医学界新聞

寄稿

2015.01.12



【新春企画】

♪In My Resident Life♪
時に走り,時に休みながら乗り越えろ!


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。ミスをして指導医に怒られたり,手技が上達せずに失敗ばかりで,自信を失くすこともあるかもしれません。「病院選びを間違えた」と後悔している方もいるでしょう。

 でも大丈夫。「生きる上で最も偉大な栄光は,決して転ばないことではなく,転ぶたびに起き上がり続けることにある」(ネルソン・マンデラ)のです。今回お贈りする新春恒例企画では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど,“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あのころを思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
清水 貴子
岩岡 秀明
中村 伸一
平岡 栄治
福岡 敏雄
柏原 直樹


天井にまで届く大出血,穿刺部を押さえて迎えた新年

清水 貴子(聖隷浜松病院 人材育成センター 副センター長)


(1)1年目は深く考えずそのまま卒業大学で研修し,2年目は郊外の(というより山の麓の)中規模病院でした。急性期病院ではないので,のんびりと仕事ができるとの思惑だったのですが,あにはからんや,医師が少ないため何でも自分でやらなければいけませんでした。診療科の壁も低かったので,忙しく,かついろいろな経験をすることができました。外科の先生からカットダウンを手取り足取り教えていただき,PaCO2 300 torrなどというとてつもない数値のCO2ナルコーシスを経験し,気管切開を深夜の廊下で行い……,とても充実した日々を送っていました。

 しかしある日,自信を持って消化器症状を呈する60代女性の検査をしたにもかかわらず,診断も治療方針の提案もまったくできず,結局患者さんは別の病院に転院されるという経験をしました。このとき,毎日の楽しさに慢心し,疾患や病態の標準的な診療を知る手段,何が目の前の患者さんにとって最適な医療なのかを検証できる手段をいまだ身につけていないことに気が付き,4年目からはそれらを身につけるために大学に戻ることにしました。とほほ……でしたが,その後の進路を決定するきっかけとなりました。

(2)研修医1年目の冬,副腎皮質ステロイドホルモンを多量内服し透析も同時に行っていた,SLEの若い女性を受け持ちました。感染症を併発し,結核も疑われたので抗菌薬と抗結核薬を投与していましたが,患者さんの状態は悪くなるばかり。せん妄も来しており,透析中に安静を保てず,十分な透析ができませんでした。ある日透析穿刺部の圧迫を緩めた途端,天井にまで届くほどの出血が……。患者さんはベッドの上で意味不明なことを話したり,止血部の圧迫を取ったりするので,私は穿刺部を押さえ続けるしかありませんでした。折しもそれは大みそかのこと,新年をその患者さんの病室で一緒に迎えました。

 臨床検査科にいた同級生が,当時はあまり一般的でなかったPIVKA-IIが患者血中に出現していることを同定。透析不足により抗菌薬血中濃度が上昇し,腸管内のビタミンK欠乏が出血傾向の原因だとわかりました。しかも私はこのデータで初めての学会発表を,それも全国総会で行うことができました。

 その後患者さんは抗菌薬減量で出血傾向が改善し感染症もよくなったのですが,抗結核薬によって聴力を失ってしまいました。私の受け持ちは3か月だけでしたが,それからもずっとプライベートでの交流が続いています。いろいろな意味で,私にとって生涯忘れ得ぬ患者さんです。

(3)モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。いろいろなことに思い悩んでいるとき,この曲の宇宙観にずいぶん救われました。

(4)医療界は,病床機能の再編,超高齢社会,医療提供体制の変化など,さまざまな事態に直面しています。医学的知識・技術のみでは解決できない課題に遭遇することもあるでしょう。そんなときには多様な価値観を認め,柔軟な思考で対処する必要があります。医学・医療のみならず,ぜひともいろいろなことに興味を持ち,たくさんのことを経験して,自分なりのぶれない価値観を確立してください。回り道も道草も,後になればきっと楽しかったと思えます。


