医学界新聞

インタビュー

2014.06.16

【interview】

「賭けではあった。ただ,“菌類からコレステロール低下薬を
探索する研究者は自分しかいない”という自信はあった」

スタチンの発見者,遠藤 章氏((株)バイオファーム研究所長 )に聞く


 いまや世界中で毎日4000万人以上が服用し,「第二のペニシリン」とも評されるスタチン。世界最初のスタチンであるコンパクチンは,1973年にひとりの日本人科学者の手によって発見された。そして,その発見と開発は苦難の連続であった。

 独自の仮説はいかにして生まれたか。度重なる開発中止の危機をどう乗り越えたのか。スタチンの発見者,遠藤章氏に聞いた。


――農家のご出身で,農学部進学時は農業技師をめざしていたそうですが,在学中に応用微生物学に関心を移されたのはどういった経緯でしょうか。

遠藤 ペニシリンの発見者であるフレミング(Sir Alexander Fleming)の伝記を読んだ影響が大きいと思います。私にとって,フレミングはヒーローでした。幼いころは医師への憧れがありましたが,「医師でなくても創薬によって人命を救い,社会に貢献できる」という新たな展望が開けたのです。

無菌室でカビの実験中(1960年)
――その出会いが後に,「第二のペニシリン」スタチンの発見につながるわけですね。

遠藤 何万種も存在する菌類の中で,ペニシリンもスタチンも青カビから発見されたことは不思議です。自然の奥深さを実感します。

米国留学時に知った「挑戦すべき大きな目標」

――研究の対象として動脈硬化の危険因子であるコレステロールを選んだのはいつごろですか。

遠藤 1957年に三共に入社して,米国留学前の1963年ごろから考えていました。

 当時は分子生物学が華やかな時代だったので,核酸や蛋白質の研究が人気でした。でも私は流行を追っても頭角を現すのは無理だろうし,人がやらないことに取り組んだほうが業績を残すにはいいだろうと,そういう姑息な考えです(笑)。 1964年にコレステロール生合成の研究でコンラート・ブロッホ(Konrad E. Bloch)博士がノーベル生理学・医学賞を受賞したことにも強く影響されました。

 1966年から2年間,ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大に留学します。そのころの米国は心臓病による死亡者数が年間約60-80万人と,深刻な問題になっていました。しかも,有効なコレステロール低下薬がない。挑戦してみる価値がある,大きな目標だと考えました。

――ただ当時の日本を考えると,コレステロール低下薬への関心は米国ほど強くはなかったはずです。そのあたりの迷いはなかったですか。

遠藤 日本のことは考えていませんでした。どうせ登るなら,高尾山よりもエベレストのほうがいいでしょう。世界的な問題に挑戦しようと考えるのはごく自然じゃないでしょうか。

独自の仮説はこうして生まれた

――米国の研究環境はどのような印象でしたか。

遠藤 日米間の格差を強く感じました。彼らが面倒で敬遠することか,日本の得意なことをやらない限り,勝ち目がないと思いました。

――同じエベレストをめざすにしても,登り方には工夫が必要と?

遠藤 そう,同じルートを選んではいけない。そこで,コレステロール合成阻害物質を微生物から探索することに決めました。微生物の中にはコレステロール合成阻害物質をつくるものがいるだろう,と考えたのです。

――どうしたらそういう発想に至るのでしょうか。

遠藤 HMG-CoA還元酵素がコレステロール生合成を制御することは既に明らかになっていました。そして抗生物質がさまざまな酵素を阻害することもわかっていました。それならば,HMG-CoA還元酵素を阻害する抗生物質をつくる微生物もいるだろうと思ったのです。

――抗生物質とコレステロール合成阻害物質を,同じメカニズムとしてくくったわけですね。

遠藤 そうです。しかも,微生物の中でもカビなどの菌類にターゲットを絞った。当時は放線菌が抗生物質の宝庫ともてはやされていたので,流行の逆を行きました。

――なぜ菌類を選んだのですか。

遠藤 理由は,山村育ちでキノコやカビなどの菌類に少年時代から興味があったこと,三共に入って数年間カビとキノコが生産するペクチナーゼという酵素の研究をやっていたことなどです。

