医学界新聞

連載

2011.08.01

高齢者を包括的に診る
老年医学のエッセンス

【その8】
The Geriatric Dilemma――転倒

大蔵暢(医療法人社団愛和会 馬事公苑クリニック)


前回よりつづく

 高齢化が急速に進む日本社会。慢性疾患や老年症候群が複雑に絡み合って虚弱化した高齢者の診療には,幅広い知識と臨床推論能力,患者や家族とのコミュニケーション能力,さらにはチーム医療におけるリーダーシップなど,医師としての総合力が求められます。不可逆的な「老衰」プロセスをたどる高齢者の身体を継続的・包括的に評価し,より楽しく充実した毎日を過ごせるようマネジメントする――そんな老年医学の魅力を,本連載でお伝えしていきます。


症例】 87歳の虚弱高齢女性Fさんは京都の自宅を引き払い,一人息子のいる東京の老人ホームに引っ越してきた。変形性膝関節症を患い,特に左膝の腫れや痛みを日常的に訴えている。一点杖を持っているがほとんど使用していない。転居して2か月ほど経ったころ,自室で歩行中にバランスを崩して転倒し左股関節を打った。幸いにも骨折しなかったが,打撲症でその後数週間は痛みが残った。

「転倒」の専門家

 日々の高齢者診療において転倒ほど日常的に遭遇し,本人の心身に対するダメージが強く,医療機関受診や検査などの医療リソースの利用と関連している健康イベントはない。筆者が米国で老年医学を研修し始めてまもなく,「転倒」の専門家がいるのを知って思わず噴き出しそうになったが,彼らがNational Institute on Aging(米国加齢研究所)から多額の研究資金を継続的に提供され,運動生理学者や神経心理学者,理学・作業療法士などと精力的に日々研究を行っているという事実を知れば,米国の医療界がいかに高齢者の「転倒」を問題視しているのかわかる。

 欧米からの疫学報告では,65歳以上の地域在住の高齢者の3割以上が転倒を経験し,そのうちの10%が骨折や脳挫傷などの重篤な外傷を受けている。転倒は外傷の有無にかかわらず,老人ホーム入所の最大の危険因子である(JAMA. 2010 [PMID : 20085954])。

老年症候群としての転倒

 老年症候群(geriatric syndrome)は加齢による身体変化や慢性疾患,急性の身体や環境の変化が複雑に絡み合って出現する高齢者特有の病態であり,転倒やせん妄,尿失禁などがそれとして認識されている。

 私たちが普段何気なく行っている歩行や移動には,実に多くの身体システムがかかわっている。それらのなかには視覚や前庭機能,深部感覚をはじめとする感覚器,中枢または末梢神経系,心肺機能,筋骨格系などがあり,虚弱高齢者が転倒する場合には通常これらの複数のシステムに障害が起こっていることが多い。転倒の原因が内因性,外因性と多岐にわたり,そこに誘発因子が加わって転倒が発生するという説()はRubensteinらによって提唱された。この内因性リスクの蓄積が高齢者の転倒の基礎背景にあり,若年者と大きく異なる点である(Med Clin North Am. 2006 [PMID : 16962843])。

 転倒の要因とそれらの相互作用
Med Clin North Am. 2006 [PMID: 16962843]より改変。

 特筆すべきは,転倒の危険因子にはうつや認知機能低下などの老年症候群のみならず,うっ血性心不全やCOPD,糖尿病などの慢性疾患も含まれていることである。もっともそれらの疾患そのものの影響かそれ以上に服用薬物の影響が大きく,鎮静薬や向精神薬,抗うつ薬などの精神疾患系薬剤や抗痙攣薬,降圧薬は転倒と深く関連する薬物であることがわかっている。

症例続き】 老人ホームのスタッフによると,Fさんは最近元気がないという。食事以外は自室に閉じこもっていることが多く,摂食量も減っている。そういえば往診時に「なかなかここの雰囲気になじめない……」と嘆いていたことを思い出した。やはり京都から引っ越してきたことによる適応障害だろうか。

 Fさんはメガネを着用しているが,補聴器は使っていない。コミュニケーションもほとんど問題ない。ADLとIADLは買い物・外出以外ほぼ自立している。認知機能は保たれているが(MMSEスコア30点),軽度のうつ症状(GDSスコア7点)を認めた。歩行はやや前屈で上肢の振りが小さく,歩幅も小さいが,比較的安定しているように見えた。そんな折Fさんから,京都の自宅で転倒しそれがホーム入所の理由であることを告白された。

転倒外来=老化外来?

