医学界新聞

寄稿

2013.01.14

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
めげずに失敗し続ける!!


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか。ミスをして指導医に怒られたり,コミュニケーションがとれなくて落ち込んでいませんか? “Our business in life is not to succeed, but to continue to fail in good spirits(人生における仕事とは,成功することではなく,めげずに失敗し続けることだ)”。これは『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』を書いた英国の小説家,R. スティーブンソンの言葉です。失敗から自信を失くしてしまうこともあるかもしれませんが,そうした経験を重ねることで一人前の医師に近づくのでしょう。

 今回お贈りする新春恒例企画では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど,“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あのころを思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
中里 信和
切池 信夫
行岡 哲男
上野 文昭
松村 理司


ベテラン看護師のひと言「私が見てますからやりなさい」

中里 信和(東北大学大学院教授・てんかん学分野)


(1)脳神経外科に入局3か月目,地方での研修が始まりました。科長は手術の達人で人間的にも素晴らしい方でした。外来担当のベテラン看護師Kさんは手術の助手も務めます。ある日の臨時手術で山場を過ぎたころ,科長は「中里,閉めて(=閉頭して)おけ。Kさん,後はよろしく」と言い残して,地元のスポーツ少年団に剣道を教えに出かけました。私の術者としての腕前を信用したのではなく,Kさんを信頼しての言葉でしたが,私にとっても良い経験となりました。

 次に病棟師長のAさん。科長が学会で,新人の私が留守番の日でした。血管撮影中で手が放せない私のそばに来たAさんの言葉。「回復室の方の顔色が悪いので動脈採血し,酸素3L開始しました。データはこれです。他にご指示を」。また別の留守番のときに,気管内挿管を気管切開に切り替えなければならない事情が生じました。私は気管切開の経験は助手としての一度だけ。しかしAさんは「私が見てますから,先生やりなさい」のひと声。なんと心強かったことか。

 現在,私の夢は,てんかんの包括診療体制を築くことです。医師以外の職種の方々に,存分に力を発揮してもらいたいと願っているのは,こんな研修医時代を過ごしたからかもしれません。

(2)脳神経外科の主任教授,故鈴木二郎先生です。海軍兵学校出身で,何かを成し遂げようとする精神力の強さと,人に愛されるちゃめっ気を合わせ持つ方でした。まだ学生だった私が医局登山に参加したときのこと,鈴木先生は還暦近かったはずなのに,現役スピードスケート部員の私と一緒に,先頭を競争しながら走って山道を下ったのでした。岩や水の流れをヒョイヒョイよけながら「中里! 人間の小脳ってのは素晴らしいな」と叫ぶのでした。このひと言で,脳を勉強しようと心に決めたようなものです。

(3)スティービー・ワンダーの「Overjoyed」(1985年)は,研修2年目,私が結婚した年のヒット曲です。「時間を超えて僕は愛の城を作る」という歌い出しです。4年後,ロサンゼルスに留学し初めて高速道路に乗ったときに,この曲がFMから流れてきました。片側8車線の405号フリーウェイです。留学できたことへの「あまりの喜び(=overjoyed)」に涙が出ました。

(4)どんな道に進むにせよ,自分がやっていて楽しく充実していると思える仕事なら,その人は幸せですね。くれぐれも自分を偽らないように生きてください。


「都市ガスを採ってくれ」?!

行岡 哲男(東京医科大学教授・救急医学講座)


(1)私は1976年に東京医大を卒業して,すぐに当時の阪大病院・特殊救急部で研修を始めました。その数日後のことです。

 特殊救急部の病棟で,重症患者の病床のそばで先輩から「ガスを採ってくれ。できるな?」と5 mL容量の注射器を手渡されました。まだプラスチック製注射器がない時代です。ガラスの筒内には何も入っておらず,針も付いていません。何だか内側はぬれていました。へパリン化されていたのですが,これもわかりませんでした。「ガス」と聞いて「都市ガス」がまず頭に浮かびました。ここで確認するか,「なぜ都市ガスを注射器に採るのですか?」と聞けば良かったのですが,これを怠った私は「はい」と答えました。

 そのころの病院には病棟に都市ガスの配管があり,テーブルの上にあるガスコックにホースをつなぎ元栓を開けば,その場でガス器具が使えるようになっていました。このガスコックの先は,ちょうど注射器の先がつなげそうな大きさでした。私は注射器を渡され,しばらくその場で考えていたのだと思います。やがて病棟の端のガスコックに向かって歩いて行きました。さすがにいきなり注射器をガスコックに差し込み元栓を開くことはしませんでした。「何mLか聞き忘れた。少量採るのは難しそうだ。さて,どうするか?」と考えながら,ガスコックの前でたたずんでいました。

 血液ガス分圧の測定のために動脈ラインの三方活栓からの血液採取を指示した当の先輩だけでなく,周囲の人たちにとっても,患者さんのそばから離れて病棟の端にたたずむ私の行動はとても奇妙に映ったことでしょう。近くにいた別の先輩が心配したのか,「どうした?」と声を掛けてくれました。「これどうつなげば良いのでしょうか」という意味のことを聞いたのだと思います。その先輩は,あきれつつも病床のそばまで私を連れ戻し,三方活栓からの血液採取の方法を教えてくれました。

 「?!」と思ったら,大事なのはその場で聞くことです。後になると,その時点の文脈がつかみ難くなり,聞かれた側が答えに戸惑うこともあります。そして聞いて確認したら,後で構わないので自分で関係することを調べることも大事です。私は学生のころ,「血液ガス」という言葉の意味が良くわかりませんでした。さらに「分圧」という表現がこれに続くことの意味も理解できていませんでした。この恥ずかしい出来事をきっかけに,自分で調べ血液ガス分圧の意味がやっと理解できました。皆さんは「血液・ガス分圧」という意味を理解していますか? もし理解していれば,私のような愚かしい誤解をする可能性は低くなるはずです。

(4)『徒然草』を書いた兼好法師は,第52段を「少しのことにも,先達はあらまほしき事なり」(些細なことでも指導者が必要なものである)と結びます。「聞くは一時の恥,聞かぬは一生の恥」とも言われますが,全くもってその通りです。


16年かかったジグザグ「研修」

松村 理司(洛和会音羽病院院長)


(1)医学部卒業は1974年。学生時代は,大学紛争の雰囲気に非主体的ながら巻き込まれた。無期限バリケードストライキが連発された「校風」だったので,無学ぶりはひどいもの。失恋も経験したが,大学離れを一層助長させる始末。当時はCBTやOSCE自体がなく,個人的な事情で学校に3年間通わなくても最終学年になってしまっていた。結局,種々のカンニングに頼ることになった次第。それなのに,「小医は病を癒し,中医は病人を癒し,大医は国を癒す」という言葉に踊らされてしまい,どこかの発展途上国で「中医-大医」をめざそうと傲慢にも夢想した。卒業後に,アッペ,ヘルニア,ヘモのごく基礎的な外科修練を手っ取り早く終えてから。

 研修は,肺外科から始まった。外科半年と麻酔科1年と肺外科半年の3科のローテーションプログラムで,順番は偶然だった。しかし半年では,病人どころか,簡単な病も癒やせないのを痛感。なんとか早く,せめて小医にならなくてはとの思いに駆られ,肺外科に沈没することになった。正味9年間。その後の約10年間も後輩医執刀の肺手術の介助に従事した。

(2)沖縄県立中部病院の呼吸器科部長だった宮城征四郎先生との巡り合いは82年だった。私の当時の赴任先病院にたまたま来られたのだった。私は肺外科医のままだったが,同院呼吸器系が呼吸器科でくくられていたので,呼吸器内科にも少しはかかわっていた。先生の醸す雰囲気には,病歴・身体所見重視,過剰検査排斥,文献渉猟,教育重視の姿勢が濃厚だった。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と強い感銘を受けた。その際に,総合診療の名医ウィリス先生(G. C. Willis)の存在についても聞き及んだ。

写真 1990年春,ウィリス先生(最前列中央)と舞鶴市民病院のメンバー。
 その後,米国に遊学する機会を得て,その間隙にモントリオール総合病院救急部に勤務中だったウィリス先生との邂逅を果たせたのが83年の末である。「心の恩師」であった日野原重明先生の口添えもいただき,ウィリス先生を勤務先の市立舞鶴市民病院に招聘できたのが,86年初頭になる。幸いにもウィリス先生は,以後4年以上に及ぶ舞鶴滞在になったのだが,その間に先生から学んだ医学知識・技能や医学的たたずまいが,私の総合診療の基礎のほぼすべてを占める。だから,現在総合診療医である私の研修は,1990年の春にやっと終了したことになる。卒業後16年(!)の晩生(おくて)だった。

 実に長い,ジグザグの「研修」時代であった。気が付くと,アッペ,ヘルニア,ヘモの修練はまったく受けていない。発展途上国での医療も,1日も経験していなかった。

(3)和田アキ子の歌(「どしゃぶりの雨の中で」「笑って許して」「あの鐘を鳴らすのはあなた」)を聴くと,懐かしくなったもの。歌声を聴くたびに「今も声が同じ!」と思うのは,和田さん(旧姓:金海さん)が小学校の同級生だから。

(4)「人間万事塞翁が馬」人生には,約10年ごとに好不調の波があるもの。「出藍の誉れ」若手医師が育つのはうれしいもの。


患者さんに信頼してもらう大切さ

切池 信夫(大阪市立大学名誉教授)


(1)私は,1971年3月に大阪市大医学部を卒業した。それはインターン制度廃止と研修医の待遇改善を求めての運動が東大から始まり,全国的に波及した全共闘運動が終焉した一年半後のことである。それまでは,一年間の無給インターン終了後に国家試験を受け,合格後に自分の進みたい専門科に進むという制度であった。それが,卒業後直ちに医師国家試験を受けて医師免許を得て,専門科で2年間の臨床研修を行う新制度に変わっていた。私は,内科や外科を研修せず,すぐに精神医学教室に入局して,精神医学のみの臨床研修を行った。しかし,内科の勉強も必要と考え,4年先輩の内科の先生に相談して,週2回救急病院の2人当直のうちの1人として随行させていただいた。大阪市内にある民間の総合病院では,内科2人,外科2人の計4人の医師が当直していた。私は先輩の助手で,何もわからず指示に従って動いていた。夜中に最低4-5人は搬送されてきた。発熱,腹痛,喘息の発作,過換気など,救急車のサイレンの音が鳴るたびに身構え,音が去っていくとホッとしたものである。うつらうつら眠れればラッキーな日で,こんな生活が半年間近く続くと,日中でもボーとすることが多くなり,辞めた。その間のことで今でも覚えていることは,夜中1時ごろ,意識障害で運ばれてきた患者が脳出血で,チェーン・ストークス呼吸をしており,常勤医がくる朝まで,先輩と交代でアンビューバッグを手で押し続けたことである。その患者さんは朝までなんとか持ちこたえたが,その日は手と指の筋肉痛とでもいうか,指にバリバリとした痛みが残って思うように動かなかった。そして当直を辞めてからもサイレンの音に敏感で,ドキッとすることが続いた。そのときつくづく内科や外科には向いていないなと思ったものである。

写真 研修医3年目のころ。看護師さんと一緒に。
(2)そのころの精神科は大学紛争の煽りで医局を辞めた先輩も多く,また学生には人気のない科であったので,入局したのは私が一人であった。教授から私まで数えて総勢8人,先輩たちは外来,病棟と忙しく,医局はいつも閑散としていた。半年後,研修医の私にも週二回の外来診察を任された。今から考えると,随分無謀であったが,ただ度胸だけは確実についていった。そしてある日の外来で,不眠や不安を主訴として受診した患者さんを診察した。私は神経症と診断してマイナー・トランキライザーを中心に投与し,受容的に接し,熱心に話を傾聴した。しかし3か月,6か月たっても症状は改善せず,患者さんのさえない表情が続いた。結局講師の先生に診てもらった。その結果,幻覚や妄想があり統合失調症と診断され,抗精神病薬を投与した。その後比較的速やかに幻聴が消失して妄想もなくなった。改善してから患者さんが語るには,若い新米の私を信頼できず幻聴のことを告げると「気狂い」と診断され一生病院に入院させられると思って黙っていたとのことである。このとき精神科医は,患者さんとの間に信頼関係を早期に築くことが何よりも大切なことだと思い知らされた。