いまだ解けぬ謎

中村 伸一(おおい町国保 名田庄診療所所長)


(1)平成になった最初の年に自治医大を卒業し,福井県立病院での研修医生活が始まりました。この病院の研修医の中で,自治医大の卒業生だけはスーパーローテート研修を受けていました。今やERの権威となった寺澤秀一先生も当時はまだ30代後半で,僕らの兄貴分的な指導医でした。

 寺澤先生の指導の下,1年目の研修医には月6回の全科対応の当直が義務となっていました。そんなこともあり,救急外来は研修医がよくたむろする場所となっていました。血気盛んなころですので,救急車の音が鳴ると当直以外でも時間が空いていれば駆け付けたものでした。

 当直のある夜,くも膜下出血が疑われる患者をCT室に誘導しようとした途中で,中堅の循環器内科医が心エコーをしていました。元々その先生が主治医で,研修医の診察なしに,直接その先生が診察したようです。ちらっとエコーの画面をのぞいた瞬間,循環器内科医が僕に質問したのです。「中村先生,わかるか? この所見」。なぜそうなったのか病態はわかりませんが,動きの鈍そうな心臓の周囲に黒く写ったエコー・フリー・スペースが見えたので,とっさに答えました。「心嚢水腫ですね」。そう答えながらも,自分の中では何か違和感がありました。正解のような,しかし正解でないような……。すると,直後に循環器内科医が怒った口調でこう言いました。「あのなー,キン□マと一緒にするな!」。

 「しまった!」と思ったけど,もう遅い。自分で口走った瞬間に感じた違和感の元は……そうです。心嚢の中に液体がたまった状態は“心嚢液貯留”と言うのですね。“○嚢水腫”という表現は,陰嚢水腫で使うのでした。赤面によるほてりとゾッとする冷汗が同時に出現したような恥ずかしさと情けなさが吹き上がり,「先を急ぎますので」と言いつつ,その場をさっさと立ち去りました。

(2)しかし,同じような液体がたまる状態なのに,なぜ心臓だと心嚢液貯留で,陰嚢だと陰嚢水腫と表現するのでしょうか? 泌尿器科をローテートした際に,ベテランの泌尿器科医に,先述のエピソードを含めてその疑問をぶつけてみました。ところが,その泌尿器科医のリアクションは予想外のものでした。「心臓を診るのがなんぼのもんじゃ。生意気なヤツや。キン□マをなりわいとしてるわれわれをバカにしているのか!」と,言いながら豪快に笑い飛ばしてくれました。疑問には答えてくれませんでしたが……。

 この会話以来,僕はその泌尿器科医にえらくかわいがられ,何度も呑みに連れていってもらいました。この先生と一緒にいる時間はすごく楽しくて,研修医なりのストレスを吹き飛ばしてくれました。おそらくお互いに“笑いのツボ”が似ていたのでしょう。よく言われることですが,“泣きのツボ”はみんな似ているけど,“笑いのツボ”はかなり多様性があるようです。

(3)ヘビメタ好きの僕は,高校生のころからジューダス・プリーストが大好きでした。研修医のときに発売されたアルバム『PAINKILLER』の最初の曲である「Painkiller」を起床時に目覚まし代わりに聴いていました。眠れぬ当直の翌朝でも,一発で目覚める曲でした。まさに曲名通りで,体の痛みも心の痛みもペインキラー(鎮痛剤)は取り去ってくれました。

(4)尊敬してやまない先輩医師との出会い,生涯親友になる同僚との出会い,患者さんとの感動的なエピソードなどいろいろあるのが研修医時代です。でも,けっこう重要なのはストレスの解消法で,同じ“笑いのツボ”を持つ人を見つけることではないでしょうか。実は,なかなかいないんですけどね。

 ところで,今回の執筆で,いまだに心嚢液貯留と陰嚢水腫の疑問が解けていないことに気付きました。どなたか教えてくれませんか。


大正生まれの先輩医師に教えられたこと

福岡 敏雄(倉敷中央病院 総合診療科主任部長・救命救急センター長)


