医学界新聞

寄稿

2011.11.14

寄稿

脳神経病理データベースを用いた
教育・診断支援の試み

新井信隆(東京都医学総合研究所 脳発達・神経再生研究分野分野長)


 今年の春もいつもと変わらず桜のつぼみは開いたが,東日本大震災の収束の道筋すら見えぬ日々を,1か月後に控えた新研究所()への移転の準備に追われて過ごした筆者には,今となっては桜吹雪の残像すらない。特に,先達の手によって約40年間にわたり作製された2000余例の膨大なヒト大型脳病理標本の梱包作業は,1989年からの自身の研究所生活をたどる行程でもあった。

都医学研・脳神経病理データベースとは

 あれから半年。何事もなかったように,新しく整備された脳病理標本室の電動棚に整然と並べられた標本は,画期的なデジタルスキャン装置(バーチャルスライド機器)により超高画質デジタル情報となり,東京都医学総合研究所(都医学研)・脳神経病理データベースとして津々浦々に張り巡られたICT(情報通信技術)によって全国に発信されようとしている。

 本稿では,旧東京都神経科学総合研究所(旧都神経研)の研究資産によるこのユビキタスな教育ツールのコンテンツが,神経系疾患の教育・診断分野で利活用されるロードマップについて概説する。

ユビキタスな仮想検鏡コンテンツ

 バーチャルスライド(あるいはバーチャルマイクロスコピー)はガラス標本を高精度デジタルスキャンする機器であり,近年,厚生労働省「がん診療連携拠点病院に対する遠隔画像診断支援事業」により主に全国のがん拠点病院に100台ほど導入されてきた。現在,国内外の複数社がベンダーとして互いに切磋琢磨している状況であるが,性能的には一定水準をクリアした段階に入っている。スキャンデータ量は膨大であり,例えば脊髄横断面を40倍でスキャンすると,イメージサイズはおおよそ5GB程度の大容量データとなり,顕微鏡デジタルカメラの精度の比ではない。このデータをアップロードしたサーバーに遠隔からアクセスすると,自身のPCモニター上で画像を閲覧することができ,倍率を変え視野を移動させたりすることができる(仮想検鏡)。この機器の使用目的は,日常の病理診断業務におけるリモートコンサルテーション(テレパソロジー)のほか,データベース作成によるe-learningデバイスとしての活用がある。後者の場合,コンテンツが充実しているかどうかがクリティカルである。

 その点では,都医学研には,前身である旧都神経研のコレクションとして,先天性脳奇形,周産期脳障害,乳幼児期に発症する比較的まれな神経疾患,青壮年期発症の運動障害性疾患,老年期の認知症を来す変性疾患のほか,代謝性疾患,炎症性・感染性疾患,外傷,循環障害,中毒性・栄養障害性疾患など,ほとんどすべての神経疾患カテゴリーを網羅したリサーチリソースを保管しており,豊富で偏りのない比類なきデジタルコンテンツを提供することが可能である。また,多くの神経変性疾患は蛋白のコンフォメーション異常症であることが明らかになりつつあるが,既存の疾病をタウ,シヌクレインなどの蛋白別にメニューを作っている()。

 データベースにおける「アルツハイマー病/側頭葉」画面

卒前医学教育における活用

 2002年度から順次導入された「医学教育モデル・コア・カリキュラム」によって,医学教育の内容は変貌を遂げている。分子生物学研究の進展によって日々見いだされる知見の吸収,臓器別による基礎・臨床融合型カリキュラムの習得,ベッドサイドスキルの修練などに当てるエフォート率がいっそう高まり,いわゆる基礎的な"実習"に費やされる時間が激減している。また,医学部定員増により学生当たりの顕微鏡数やスペースがますます不足し,それが"病理離れ"に拍車をかけている。しかし,医学部のカリキュラムにおいて,生体で生じているさまざまな防御・修復,変性・破壊のプロセスを形態として脳裏に焼き付けることは,医師や研究者の思考や意思決定に,幅や深みを持たせるために必須ではないだろうか。アカデミックな"実体験"にアクセスする今日的なツールとして,病理画像のデータベースを構築し普及させる意義は大きいはずである。

 同じ部位(例えば海馬)で,正常像とさまざまな病理像をモニター上で並べて供覧することにより,側頭葉てんかんの海馬硬化,認知症群の海馬病変,循環障害による海馬虚血など,それぞれの好発部位などの特徴を整理して勉強することが可能となる。脊髄では,運動ニューロン疾患の錐体路変性,栄養障害性の後索変性,頸椎症による病変など多岐にわたるが,正常解剖と同時に実習することの効率性は高い。

 従来のカリキュラムでは,正常解剖と病理像の実習に1年ほどのタイムラグがあり非効率であったが,デジタル標本ならば,比較的簡単に学生自身のPCモニター上(つまり顕微鏡下と同様)に引き出すことができるわけであり,箱にかぶったホコリを払い,古い標本に生えたカビを拭き落とし,また染色が退色してしまった標本に心眼を凝らして対峙しなければならないストレスからも,解放されるに違いない。

エキスパート医養成の自己学習教材として

 神経系疾患をカバーする臨床医には神経内科,小児神経科,脳神経外科などがある。それらの学会では専門医・認定医取得の要件の一つとして,中枢神経病理,末梢神経病理,および筋病理の知識を要求している。旧都神経研では,夏期に35年連続して「神経病理の基礎と臨床」という4日間のセミナーを行ってきた(今年から「神経病理ハンズオン」に改名)。これは受講者各人に1台の顕微鏡を用意して豊富な検鏡体験をする,"力仕事"の実習コースであるが,受講者は神経系学会の専門医・認定医の受験を控えた方が多い。また,脳神経系に関する法医病理学の研鑽を目的とした法医学者もほぼ毎年受講している。このようなそれぞれの領域のエキスパートのための自己学習コンテンツ集の作成を,関係学会とも相談しながら進めていきたいと考えている。また,いわゆる総合医にとっての生涯研修としての活用法を模索していきたい。

診断基準コンセンサス作りにも有用

 筆者は難治性てんかんの脳外科手術による焦点切除部の病理診断のコンサルテーションを多く受けている。それらには脳形成異常や海馬硬化に関する,診断基準がやや曖昧な病理像がいくつかある。脳神経病理データベースは,そのような診断困難例の病理画像を複数の専門家が閲覧し,診断コメントを集積することにより,一定のコンセンサス作りのツールとなり得る。International League Against Epilepsy (ILAE)のNeuropathology Task Forceや,筆者がオーガナイザーとなっている「てんかん外科病理診断フォーラム」(日本神経病理学会)でも同様のツール利用を始めているところである。

 以上,都医学研における脳神経病理データベースとその展望を概説した。脳神経病理データベースは,卒前医学教育から専門医養成,さらには神経疾患の診断基準作成においても強力なツールとなる可能性を秘めている。多くの医療者に,このデータベースを利活用してもらえれば,筆者としても望外の喜びである。

:東京都医学総合研究所(都医学研)は,東京都の医学系3研究所が統合し,2011年4月1日に新たに開所した施設。発足の経緯および代表的な研究活動については,7月に開催された開所記念シンポジウムを取材した本紙2941号をご参照いただきたい。


新井信隆氏
1982年横市大医学部卒。同病理学教室を経て,89年から都神経研,ロンドン大で神経病理研究に従事。11年都医学研の開所時より現職。脳病理標本リサーチセンター統括マネージャー。日本神経病理学会理事。主な著書に『神経病理インデックス』(医学書院)。
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