(4)「人上錬磨(人に接して学ぶ),事上錬磨(己の体験に学ぶ),書上錬磨(書に接して学ぶ)(野間清治)」という言葉があります。このようにバランスのとれた学習をしてください。そして疑問をもつ能力を育ててください。


「ここでは頭は要らない,首から下を鍛えてこい!」

上野 文昭(大船中央病院特別顧問)


(1)内科研修でマッチした米国南部の名門チュレーン大学の基幹研修病院Charity Hospitalはすさまじい病院で,特にERは1日3000人,外傷だけで月8000人というまさに戦場でした。頭に斧が刺さったまま歩いてくる患者や,待合室で「早く診ろ」と叫んでいた患者が胸を撃たれていたなどは日常茶飯事でした。

 ある日ER経由で入院した心不全の黒人女性は,測定できる体重計がないためストレッチャーごと体重を測るほどの超肥満。その後病棟に運び,ストレッチャーからベッドに移そうとしたときのことでした。一緒に患者を抱えたのは屈強な先輩レジデントと,丸太のような腕のナース。一番重みに耐えきれなかった私がよろめいて,床に落ちそうになった患者は,なんとベッドサイドにあったロッキングチェアにすっぽりはまってしまいました。「心不全だから起座位でも大丈夫か」と,その状態で診ているうちに,患者は心停止。即座に心臓マッサージを開始しましたが,ロッキングチェアの上でうまくできるわけがありません。先輩が胸を押し,私が椅子の背を後ろから支えながら蘇生を試みました。その後先輩から「ここでの研修では頭は要らない,首から下を鍛えてこい!」と大目玉を食らったのが印象に残っています。

(2)レジデント時代に出会い,今でも私の内科医としての人生に影響を与え続けているのがバーチ教授(George Burch)です。日本にいたころ教科書や論文でその名前を知っていたバーチ教授は,高名な心臓病研究者の印象でした。しかし,実際に出会って,真の臨床家として筆舌に尽くしがたいインパクトを受けました。彼は24時間365日医学のため患者のために生きていました。私が厳しい質問の答えに窮すると「週末何をしていた? 映画館では医学は学べない! ピクニックでは医学は学べない!」と,一切の遊びを否定します。この点はとてもついていけませんでしたが,感銘したのは患者を思う気持ちです。ベッドサイドの診断がほとんどすべてで,私がオーダーした心エコーひとつでも,患者アウトカムに影響しないとわかると激怒しました。侵襲的検査にいたっては,“Christ!”の一語で無視します。検査をしないで診断するのがその道の専門家であるという姿勢は,今でも私の心に刻まれています。

(3)この特集“In My Resident Life”はアルバム“Rubber Soul”に収められたジョン・レノンの名曲“In My Life”をほうふつとさせます。ビートルズといえばリバプール。当地で熱狂的な人気を集めているのがLiverpool Football Club(LFC)です。スタジアムを赤一色に埋めた数万人のLFCファンが大合唱するのが“You'll Never Walk Alone”。1963年にリリースされたこの曲はLFCの応援歌となり,UKヒットチャート1位となりました。「嵐の中を歩くときも,上を向いて,暗闇を恐れずに……君一人じゃない,いつもみんな一緒なんだ」。辛い研修医生活も仲間に元気づけられ,この歌を口ずさみながら乗り切ることができました。

(4)若い研修医は日々成長します。自分の努力もあるでしょうが,それだけではありません。指導医は言うに及ばず,同僚,後輩,他の医療職,そして患者から教わることは少なくないはずです。周囲のあらゆる人たちに感謝の気持ちを忘れずに謙虚になることが,よい医師になるための必須条件と考えます。

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