 筆者が留学していたミシガン大学老年医学センターでは「転倒外来」なるものがあり,そこでの研修は非常にインテンシブだった。限られた時間の中で,下肢の長さから深部感覚,認知機能,前庭機能に至るまで,一般老年科外来以上の包括的かつ詳細なアセスメントを求められた。この研修を通して,転倒は究極の老年症候群であり,その評価とはすなわち老化そのものの評価であることを実感した。また,評価を通じて発見した転倒危険因子には介入不能なものも多いが,介入可能なもの,例えば視力や聴力の矯正や,服用薬物の整理,環境整備などを積極的に行うことは重要であると教わった。

 現在,世界中でRCTなどの手法を用いて多岐にわたる転倒防止介入の評価が盛んに行われている(Ann Intern Med. 2010 [PMID : 21173416])。多職種による転倒防止総合プログラムのような多因子介入は,おそらく研究により介入方法が一様ではないために効果を検出しにくいのであろう。メタ解析にて運動やリハビリテーションプログラム,ビタミンD製剤の服用による統計学的な転倒防止効果が検出されているが,いずれの効果も臨床的には小さくコンプライアンスの問題もあり,実地臨床での有用性には疑問が残る()。また認知機能障害を持つ高齢者への介入の有効性は乏しく,転倒リスクや転倒防止がいかに認知機能に関連しているかをうかがい知ることができる(JAMA. 2010 [PMID : 20085954])。

老化の象徴としての転倒

 筆者は転倒のスクリーニング質問である,(1)過去一年間に転倒の既往があるか,(2)歩行やバランスに問題があるか(JAMA. 2007 [PMID : 17200478]) のどちらかに該当する場合,リスク評価を行い,それらへの介入後も転倒リスクが高いと判断すれば積極的に歩行補助具の使用を勧めている。

 多くの高齢者はいくら転倒の危険や,その合併症を説明しても「まだ大丈夫」「年寄りくさく見えるから……」と杖や歩行器の使用には消極的である。人間には「いつまでも機能的に自立していたい」という願望があり,多くの高齢者は杖や歩行器を使うことを「身体が老化し,もはや自立できない」ことの象徴であると考えるのだ。だめもとで「○○さんは杖を使うとより安定して若々しく見えますよ」「一緒にカタログを見ておしゃれな歩行器を購入しましょう」と声を掛けてみて,歩行補助具に対するイメージを変えてくれないかと願っている。

症例続き】 Fさんに眼科での視力矯正と整形外科での変形性膝関節症の加療を勧めた。またリハビリスタッフと相談の上,シルバーカーの使用を説得した。Fさんは「外を散歩したいから」とカタログから花柄模様のついているワイン色のシルバーカーを購入した。後日,ホーム近くの桜並木をお友達と楽しそうに歩いているFさんを見かけた。

Safety vs. Independence

 高齢者のなかには,転倒後にうつ症状を呈したりせん妄状態になったりする人もいる。このことは,転倒が身体的のみならず精神的にも多大なダメージを与えることを示唆している。多くの加齢性身体変化のなかでも,転倒ほど自身の老化や虚弱化を実感させられる人生イベントはなく,特に初めて転倒を経験した高齢者には,心理面での特別な配慮が必要だろう。

 転倒させないため(リスクを低下させるため)に歩行補助具を導入し「自立歩行(independence)」を妥協するのか,「転倒リスクの最小化(safety)」を犠牲にして自立歩行欲求を尊重するのか……。老年期の転倒による精神的ダメージやsafety vs. independenceのジレンマは,人間が2本足で直立歩行できるという他の動物にはない恩恵にあずかっている故の宿命であり,それらへの対応は転倒の予防と併せ,医療界だけでなく社会全体が真正面から取り組むべき重要な問題であろう。

つづく

:米国老年医学会のガイドライン上での推奨ビタミンD3服用量は1日800国際単位(IU)で20 μgに相当。日本に流通しているビタミンD製剤は通常0.5-1 μg。

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