「起立,礼」に関する考察(井部俊子)
連載
2013.09.23
看護のアジェンダ | |
看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き, 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。 | |
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井部俊子 聖路加看護大学学長 |
(前回よりつづく)
その会場には,総勢68人の受講生がいた。講師(である私)が教室に入ると,座席の後方から「起立,礼」という号令がかかった。受講生は全員立ち上がり,頭を下げ,そして腰かけた。彼らにとっては,このコースに入って以来,やることになっている儀式であり慣習であった。彼らの平均年齢は40歳であり,看護師として脂が乗っている「成人学習者」たちである。
教室に入ると同時に人々が立ち上がる光景に驚いた講師(である私)は,前半の講義を「起立,礼」の考察に当てることにした。本日の授業のテーマである「組織とリーダーシップ」を学習するには生きた教材であると思ったからである。
成人学習者たちに課された「日直」業務
まず,なぜ「起立,礼」をするのかと皆に問うた。答えは簡単であった。「そのように決められているから」である。つまり,このクラスには「日直」という日替わり当番が決められていて,「起立,礼」という号令をかけることが仕事のひとつであると,その日の日直である男性が,きちんと起立して発言した。「私のせいじゃありません」というメッセージが全身から発せられていた。
次に,私は,この「起立,礼」をどう思ってやっているのかを問うた。何人かが手を挙げて積極的に答えてくれた。「初めは,学生みたいだと思った」「そういうふうに決まっているから行っている」「やらされている感じが強かった」等という発言に続いて,「私たちは資格を取ることが目的で来ている。その過程でこうしたことがあって,おかしいと思っても,目的を達成すればよいのだから従っている」「教員に,反抗的な学生とみられたら成績に影響するので,教員の目を気にしている」という。成人学習者たちは四方八方を考えての「起立,礼」の実行であった。
その次の私の関心は号令係である「日直」にあった。日直の仕事はあらかじめ決められていて明文化されている。このコースに入学したら日直を順番にしなければならないことになっている。当然のこととして。
日直は2人ずつ交替で務める。まず,教卓のマイクの電源を入れ,机を拭き,講師用の水とおしぼりを準備する。さらに使用する資料を配布するとともに出席簿の準備をするといった「授業前の準備」がある。また,教員からの「連絡事項の確認と伝達」が重要な任務であり,これが不徹底だと教員から注意を受ける。その他,「教室の机・椅子の整理」「空調,照明,プロジェクターの操作,ホワイトボードの準備」「後片付け」など学習環境の調整から,「昼食時のポットの用意」や,「当日締め切りの提出物の確認と提出」「講義日誌をつける」など,受講生の“身の回りの世話”も含まれる。そして,講義終了後の任務も,「電気器具を確認し,研修室の消灯,エアコン,パソコン,マイクの電源を切る」など細かく規定される。むろん,これらの仕事は無給であり,日直には責任だけが課せられる。彼らは,しかしながら,受講料なしで来ているわけではない。教育というサービスを,対価を払って購入している,いわば顧客である。
「顧客」は誰か,「学習の雰囲気」をいかにして形成するか
継続教育において,受講生が“させられている”講師や同僚たちの強制的な“身の回りの世話”業務を,顧客と成人学習という観点から考察したい。
ドラッカーの『マネジメント 基本と原則』(上田惇生編訳,ダイヤモンド社,2001年)の第一章で,「顧客は誰か」が論じられる。「『顧客は誰か』との問いこそ,個々の企業の使命を定義する上で,最も重要な問いである」が,しかしこれは「やさしい問いではない。まして答えのわかりきった問いではない」と述べた上で,「しかるに,この問いに対する答えによって,企業が自らをどう定義するかがほぼ決まってくる」という。しかも,「企業の目的と使命を定義するとき出発点は1つしかない。顧客である。顧客によって事業は定義される」とし,「われわれの事業は何か」との問いに答えるには,顧客からスタートしなければならず,「顧客の価値,欲求,期待,現実,状況,行動からスタートしなければならない」と強調している。
ノールズは「アンドラゴジーとは何か」における〈定義への示唆〉の最初に,「学習の雰囲気」を論じている(堀薫夫・三輪建二監訳,成人教育の現代的実践,鳳書房,2002年)。成人としての自己概念は,成人学習につながる環境の要件にかかわってくるものであり,成人がくつろげる物的な環境を整えることが重要である。さらに重要となるのが心理的な雰囲気であるとしている。「成人が受容され支持されていると思える雰囲気が大事」であり,「そこには,教師と生徒との間に共同探求者としての相互性の精神がある」。さらに,「しかしながら,他のいかなる要因よりも,学習の雰囲気のあり方により大きな影響を及ぼすのが,教師の行動である」と述べ,「生徒への関心や尊敬の意を示す態度で接しているか」が教師には問われる,と指摘している。さらに,人はある組織に入ると,比較的早いうちに次のようなことを感知するという。「ここは人間のことを考えているのか,物のことを考えているのか。ここは人びとの感情や福祉に関心を示しているのか,それとも人びとを家畜の群れのように思っているのか。成人を依存的なパーソナリティの持ち主として見ているのか,それとも自己決定的な人間として見ているのだろうか」と。
成人学習者たちを「起立,礼」に従わせ,本来,主催者側がすべきサービスを「日直」に指示して行わせる体制は,成人学習者たちの「学習の雰囲気」の形成に成功しているとは思えない。
休憩を挟んで2コマ目のクラスで,再び「起立,礼」と号令を発した日直に,ざわめきと苦笑が起こった。
(つづく)
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