(1)私は,1986年の6月から,阪大病院の泌尿器科で研修を始めた。とはいえ,泌尿器科を志していたわけではない。自分は内科系に向いていると感じていたため,最初の1年くらいは外科の研修を受けたかった。でも,当時の大学の外科は入局を前提としたストレート研修だった。そんな中,泌尿器科は入局を要求せず1年の研修を歓迎してくれた。

 研修を始めてみると,私はあまり器用なほうではなかった。膀胱鏡の内筒と外筒の抜く順番を間違えて「お小水」を浴びたり,尿管結石の手術でなかなか石が取り出せず「逆子か?」と暖かい声援をいただいたり,自分が作った内シャントがすぐ詰まって夜遅くに指導医に再手術してもらったりした。

(2)その秋,ある患者さんの主治医となった。彼女は大正生まれで,職業は医師。自覚症状のない顕性血尿が主訴だった。検査を続けると侵襲性の高い膀胱腫瘍が原因だとわかった。しかし出血はおさまらない。そしてある日の夕方,突然大出血した。もう緊急手術か塞栓術くらいしか思い付かない。指導医には,こんな時間にこの状態では無理だと言われた。でも私の気が収まらない。帰り支度をしている放射線技師や看護師,医師に説明して緊急動脈塞栓術をしてもらった。でもその後,呼吸不全状態になり数日間病棟で人工呼吸管理をし,集中治療室に収容したが,ほどなく亡くなった。

写真 住民との懇親会で「粗忽長屋」を熱演中。高知県物部村(現・香美市)にて。
 大出血が起きる前,ご本人に意識があったころ,心配でベッドサイドに通った。そこで,彼女の「医師」としての話を聞いた。戦中戦後の混乱期が働き盛りで自分の人生を考える余裕がなかったこと,今はおいとその子どもたちを,わが子・わが孫のようにかわいがっていること,そして当時結婚して数か月の私に「医者の仕事は面白い。でも自分の人生を大事にしなさい。奥さんを大事にしなさい。がんばりなさい」と,自分にも語りかけるように話された。

 そんな彼女が亡くなってしまった。主治医として最初に失った患者だった。迷わず,おいにあたる方に病理解剖をお願いした。「病室でずっとがんばってくださいましたね。本人も先生のお役に立ちたいと思います。どうぞ,お願いします。他の者への説明は私がします」。留まっていた涙がまたこぼれた。診断は膀胱原発の印環細胞癌,直接の死因は肺血栓塞栓症だった。

 自分の将来について,2つのことを決めた。まず,重症患者管理を専門とする医者になろう。次に,病院で患者の役に立つ医者になろう。そうはっきり意識した。そして,今につながっている。

(3)Queenの「We Will Rock You」。高校の友人に教えてもらった曲。ビートにしびれた。研修医になって聞きたくなることが増え,CDを買った。

(4)自分を育てることを楽しんでほしい。若いときは,そこを楽しんでほしい。仕事を選ぶのは,その後でも十分間に合う。


プライドよりも優先すべきこと

岩岡 秀明(船橋市立医療センター 代謝内科部長)


(1)私は1981年に大学を卒業後,そのまま母校の内科に入局し大学病院の各内科で初期研修をしました。当時は同期の9割以上が私と同じ進路でした。初期研修で市中病院に出て行く人はごくごくまれでしたし,研修修了後の海外留学と言えば当時は全て「研究留学」でした。

 私は強い志を持って医師になったわけではなく,開業医の一人息子で半ば当然のように医師になってしまいましたので,あまり熱意もない研修医生活でした。元来不器用で,採血は失敗ばかり,点滴も下手でいつも上級医から怒られていました。

 卒後半年後にローテート研修した血液内科で,急性白血病の16歳の患者さんを受け持ちました。当時は化学療法があまり効かなくなると,対症療法しかない状態で,死を待つだけのような状況に大きな衝撃を受けました。患者さんに病名告知もしていなかった時代でしたから,たしか再生不良性貧血というような病名を伝えていたと思います。徐々に病状が悪化していくのに手だてもなく,病名告知もしていないため下手な嘘をつくだけで,毎日病室に行くのがとてもつらかったです。

