医学界新聞

連載

2017.08.28



行動経済学×医療

なぜ私たちの意思決定は不合理なのか?
患者の意思決定や行動変容の支援に困難を感じる医療者は少なくない。
本連載では,問題解決のヒントとして,患者の思考の枠組みを行動経済学の視点から紹介する。

[第1回]意思決定とは? 合理性を前提とした医療の限界

平井 啓(大阪大学大学院人間科学研究科准教授)


こんな場面に遭遇したこと,ありませんか?

医師 ○○さん,あなたは××という病気です。

患者 そんな……。

医師 治療をしないと半年しか生きられないかもしれません。急いで治療しましょう。治療法は2つ。治療Aの場合は5年生存率が50%で,△△や□□などの副作用があります。治療Bの5年生存率は40%で,△△の副作用があります。どちらにするか決めてもらえないでしょうか?

患者 決めろと言われても困ります。もう一度,治療法について説明してもらえないでしょうか?

医師 治療Aは……(ちゃんと説明しているのに何でわからないんだ。自分自身のことなのに)。

看護師 (まだ治療を考えるところまで気持ちが追いついていないんだろうな。)すぐには考えられないですよね。ゆっくりお話しましょう。

人の判断は非合理的

 なかなか意思決定できない患者さんに困ったことはありませんか? 繰り返し説明しても判断ができなかったり,医療者から見ると不合理に思える判断をしたりする患者さんもいるのではないでしょうか。時に,患者さんが医師の説明を理解できていないために,判断ができていないように思える状況です。しかし,こうした状況は必ずしも理解不足によって起きるとは限りません。では,何が原因なのでしょうか? それを考えるヒントとなるのが「限定合理性」という,行動経済学1)の基盤となる考え方です。

 突然「行動経済学」と言われても,経済学と患者の判断に何の関係があるのか? 患者さんにお金がないから治療費が払えないという話か? などと,混乱する読者もいるかもしれません。実は経済学においては,社会全体の経済の動きだけでなく,経済を動かす人々の「意思決定」や「行動変容」の要因について研究がなされてきました。伝統的経済学では,人々は得られる情報を全て用いて合理的な意思決定をすると考えられてきました。しかし実際には,人々は目の前の問題に対して,直感やその場の感情に影響された非合理的な意思決定をしています。そのような「人が判断を下す際の,非合理的な思考の枠組み」を解き明かしてきたのが,行動経済学です。行動経済学の考え方を理解し,応用することで,医療場面で生じるさまざまな意思決定と行動変容の問題を解決できるのではないかと考えられます。

「合理的な判断」を可能にする3つの条件

 「限定合理性」とは文字通り,「合理性」は一定の条件がそろった「限定的」なときにしか働かないという意味です。その条件は,大きく3つあります()。

 合理性を構成する3条件

 1つ目の条件は,本人に「決める力」があることです。狭義では認知機能障害の影響などの意思決定能力を指しますが,ここではもう少し広くとらえます。つまり,社会的,職業的背景の中で育まれた心理社会的スキルを含む,患者や家族個々人が持つ自らのことを決める力のことです。例えば,組織の中で物事を決める仕事をしてきた人は一般的に比較的合理的な意思決定が可能です。しかし,そのような経験を持っていても,自分自身のことに当てはめられる人ばかりではありません。

 2つ目の条件は患者や家族側にバイアスが存在しないことです。バイアスについては別の回で詳細に解説しますが,過去の経験やその時の感情など,さまざまな要因がバイアスとして作用します。医療者が繰り返し説明をしても「本当に治療が必要なのか」「他の方法はないのか」などと治療の開始を先延ばししようとしたり,治療を受けたがらない患者の思考には「できるだけ現状を維持したい」というバイアスが強く作用していると考えられます。

 3つ目の条件は,医療者にもバイアスが存在しないことです。「ちゃんと説明しているのになぜわからないのか?」と思ってしまうのは医師だけではありません。患者さんの気持ちを考え,共感や傾聴で寄り添う看護師でも,十分な情報さえ提供できれば,患者さんは正しい意思決定を行うことが可能(=合理的な存在である)という無意識の思考,すなわちバイアスがあるからです。

 その背景には,医療現場においては「医療者が患者に情報提供すれば,患者はそれに基づいて合理的に意思決定できる」という患者像のもとで,インフォームド・コンセントが実施されてきたことが考えられます。しかし,たとえ正しい情報をインプットできたとしても,多くの患者は合理的に判断できるわけではありません。この例のように,なかなか決めることができず治療の開始が遅れたり,患者-医療者間のコミュニケーション上のトラブルが起こったり,さらには医療者側のストレスを増大させたりすることになりがちです。患者が合理的な意思決定ができるという前提で医療の制度設計を行ってきたことが,現場での医師-患者間のコミュニケーションの食い違いをはじめとした,さまざまな問題を引き起こしていると考えられます。

限定合理性を前提としたコミュニケーションの方法

 以上の3つの条件がそろうことは非常にまれであるため,医療場面の意思決定において「合理性は限定的である」といえます。

 では,患者さんが「非合理的」な意思決定をする場合,医療者はどうすればよいのでしょうか。これまで医療者は,より正確に説明するために情報の量をより多くしたり,複数の選択肢を次々に提示したりすることで,患者の意思決定を手伝おうとしてきました。しかしここで必要なのは「患者は合理的に判断することができないのかもしれない」という考え方です。

 まずは医療者が自分自身にある「正しく説明すれば患者はそれを理解でき,合理的に判断できる」という前提を疑い,「その期待に沿う患者は,それほど多くない」と認識すること,すなわち自分のバイアスを修正することが必要です。さらに,患者側にもさまざまなバイアスがあるため,提供された情報を理解できなかったり,自分の都合の良い方向に解釈したりすることを想定します。そのような想定をもとに,例えば「病気以外で心配なことをお持ちのようですが,それはどのようなことでしょうか?」などと質問をすれば,患者の判断に強く影響を与えている要因を特定できるかもしれません。

 本連載では,このような「人が判断を下す際の,合理性を前提としない思考の枠組み」や,患者や医療者自身のバイアスについて解説していきます。行動経済学を理解することで,医療コミュニケーションにおける医療者の負担を軽減したり,患者の利益を守ったりするための具体的な方法を習得する手助けになればと考えています。

今回のポイント

●人が合理的に判断できる場面は限定的である(限定合理性)。
●患者の判断や思考にはさまざまなバイアスが混入している可能性を疑う。
●バイアスは医療者自身にもあり,特にその中でも気を付けるべきは,「患者は合理的な存在である」というバイアスである。

つづく

参考文献
1)平井啓.意思決定支援と行動経済学.終末期の意思決定――アドバンス・ケア・プランニングの実践をめざして.Modern Physician.2016;36(8):881-5.

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