力局。18年より現職。東京オリンピックの開催都市セキュリティ検討専門アドバイザー(感染症対策)として対策の在り方を提言した。
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