 そこで初めて患者さんの死に直面しました。それを契機に,一念発起して血液内科に進めば感動的なのでしょうが,軟弱な私は,いつも朝早くから病棟に駆け付け,夜も遅くまで病棟に残り,かつ勝ち目のない闘い(当時です)をしている血液内科を,将来の進路からまず除外してしまいました。ですが,担当患者さんを失うという初めての経験は衝撃が大きく,その後の医師としての在り方を考えるきっかけになりました。

(2)尊敬できるたくさんの先輩方と出会いましたが,特にお一人だけ挙げるとすれば,医局の9年先輩で,日本の内分泌内科学を代表される西川哲男先生(現・横浜労災病院院長)です。当時,母校の大学病院の内分泌内科に大きな下垂体腫瘍の患者さんがいらしたのですが,母校の脳神経外科ではほとんど下垂体腫瘍の手術はしていませんでした。若手の講師だった西川先生は,内科カンファレンスで「うちの脳神経外科ではこの患者さんのオペは無理です。都内に下垂体腫瘍手術の名手である脳神経外科医の知り合いがいますから,すぐにそこに転院させましょう」とためらわずにおっしゃいました。

 現在では普通のことかもしれませんが,1980年代初頭は「自院で満足できる治療ができない」という理由で,たとえ地方都市とはいえ長い歴史と伝統のある大学病院から一般市中病院に患者を転院させることは稀有なことでしたので,内科スタッフも看護師長もみなびっくりしました。「大学病院としてのプライドなど,どうでも良いのです。患者さんを救うことが一番大切なのです」と,西川先生がおっしゃった姿は今でも脳裏に焼き付いています。

 その患者さんは都内の市中病院に転院して手術を受け,後遺症もなく元気に回復されました。その脳神経外科医とは,後に世界的権威として有名になる福島孝徳先生(現・米国カロライナ頭蓋底手術センター長/デューク大)でしたが,当時の私には知る由もありませんでした。

 その後,さまざまな病院で視床下部・下垂体腫瘍手術の後遺症で苦しむ患者さんたちを診て,西川先生の言葉がより強く実感されました。内科医がきちんと手術適応を決め,最も適切な外科医に患者さんをご紹介する。若い先生には,「自分や施設のプライドや好奇心優先ではなく,常に患者さん第一で考えてください」とお伝えしたいと思います。

(3)中学生時代も研修医時代も,今でも,つらいときや元気を出したいときにはいつもThe Whoの「Won't Get Fooled Again」を聴いています。1971年にリアルタイムで名盤『WHO'S NEXT』を買って以来,私にとっては常に世界最高のロックアルバムです。まだという方は,ぜひお聴きください!

(4)自分が好きなこと,興味があることを続けましょう。そして,もし音楽でも映画でも文学でもスポーツでも,医師以外に自分の才能がよりあると思えば,どうぞ他の道もめざしてください。


「プレゼンが全くできない!」
毎朝4時からの回診準備

平岡 栄治(東京ベイ・浦安市川 医療センター 総合内科部長)


(1)「成功を収めた先生方に失敗談を聞くという企画」で執筆依頼が来た。自分が成功を収めたとは全く思わないが,失敗談はたくさんある。

 心底自分が駄目だなあと実感したのは,卒後10年目の2001年7月,米国ハワイ大関連のクアキニ病院でインターンを開始したときである。初日から10人の一般病棟患者と4人のICU患者を引き継いだ。米国のレジデント,医学生なら当然できるであろうプレゼンが全くできない。日本で練習し,米国でエクスターンシップ,サブインターンシップをしたにもかかわらず,である。質問攻めにあうも,まともにエビデンスベースで答えることができない。チームにはPGY2の医師,PGY1の私,MS3(医学部3年生)の学生がいたが,MS3の学生にプレゼンの手法や,米国なら常識的に知っている知識をどう学ぶかを教えてもらった。