――当初から自信はありましたか。

遠藤 賭けでした。ただ少なくとも,「菌類からHMG-CoA還元酵素阻害物質を探索する研究者は自分しかいないだろう」という自信はありました。

単純作業を2年間繰り返し,ついにコンパクチンを発見

――帰国後,1971年4月に探索研究を開始します。しかし,当時の会社は創薬に期待するような雰囲気はなかったそうですね。

遠藤 欧米で開発された薬を導入するのが主流で,日本発の新薬はほとんどない時代でしたから。

――すると,予算は少ないわけですね。

遠藤 ですから,人手と根気さえあればできるような研究手法を選びました。試験管にラットの肝臓の酵素と放射性酢酸を混ぜてコレステロールを合成し,これにカビやキノコの培養液を加えて放射能を測定するという単純作業をひたすら続けるわけです。

――最終的に2年間で6000株を調べたそうですが,最初から期限は区切って始めたのですか。

遠藤 メンバー3人には2年間と約束しました。そうでないと協力を得られないし,会社も放っておかないでしょう。

 それで,ちょうど1年経ったときに1つ見つかったんです。毒性が強くて結局は使えなかったけど,魚釣りでいえば“あたり”があったので,もう1年続けることができました。そして1973年7月に,ついに青カビからコンパクチン(ML-236B)を発見できました。2年をやや過ぎたところで,狙った魚が上がってきたわけです(笑)。

否定された仮説,創薬の常識を疑い自ら動物実験に着手

――「新薬の種」が見つかった後は動物実験に移りますが,ラットのコレステロールが下がりませんでした。そこで普通はあきらめるように思います。

遠藤 私は頑固だから(笑)。確かに世界の常識は,「ラットに効けばヒトにも効く,ラットに効かないものはヒトにも効かない」でした。英国の製薬会社も同じ時期にコンパクチンを発見したのですが,ラットに効かなかったために彼らは開発を続けませんでした。でもラットの薬をつくっているわけではないですよね。「ラットに効かなくてもヒトに効けばいい」と思って文献を調べたら,実際にそういう薬がありました。

コンパクチンを生産する青カビ
 それに,コンパクチンの構造がHMG-CoAとよく似ていて理想的だったのです。「これは自然からの贈りものだ」と直感したから,簡単に引き下がるわけにはいきません。当時の上司の有馬洪所長が研究を続けさせてくれたし,メンバーもついてきてくれました。

――その後,先生自ら不慣れなラットの実験を2年ぐらいやったのですね。

遠藤 あの2年は本当に長く感じました。今振り返ると,あのころがいちばんつらかったですね。

 実験の結果,ラットに効かないのは,肝のHMG-CoA還元酵素が誘導されて,コンパクチンの阻害作用を帳消しにしていたことが原因だとわかりました。ただ,効かない原因がわかっただけでは薬になりません。それで今度は,「(ラットと違って)血中コレステロール値が高い動物モデルなら効く可能性がある」と考えて,ニワトリ(産卵鶏)で動物実験を始めました。すると,劇的にコレステロールが下がりました。その後,イヌでも劇的な効果が認められて,これで開発プロジェクトを再開させることができました。

再び開発中止の危機から治験へ

――ところが,動物実験でもう一度危機が訪れますね。

遠藤 今度は1977年3月に始まったラットの中期毒性試験で毒性学者から「肝毒性の疑い」が出されました。私のような生化学者の立場からすると肝毒性は非論理的な話に思えたのですが,彼らがゴーサインを出さない限りは先に進めない事態が発生しました。

ゴールドスタイン氏から遠藤氏に宛てた最初の書信(1975年10月)
 この問題が起きた2週間後(1977年5月),かねてから共同研究で付き合いのあったゴールドスタイン博士(Joseph L. Goldstein)から手紙が来ました。「他に治療法のない重症患者の治療にコンパクチンを使いたいので協力してほしい。FDAや学内倫理委員会の許可は得ることができるから」という内容でした。

