米スポーツ界を震撼させる変性脳疾患(1)(李啓充)
連載
2014.01.20
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第261回
米スポーツ界を震撼させる変性脳疾患(1)
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(3057号よりつづく)
元大リーグ選手,ライアン・フリール(36歳)がショットガンを使って自らの命を絶ったのは2012年12月のことだった。自殺からほぼ1年が経った2013年12月16日,フリールの遺族は,彼が慢性外傷性脳症(chronic traumatic encephalopathy,以下CTE)を患っていた事実を公表,全米の野球ファンを驚かせた。
CTEは,ここ数年,脳震盪との関連で脚光を浴びている変性脳疾患である。その原因は,脳震盪等の比較的軽微な脳損傷を繰り返すことにあると考えられているのだが,これまでの報告例は,アメリカン・フットボールやアイスホッケーなどの,いわゆる「コンタクト・スポーツ」(体と体が接触する機会が多いスポーツ)の選手,あるいは,従軍経験のある兵士に限られてきた。肉体をぶつけ合う機会が少ない野球とは縁のない疾患と思われてきただけに,フリールがCTEだったという事実は,野球関係者に大きなショックを与えることとなった。
NFLの名センターが,引退後に「落ちぶれた」原因
CTEは,まだ日本の医療者にはなじみが薄い疾患のようなので,その概念をご理解いただくために,まず,この疾患が注目されるようになった経緯について説明しよう。
マイク・ウェブスターが,NFL(National Football League)でプレーしたのは,1974-1990年のことだった。名門チーム,ピッツバーグ・スティーラーズの名センターとして鳴らし,1997年にはフットボール殿堂入りを果たした。敵選手に激しく頭からぶつかる迫力あるプレーと,けがを押してプレーし続けた「頑丈さ」とがどれだけ大きな人気を集めたかは,鉄鋼の町,ピッツバーグのファンが,彼に「アイアン・マイク」のニックネームを進呈した一事からも明らかだろう。
しかし,現役時代はプレー一筋に生きた彼の人生が,引退後,一変した。周囲が首をかしげるような奇矯な行動が目立つようになっただけでなく,家人が知らないところで金銭が消費されるようになったのである。やがて,記憶障害,苛立ち・怒りっぽさ,うつ……といった症状も現れるようになり,いつしか家を失い,妻にも去られてしまった。往年の大選手が認知症様の症状を患った挙げ句に,「落ちぶれて」ホームレスとなった様子はTVや新聞で報道されるようになり,ファンを悲しませた。
引退から12年後の2002年,ウェブスター(50歳)は心筋梗塞が原因で亡くなった。検死を担当したのは,ナイジェリア生まれの医師,ベネット・オマルだったが,彼はたまたま神経病理学の研究に携わるようになったばかりだった。生前のウェブスターが認知症様の症状を患っていたことは報道で知っていただけに,脳の肉眼所見がまったく「正常」であったことにオマルは違和感を覚えた。助手に脳を固定するよう命じると,認知症関連の種々の蛋白について免疫染色を行うよう指示したのだった。
数か月後,免疫染色の結果を見て,オマルは驚愕した。タウ蛋白陽性の神経原繊維濃縮体が脳皮質の広範な領域に認められたのである。一方,β-アミロイドの集積も認められたもののその局在はアルツハイマー病のそれとは異なった。神経原繊維濃縮体の分布は,ボクサーに見られる脳障害(いわゆる「punch-drunk syndrome」)と酷似し,頭部への衝撃(つまり脳震盪)が慢性に繰り返されたことが病因である可能性が強く示唆された。
脳震盪の危険性喚起への期待とNFLの反応
オマルが,ウェブスターの解剖所見を一例報告として『Neurosurgery』誌に報告したのは2005年のことだった。同誌を選んだ理由は「NFLのジャーナルであり,フットボール関係者の関心を引くには最適」と考えたからだった。というのも,NFLは,1994年に,脳震盪の危険性を科学的に検証するための「中等度外傷性脳損傷委員会」を設立,2003年以降その調査結果を立て続けに『Neurosurgery』誌に寄稿していたからだった。一連の論文の内容は,「世間が心配するほど脳震盪の危険は大きくない」とするものであったにもかかわらず,オマルは,NFLの関心を引くことができれば共同で選手を脳震盪の危険から守るための研究を進めることができると,ナイーブにも期待したのである。
しかし,論文に対するNFLの反応は,オマルの期待とは正反対のものとなった。「データの解析も引用文献の解釈も間違いだらけだから,撤回すべし」と,研究結果を全否定した上で,論文をほごにすることを求めてきたのだった。
(この項つづく)
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