医学界新聞

寄稿

2012.12.24

【寄稿】

近代医学の145年
『日本近現代医学人名事典【1868-2011】』の人々から

泉 孝英(京都大学名誉教授)


 今冬,刊行がかなった『日本近現代医学人名事典』は,わが国において西洋医学が公式に採用された1868年(慶応4/明治元年)から2011年(平成23年)までの約145年間に医学・医療に携わり,物故された人物3762人の記録集です。現在,医学領域を網羅しての人名事(辞)典は世にありません。出版史上でも1950年の『世界医学人名辞典』(木下正中著,医学書院,絶版)にさかのぼる程度だと思います。

 なぜ,このような書籍を企画したか。医学・医療に限らず,すべての人々の仕事は,先人の業績の上に成り立っているとの前提からです。先人の生き方や想い,その成果を1冊の本にまとめることは,誰かがその次の仕事をなすときに大きな参考になると考えました。本事典の刊行準備が大詰めを迎えた2012年10月,ジョン・ガードン博士(ケンブリッジ大),山中伸弥教授(京大)のノーベル生理学・医学賞受賞の朗報に接し,ますますその思いを強くしました。

 わが国の医学史では,北里柴三郎,志賀潔,あるいは野口英世といった方々の名はよく知られていますが,本稿では,私なりの観点から「長与専斎」「早石実蔵」「花房秀三郎」の3人を通して,本事典が対象としたわが国の近代医学約145年間のあゆみを紹介したいと思います。

長与専斎(1838-1902年)

長与専斎氏
(国立国会図書館ホームページから転載)
 肥前(長崎県大村市)の漢方医の家に生まれ,大阪で緒方洪庵の適塾塾長を務め,長崎にてポンペ,ボードウィンに学んだ蘭方医でした。維新後,文部省に出仕し,1871年の岩倉使節団に随行して海外の医学教育・医療制度を視察,帰国後,36歳で文部省医務局長に就任しています。厚生労働省のない当時,日本の医療はまず,教育を司る文部省の管轄として始まっています。医療行政が内務省に移管された後も,衛生局長(「衛生」という訳語を採用し,局名改称)として,18年余の長きにわたってその責任者を務めました。わが国の"医療福祉の祖"にあたる人物です1)

 この間,1874年には太政官通達として「医制」(現在も続く医師法・医療制度の根幹)を定め,衛生行政機構,ドイツを範とした医学教育,医師開業免許制度の確立に貢献しました。コレラの死者が1879年,86年 にそれぞれ10万人を超えていたことに示されるように,彼が生きたのは急性伝染病対策,未整備な環境衛生対策に追われた時代でした。

 専斎は多くの子息に恵まれ,中でも三男の又郎(病理学者)は東京帝国大学総長になりました。1938年に,荒木貞夫文相から「総長官選案」を示された際は,大学の自治権を守るために戦い,荒木の案を撤回させて自らは総長を辞任しています。2004年に「国立大学法人化案」が,大学人の抵抗少なく実施された当時,私自身はすでに京大を退官した身ではありましたが,又郎の気骨を追想し,悲しくも寂しくも,不安にも感じたことでした。

早石実蔵(1882-1977年)

 明治・大正人の意気軒昴ぶりを示す格好の人物です。彼の時代は,わが国において急性伝染病の猛威が少しは収まり,慢性伝染病である結核,ハンセン病対策に着手されようとする時期でした。また,外科手術が本格化しようとしていました。