――後にコレステロール代謝の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞(1985年)するゴールドスタイン博士ですが,いつごろから遠藤先生の研究に関心を持たれていたのでしょうか。

遠藤 1975年10月に私から,コレステロール合成阻害物質を発見したことを手紙に書いたのが最初です。その一週間後にはゴールドスタイン博士から返信が来て,共同研究の提案がありました。

 そうした経緯があっての今回の申し出です。うまくいけば開発中止に傾く社内の流れを一変させることができるので「渡りに船」でした。ところが当時はまだ,日本の大学も企業も海外との共同研究の経験が乏しく,米国と共同で治験を行うことに反対意見が出て,実現できませんでした。

――八方ふさがりですね。

遠藤 その3か月後の1977年8月に,阪大の山本章先生から同様の申し出がありました。社内でまた反対されるのがわかっていたので,所長と合意の上で今度は会社に申請しないで最後の賭けに出ました。1978年1月に,私が自ら大阪に出向いてコンパクチンの粉末を手渡しして,翌2月に阪大で世界初のスタチン治療が実施されました。

結局は半年間で10人前後の患者にコンパクチンを投与し,家族性高コレステロール血症ホモ接合体を除くすべての患者でコレステロール値が約30%下がりました。毒性学者の見解も変化して,1978年11月には正式な臨床試験が始まり,その後2年間は大変順調でした。

――しかし1980年に突然の開発中止。何があったのでしょうか。

遠藤 イヌの長期毒性試験で発がん性が認められたとの噂が出ました。開発中止の理由は公表されなかったのですが,投与量が高すぎて毒性が出たようです。この噂が世界中に広まったことで,三共だけでなく,競争相手のメルクも開発を一時中止しました。

――その後,メルクが臨床試験を再開。1987年に,二番目のスタチンであるロバスタチンの商業化に成功します。先生はこのころはどういう心境でいらっしゃいましたか。

遠藤 一段落したという気持ちでした。

――先を越されたというお気持ちは?

遠藤 いや,それは本音じゃないな。山の8-9合目までを三共が登り,最後はメルクにタスキを渡したものと理解しています。どちらが欠けてもゴールにはたどりつけなかったと思いますね。

新薬の開発は医師の協力なしにはできない

――昨今は論文不正の問題が相次いでいます。国内の研究環境をどのように見ていらっしゃいますか。

遠藤 昔と比べると研究費は増えましたが,それに見合った成果を早く出さないといけないという強いプレッシャーが研究者にかかっていますね。功を焦った結果,昨今の問題が起きているのではないでしょうか。

 スタチンは,私が仮説を立ててから商業化まで20年ほどかかっています。今の時代のように実益を急ぐ環境からは,スタチンのような新薬は生まれないでしょう。お金をつぎ込む以上は成果を出す努力が大事ですが,医学や生物学の研究はもう少し長いスパンでみる必要があります。昨今の研究環境は,科学や医学の本来の姿からずれているように感じます。

――最後に,医師に向けてのメッセージをお願いします。

遠藤 私は米国に留学して臨床医と話すなかで,脂質異常症が大問題だと実感し,探索研究を始めました。また,度重なる開発中止の危機の際に,山本先生やゴールドスタイン博士の協力がなかったら,スタチンはこの世に生まれていなかったと思います。スタチンの開発経験から,新薬の開発は医師の協力なしにはできないことを学びました。医師の積極的な参加を期待しています。

ラスカー賞授賞式にて(右はゴールドスタイン氏。2008年9月ニューヨーク)

(了)


遠藤章氏
1933年秋田県生まれ。57年東北大農学部卒,三共(現・第一三共)株式会社入社。米国アルバート・アインシュタイン医科大留学を経て,75年三共(株)発酵研究所研究室長。79年東京農工大助教授,86年同教授。97年より現職。東京農工大特別栄誉教授,米国科学アカデミー外国人会員。主な受賞歴に日本国際賞(2006年),ラスカー臨床医学研究賞(2008年)。著書に『新薬スタチンの発見――コレステロールに挑む』(岩波書店)など。

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