 ADLとは何か? DEATHと覚えてDressing,Eating,Ambulating,Toileting,Hygieneの情報を集める。もっといえばEatingではナイフとフォークを使えるか,スプーンのみでしか食べることができないか,人に食べさせてもらっているか,のみこめるかといった情報が大切で,Toiletingでは,トイレに行けるか,ベッド上排泄か,おむつか,といった項目が重要。なんて日本でも今では常識かもしれないが,当時の私は全く知らなかった。ICUに至っては,今でこそSurviving Sepsis Campaign Guidelinesなどで有名であるが,敗血症性ショックに対し生食のボーラスをしたこともなかった。ICUでのシステム(臓器)ごとの症例プレゼンもうまくできなかった。エクスターンシップやサブインターンシップを行ったときは「お客さん」であり,皆がペースを合わせてくれていたにすぎなかった。

 毎朝7時から指導医やシニアレジデントとの回診や議論が始まる。それまでに患者を十分把握しておかねばならない。私は朝4時から準備を開始したが,うまくいかなかった。指導医やシニアレジデントにアセスメント,プランに関して細かく質問されるがひとつも答えられないと,主導権はあちらにわたり,自分は後手後手に回る。Time managementなんて言葉すら知らなかったし,仕事を終えて帰宅は夜9時になった。4日に1回は当直があり,5人の入院患者が入ってくるし,月に35-50人の新患が入ってくる。毎週3回の教育回診でプレゼンをし,宿題が出され次回までに準備が必要であった。なんだか愚痴っぽくなったが,その当時は生き残れると到底思わなかった。自宅に戻ると,涙が自然に出てきた。もう駄目だから日本に帰ろうとさえ思った(私の施設の研修医が聞いたら喜ぶエピソードかもしれない・笑)。

 そのとき,日本人の森本佳和先生や藤谷茂樹先生と出会い,生き残る方法を教えてもらった。Time managementを学び,朝4時に病院に行かなくても済むようになった。それがなかったらおそらく生き残れなかっただろう。非常に感謝している。

写真 恩師Dr.Sollを日本に招いての一枚。
(2)さまざまな優秀な指導医に出会い影響を受けた。ここではハワイ大のBruce Soll先生を紹介したい。

 Soll先生は呼吸器内科・集中治療医であり,優秀な総合内科医であった。レジデントに厳しい指導医で,少しこわもてで米国人レジデントも彼には緊張していた。だが彼はレジデントにやる気を起こさせ,ありとあらゆるものを教育の機会に利用するスーパー指導医であった。総合内科とはどういうものか,病歴・身体所見をベッドサイドで叩き込まれた。渡米前は全く知らなかった分野である終末医療や高齢者医療の大切さを教わった。帰国後も,彼を日本に何度も招待し,教えていただいた。HIRAOKAismの中に間違いなくSOLLismがかなり入っている。

(4)研修医時代は大変だが楽しい。楽しいが大変。がんばりすぎて完走できないのも避けたい,諦めずに前に進むことが大切です。

 周囲には自分よりすごい人がいて自分が駄目に見えることはよくあるし,おそらく普通の感覚です。今日よりも明日,明日よりも明後日,いい医師になろうと決心し一歩一歩進んでいる限り,いつか良い医師になると思います。そのためにまず心と体の健康を維持してください。時には走り,時には休みながら研修医時代を乗り越えてください。


あみだくじで「マッチング」

柏原 直樹(川崎医科大学 腎臓・高血圧内科 主任教授)


(1)病院はどこだ?

 とある地方都市のJR駅に降り立ったのは,残暑の厳しい日だった。30分ほど歩くと,それらしい建造物に行き当たり,ようやく到着と思ったが様子がおかしい。そこは地元の高校であった。「では病院は?」と振り返ると,背後に古色蒼然とした3階建ての建物がたたずんでいた。安堵と若干の失望が混じった複雑な気持ちで,私の3年間の研修生活が始まった。

 そもそもなぜ,この病院に赴任したのか。「マッチング制度」である。大学病院での4か月の研修が終わりに近付いたころ,同期入局者が招集された。「3年間の初期研修先を決める」という宣言の下,取り出されたのは,無造作に作ったあみだくじ機であった。記名し終わると,その紙片を持った医局長はなぜか,自室へと消え去った。

 後年になってこの「しくみ」を知ることになる。入局後4か月間は,観察研究期間であり,研修医の普段の行状から,体力,知性(と野生),リスク要因(赴任先でもめ事を起こすと困る)が分析され,一方で,研修先病院のもろもろの要因が入力される。この複雑なアルゴリズム(多くは直感)によって双方のニーズが(適当に)合致した(と思われる)ところで赴任先が決められる。透明性はゼロであり,平等でもない。しかしそれほど悪いシステムとも思えない。

(2)大切なことは患者さんから学んだ

 見かけは近代的とはほど遠い病院であったが,そこで出会った医師たちは,いずれも臨床の第一線で鍛え上げられた歴戦の勇士であった。私の医師としての基礎を築いたのは,ここでの熱い3年間であった。

 研修にも慣れてきたある日,老朽化した病棟の狭い休憩室で,何気なく都内のある超有名病院の冊子を手にした。ぱらぱらとめくっていると,そこに長身で眉目秀麗な研修医代表が,「素晴らしい環境で充実した研修を行っている」ことを述べ,満足げにほほ笑んでいる。大学の1年先輩の先生であった。彼我の違いは明らかであったが,不思議とうらやましいという気持ちにはならなかった。

 診断・治療のスキル,臨床推論,コミュニケーションスキル等々,医師としての基本をここで学んだ。しかし,本当に大切なことは患者さんが教えてくれたように思う。医師は受験生活とその後の医学生時代を通していつの間にか選良意識を植え付けられがちである。「真っ当な人間」に引き戻してくれるのは患者さんである。不治の病となること,家族との死別,最愛の子どもが病気となること,難病を受容し人生を立て直す様子,人は不条理な運命にどのように立ち向かうのか,を学ぶことになる。悲哀,哀悼,諦観,祈り,希望といった人々の深い感情を初めて知る思いがした。

(4)らせん状にゆっくり大きく成長しよう

 新医師臨床研修制度が始まり,研修先を自分で選択できるようになった。自由を得たことは素晴らしい。しかし自由の獲得と引き換えに,「最適な研修先」を自己責任で決定するという義務を負わされる。病院の立地,指導医の数,経験症例数,研修プログラムの完成度,給与,自分との相性,等々思い悩む。しかし実際には,望んだ研修病院であっても,研修を始めると落胆することも少なくない。

 「満足度を最大化」してくれる研修病院を予知して選択することは可能なのだろうか? 不可能である。満足は事後的な感想であり,選択自体の「精度」を過度に求めるのは徒労であろう。研修は「自分探しの旅」ではなく,どのようにでも変化し得る自分を用意することで,豊かな時間を過ごすことができる。

 未知の環境に自分を投じて,もみくちゃにされながら,自分を変化させることが大事だと思う。患者さんとご家族の願いに応え得る力をつけ,信頼に応え得る医師となることを願い続けることができるのであれば,どこで研修するかは,むしろ副次的な要件であろう。大切なことは患者さんとそのご家族こそが教えてくれる。施設や研修プログラムの洗練度ではない。

 良い医師になるためには,直線的であるよりも,大きな経を描きながら,時間をかけてらせん状に成長することが必要であろう。広大な裾野は自ずから高い頂を形成する。性急に「専門医」になることをめざすのではなく,まず多様な経験を積んで,裾野の広い大きな山容を持った医師になることをめざしてほしい。

参考文献
シーナ・アイエンガー著,櫻井祐子訳.選択の科学.文藝春秋;2010.

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