 実蔵は丹後(京都府宮津市)出身です。上阪して18歳で医術開業試験に及第,7年間宮津で開業の後,27歳で渡米してバルチモア医大で学び,米国各地で外科修業,開業もした後,1922年に渡欧,各国の外科視察の後,ベルリンのコッホ研究所で研究に従事。ドイツ医学雑誌に論文3編を発表しています。さらに米国メイヨー・クリニックを視察した上で帰国。大阪に早石病院を開設しました(写真)。まったく目を見張る努力家でした。その三男は,酸素添加酵素の発見者として知られる早石修先生です(大阪バイオサイエンス研究所理事長,京大名誉教授)。父君の在米中,カリフォルニアで生まれた修先生は,戦後間もない1949年に再渡米され,58年に京大教授に就任のため帰国されています。当時,医学部在学中だった私は,折よく医化学の試験をその前任教授の時期にパスしていたから良かったものの,再試験組になっていた同級生たちは修教授の厳格な口頭試問に遭遇。「ひどい目にあったなあ……」が今も同級生同士の語り草となっていることです。

写真 早石実蔵氏
左:米国開業時の院長室で。
右:1929年7月,大阪船場での早石病院開業時の一枚。自動車後部座席奥が光子夫人,手前が三男の修氏(当時9歳)。
(写真提供:早石修氏)

花房秀三郎(1928-2009年)

花房秀三郎氏
(提供:最新医学社)
 戦後のわが国はドイツ医学からアメリカ医学へと大きな転換をしました。高度経済成長に支えられた生活環境の改善と抗生物質・抗菌薬の開発・普及により,伝染病(感染症)は激減し,医療の対策は,成人病・生活習慣病,癌対策の時代となりました。発癌をめぐって癌ウイルスが脚光を浴びた1980年代,世界の医学界から"ノーベル賞に最も近い日本人"と評価されていたのが,兵庫県出身の花房先生です。

 私は,1994年に雑誌『最新医学』で連載「海外の日本人――医学・医療」(海外で活躍中の日本人医師24人との対談シリーズ)を企画し,花房先生と対談する機会を得ました。シリーズの目的は,「どうして日本ではノーベル生理学・医学賞の仕事が生まれないのか」を考えることでした。花房先生は,ラウス肉腫(1911年発見)を用いて「癌ウイルスの持つ遺伝子が正常細胞内に存在する」との発見・報告(1977年)に至るまでに研究の歩みを淡々と語られました。その際,残念がっておられたのは,ラウス肉腫と同じころに発見され,先生が研究対象にしようとした藤浪・稲本肉腫(1910年発見)が,日本には残っておらず,外国(チェコ)で保存されていたことです。先生の共同研究者であった照子夫人は,「藤浪肉腫を忘れ去った事実の根底には,学問は,欧米の先例を追い,それに頼っていればよいという,科学者の安易な考えもあったことを否定することはできない」という厳しい言葉を残されています2)。そうした事実が,わが国の現代医学の背景にあることを忘れてはならないと思います。

 2012年,わが国からもノーベル生理学・医学賞に値する成果が初めて生まれていたことが,山中教授の受賞によって証明されました。明治初期,30歳前後であった国民の平均寿命は,今や80歳前後と,世界で類を見ない長足で超高齢国家になりました。急ぎ足,と言うのは「ゆがみ」を伴います。解決すべき多くの問題を含んでいます。外国に範を求めた時代は過ぎ,わが国自身が世界に範を示すべき時代が到来しています。

 本書の中から,わが国の医学・医療の領域において,それぞれの時代で頑張られた先人たちの志を私たちが見いだし,引き継ぐごとができればと思います。

参考文献
1)外山幹夫『医療福祉の祖 長与専斎』思文閣出版,2002年.
2)花房照子『細胞ががんになるとき―――がんウィルスの遺伝子をめぐって』講談社,1978年.


泉 孝英氏
1936年徳島県生まれ。60年京大医学部卒,65年同大学院修了。同年同大結核研究所附属病院助手,67年米国ロックフェラー大,71年スウェーデン・カロリンスカ病院留学。京大結核胸部疾患研究所助教授を経て,89年京大教授(呼吸器病学)。同大胸部疾患研究所長/附属病院長,米国胸部学会諮問委員,欧州呼吸器学会国際委員を歴任。98年米国胸部学会会長賞受賞。99年退官。現在は公益財団法人京都健康管理研究会・中央診療所理事長として外来診療に従事している。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook